36 手放したら手に入るものもある。
第二皇子クリスティアンはもともと皇帝にもなりたくなかった。皇子として産まれた責任は理解しているつもりだが。
自分はそういうことに向いた性格ではないと薄々は思っていた。
向いているのがすく近くに――兄のジークヴァルトがいるじゃあないかと思いもしたから。
数週間違いの兄のことはずっと気にしていた。産まれたときからきっとずっとだ。
彼が師を得たら自分も。
彼が剣を習えば自分も。
彼が馬に乗れば自分も。
いつもいつも、追いかけた。
兄に負けまいと頑張っては、その追いつけない差にいつも――。
けれど正妃である母やその親戚たちが。彼が皇帝になることを、とてもとても望んでいる。そのために母は当時まだ皇太子でない父に嫁いだのだ。
むしろ母を娶ればその後ろ盾で皇太子となれるという、父母の思惑が一致したのだ。
母の甘いところは同じような条件の女が自分以外にいると思わなかったことも。属国でも大国である側妃もまた、同じような思惑で父に嫁いでいた。
父の本当の愛は、ずっと幼馴染である女にあったというのに。
内心では、父は上手くやっていると思う。
父の愛よりも己の一族の地位を求めている女を選んで、そして本当の「妻」を守っているのだから。
けれどもその地位争いの誤算。
同時に仕込んでしまったこと。
こればかりは授かりものだから仕方がないと思うが。せめてもう数カ月後に自分を仕込んでくれよと思う。
まあ、均等に、差を付けずに、閨事をしなければならなかったのだろうところは察してやりはするが。
そういったところもクリスティアンは嫌だった。正直煩わしい。良く何人も相手にできるものだ。
正妃である母は、産む順番も数週間という差で側妃に負けたことも許せないのだ。お前が先に産まれてこればと、赤子のころから何度言われたか。
それに皇帝も未だに自分と同腹の妹をずいぶんと可愛がっているという話だ。その娘でありまた黄金色を引き継いだ姪や、その姪の子らもずいぶんと気にかけていると。
もしかしたら帝位争いはとんでもなく泥沼に――……。
「だから、本心では皇帝にはなりたくないのです」
それにどうせ帝位につけたとしても、母や親戚たちの良いようにとされるのが嫌だ。
自分はどうせお飾りだ。
そんなことを鬱々としていたら、届いた――開店のご案内。
一応は同じく帝位の座を狙っていると思っていた弟からの招待状。
母親の身分は低くとも、帝国の色を濃く受け継いでいる弟から。
隔世遺伝というものらしい。父は兄と自分と同じ青い瞳だったが、まさか父も自分たちも飛び越えてこの末弟だけに現れるとは。
もしも皇帝がその黄金色を贔屓して妹や姪を可愛がっているならば、一番優位にいる存在だ。
どうせ毒を盛られるなら、それすら上手く使ってやろう。
いっそ毒に倒れて、何もかも捨ててやろうかなんて気持ちで訪れたら。
「ぇいらっしゃい」
弟は帝国の血を強く引いた金橙の瞳を、本当に楽しそうに輝かせていた。
そして彼は好きなこと。
「料理」
それを兄である自分たちに振る舞ってくれた。
それはなんとも。初めての――未知の美味さ。
今では招待を受けて良かったと思うほどの。もう弟の振る舞いのない生活には戻れない。この楽しみがあるから仕事ができる。
日々を、生きていける。
――兄とも。
「美味いもの食って、腹割って話そうや」
そう言って、まず彼から話してくれた。
彼は料理が好きで、これからはその方に舵を切りたいと。そのためには皇帝なんてやっていられないと。
料理のために様々なことで帝国の役に立つからと。
属国の「冷蔵庫」の価値をとうとうと語り、そのおかげで食材も傷ませないでこうして自分たちに振る舞えるのだと――海老を。
海から仕入れてきた食材。
海老って海から採れるのかと、ひっそりと驚いたり。自分たちはそうした事も知らなかった。
ただ今年の漁獲量など、そうした書類の上でしか。卓上に並んでも何も考えないで食っていた。
調理法なんてことも何も。
なので弟が自分はこういった方面で働きたいから、帝位は二人でどうにか話し合ってくれというのも。その際はこうして自分をこの食の為に働かせてくれと、自分の価値を見せてくれたのだ。
確かに、これは手放すのが惜しい。既に海村などの復興も手掛けているというではないか。
役に立つ。
「人間には得手不得手ってもんがあるからよ。俺はどうも、人の上に立つってのは向いてねぇと思うんだ。こうして、美味いもんを振る舞いてぇだけだから」
そのためにならどちらが上になっても尽くしてくれると。
弟はつまり、どちらが皇太子に選ばれても良いというのだ。
……いや。
「せっかく兄弟に産まれたんだから、喧嘩しねえで仲良くしようや。なあ、兄貴たちよお!」
――良いなあ。
まず、そう思った。
喧嘩なんてしたくない。
それに自分も好きなことで生きていきたい。
そう、好きなことを――愛する人達と。
父に側妃もいるように。
結婚もまた皇太子の仕事のようなものだ。
そして皇太子になる条件は、後継――子がいることだ。
――私は。
「私、愛する人がいるのです」
「そ、そうか」
意外と兄が驚いていて、その反応にこっそり笑ってしまいつつ。
いや、弟もそうぶっちゃけるのかと驚いている。彼の母は父の真に好いた人であるから、この兄もそうなのかということで驚いているようだ。
「なので、私は嫁いで来てくれた女性と子をなせないと思ます」
白い結婚になる。
それを覚悟して嫁いできてくれる女性ならばよいが、そうでないならばずいぶんと酷なことをしてしまう。
「初夜の晩で「貴方を愛せません」だなんて言いたくないのです」
「うっわきっつ」
弟はどこでそんな庶民言葉を仕入れてきているのかと、まず兄たちは驚いたり。
彼らはまさか弟の中身が自分たちより年上の、その手の話には残念なおっさんであるとは思いもよらず。
だから不思議も不思議として置いておくしかなく。
「間違いなく母のように、地位目当ての女性でしょうね」
自分たちの結婚はそうなる。
「もしくは私と同じように、周りにそう言われて嫁いでくる……ような」
自分と同じように。
親の言いなりで、傀儡と――ただ跡継ぎの子を子を産むためだけに。
「だから、今のうちにそう公表してしまおうかなっ、と!」
わざと明るく。
そう「自分は子を作りません」宣言をしてしまえば。
母たち陣営は怒り狂うだろうが、そんな男に娘はやれんと思ってくれる人たちが少しでもいてくれたら良い。
少しでも巻きこむ人間を減らせたら。
「その間に兄上が一歩先んじてください」
先んじて。彼の母が、彼を先に産んだように。
「……良いのか?」
ずっと追いかけた兄と、久しぶりに近くにいられるのは、また弟のおかげだと感謝もする。
そう、ずっと追いかけて手が届かなくて――ここに何もかも手放すことにした。
「はい」
自分は兄の世になったらどうなるだろう。今までずっと、彼が皇太子となることを邪魔してきた母の陣営にいた自分だ。
きっと……――。
「クリスティアンは絵画や芸術に秀でているだろう?」
「え?」
「私が皇太子になったら、お前もフリードリヒのように得意分野で助けてくれないか?」
その方面で働いてもらいたいとジークヴァルトは素直な胸の内を明かした。
「私はどうも、その方面は苦手だから」
いつも絵を描いては、工作をしては、もう少し弟君のようにとその手の教師には言われていた。いや、あれは芸術家に哀れまれ嘆かれていた。
……それほど、だ。
「実は私は……花をみても「花だなぁ」とくらいしか思えないくらい……美的センスがない」
服や宝飾品も側仕えたちが整えてくれているから、今日の自分の姿になっていると、彼も腹を割って正直に。
「これも、フリードリヒが、見た目も良く盛り付けてくれているのだろうが……美味そうだな、としか」
「いや、俺の場合はそれで大正解だけど?」
「そうなのか?」
「まぁ、美味いって言ってもらえや……でも、うーん……大変だな、それも」
そうジークヴァルトが明かせば弟たちは、とくにクリスティアンは「そうだったんですか?」と驚いていた。
自分は反対に、いつも兄君のようにと言われていたのに。
「兄上、私のこと、知っててくれたんですね……」
「兄弟だから当たり前だろう」
「ふふふ……そうですね。兄弟ですもの、ね」
クリスティアンは追いかけていた兄の背中が、黒髪の後ろ姿が、案外近くにいたということにもまた気がつけた。久しぶりではなく、ずっと近くに。
手放すことを決意したら、まさか。
ああ、なんて――。
これもまた、美味いもののおかげだ。
そうして愛する人達のため、第二皇子クリスティアンは生涯独身を貫くと宣言をした。
それはすなわち、継承権の放棄。
けれども第一皇子はその弟を放逐せず――処さず、側近の一人として重宝したという。
それは末の第三皇子も。
彼らは常に、兄である皇帝の為に働き。
黄金と呼ばれた祖父の代すら越えることに。
第二皇子は甥や姪にいつも慕われ。彼の描いた兄弟家族の肖像画がいつまでも宮廷には飾られていたという。
ひとの強さとはひとそれぞれ。
愛の強さ。深さも。覚悟も。




