第五章 消えた子供達と親達の罪
【廃校舎:夜の灯影小学校】
ぼくはママたちに気づかれないよう、距離を取りながら後をつけた。
向かう先は、夕方までカノンお姉ちゃんと一緒にいた——
廃校舎・灯影小学校。
灯影小学校へ向かう道は、
昼間とはまったく別の場所のようだった。
空気が重い。
湿っているのに、どこか乾いている。
胸の奥に、冷たい指を差し込まれたような感覚が続く。
灯影小学校が近づくにつれ、
空の色が変わっていった。
黒い靄が校舎の上空から立ち昇り、
まるで空そのものを腐らせているようだった。
靄の中心に、
カラスが何十羽も渦を巻いている。
羽ばたくたびに、
月明かりが吸い込まれて消えていく。
風は生ぬるいのに、
時折、胸を刺すような冷気が混じる。
その冷気が吹くたび、
ぼくの背中に鳥肌が走った。
ぼくは胸ポケットに手を添え、
白雪を守るように歩いた。
雷斗たちを助けたい気持ちで胸が熱くなる。
その瞬間、白雪が小さく呟いた。
「・・・待ってて。」
白雪の体から、
冷気がふっと強まった。
その冷気は、
怒りを押し殺したときのような、
鋭く、静かで、刺すような冷たさだった。
そして白雪の瞳の奥に、ぼくは初めて見る感情を見た。
殺意。
友達を奪われた怒り。
黒幕への憎悪。
そして、
『絶対に取り返す』という覚悟。
白雪は、ぼくよりずっと先を見ていた。
でも、ぼくはまだ信じられなかった。
あの明るいカノンお姉ちゃんが雷斗たちを攫ったなんて。
それに——
ママたちの取り乱した様子。
“カノン”という名前を聞いた瞬間のあの顔。
ぼくたちの知らない“何か”を、
大人たちは知っている。
その不安が胸の奥で膨らんでいく。
そして——
灯影小学校が視界に入った瞬間、
ぼくは息を呑んだ。
そこに立っていたのは、
建物ではなかった。
校舎の形をした 巨大な死骸 のようであり、
同時に、
暗闇の中で 蠢く生き物 のようでもあった。
窓という窓は真っ黒に沈み、
その四角い闇は
無数の眼窩 のようにこちらを覗き込んでいる。
風は吹いていない。
木々も草も動かない。
なのに——
校舎の影だけが、ゆっくりと揺れていた。
まるで、
地面に貼りついた巨大な影が
呼吸している かのように。
吸って——
吐いて——
吸って——
吐いて——
影が膨らみ、縮み、
校舎全体が脈打っているように見えた。
正門の鉄柵は錆びつき、
月光を浴びて 血のような赤黒い光 を返している。
鉄柵の隙間から漏れる影は、
まるで 舌のように地面を舐めて いた。
胸元から白雪が顔を出す。
その瞳は、
いつもの無邪気さを完全に失っていた。
代わりに宿っていたのは——
覚悟と、怒りと、殺意。
白雪は、校舎の奥を睨みつけるように見つめた。
「・・・絶対に・・・助ける。
あいつだけは・・・許さない。」
夜気よりも冷たい白雪の声が、
ぼくの背筋を凍らせた。
正門が見えた瞬間、
ぼくの足は恐怖で勝手に止まった。
そのとき——
「・・・福大?」
背後から、
聞き慣れた声が震えながら響いた。
振り返ると、
雷轟パパ、黒羽ママ、そしてママが
蒼白な顔で立ち尽くしていた。
「なんで・・・来たの・・・?」
ママの声は、
泣き出す寸前のように震えていた。
「福大!! 戻れ!!
ここは・・・ここだけはダメだ!!」
雷轟パパが駆け寄り、ぼくの腕を掴んだ。
・・・その手は汗で濡れ震えていた。
「お願い・・・帰って・・・」
「福大君・・・ここは・・危ないの・・!」
大人たちの声は、
恐怖と焦りでぐちゃぐちゃになっていた。
ぼくは胸元の白雪を見る。
白雪は——
大人たちの声をまったく聞いていなかった。
ただ灯影小学校を睨みつけていた。
その瞳は、氷のように冷たく、怒りで震えていた。
「・・・来るよ。」
白雪が呟いた瞬間だった。
校舎の影が、正門の外へ『伸びた」
勢いよく。
音もなく。
風もなく。
ただ、黒い液体のように。
「・・・え?」
ぼくの足元に、
影が触れた。
次の瞬間——
影がぼくの足首を掴んだ。
「福大!!」
「離れなさい!!」
大人たちが叫ぶが、
影はぼくの足を引きずり、
地面に叩きつけるようにして引き寄せた。
ぼくは咄嗟に白雪を胸元から放り出した。
「白雪!!逃げて!!」
白雪は空中でくるりと回転し、
大人たちの足元に着地する。
その瞬間、
白雪の周囲の空気が一気に凍りついた。
「福大!!」
影がぼくの足と体にもキツく巻き付いて来る。
「ぼくは・・・大丈夫だから。」
影に縛られて、声を出すのがやっとだ。
「・・・あいつ・・・また・・・。」
白雪の声は、怒りで震えていた。
影はぼくの足をさらに強く引き、
地面の闇へとぼくを飲み込もうとする。
「福大!!!」
「いやああああ!!」
「離して!! お願い!!」
大人たちの悲鳴が夜に響く。
でも——
ぼくの体は、
ゆっくりと影の中へ沈んでいった。
最後に見えたのは、
白雪の怒りに染まった瞳だった。
「福大・・・絶対に助ける。」
白雪の冷気が爆発し、
大人たちを包み込む。
そして——
ぼくは闇の中へ消えた。
ぼくが影に飲み込まれた直後、
白雪は地面に着地すると同時に、
爆ぜるような冷気を放った。
校庭の土が一瞬で白く凍り、
草はガラスのように砕け散る。
大人たちは思わず後ずさった。
「な・・・何・・・これ・・・」
「白雪ちゃん・・・なの・・・」
白雪の周囲だけ、
真冬の吹雪の中心 のように温度が落ちていた。
白雪は怒りで震えていた。
その瞳からは、
まるで巨大な獣のように見えるほどの『圧』を放っている。
「・・・あいつ・・・
福大を傷つけたら・・絶対に許さない。」
白雪の声は低く、
氷の刃のように鋭かった。
校舎から伸びてくる影が、
白雪の足元へ触れようとした瞬間——
バキィッ!!
影が凍りつき、
黒い氷の破片となって砕け散った。
雷轟パパが息を呑む。
「・・・影が・・・凍った・・・?」
白雪は校舎を睨みつけたまま、
ゆっくりと歩き出す。
その背中は、
怒りと殺意で震えていた。
「福大・・雷斗・・賽・・まつり・・
みんな・・助ける・・
あいつだけは・・絶対に許さない・・」
白雪はひとりで校舎へ向かおうとした。
「待って!!」
玲奈ママが白雪の腕を掴む。
その手は震えていたが、
白雪を止める力だけは必死だった。
「お願い・・・白雪ちゃん・・・
私たちも・・・一緒に行かせて・・
福大を・・・みんなを助けたいの・・!」
黒羽ママも続く。
「賽も・・・みんなも・・・
絶対に取り戻す・・・
だから・・・一緒に・・・!」
雷轟パパは白雪の前に立ち、
深く頭を下げた。
「頼む・・・
俺たちを・・・連れて行ってくれ・・
子供達を・・・助けさせてくれ・・!」
白雪はしばらく黙っていた。
怒りで冷気が暴れ、
校庭の地面がさらに凍りついていく。
3人は白雪に頭を下げ必死に懇願する。
その姿を見た白雪は、
ゆっくりと息を吸い、
冷気を抑えるように目を閉じた。
そして、
大人たちを見上げて言った。
「・・・わかった。
一緒に行く。
でも・・・絶対に離れないで。
影は・・・あなたたちを狙ってる・・」
白雪が手をかざすと、
校舎から伸びてきた影が次々と凍り、砕け散った。
白雪は振り返らずに言った。
「・・・行こう。
まずは・・・『トイレ』
カノンの記憶が・・・
そこから始まる・・・。」
白雪を先頭に、
大人たちは凍りついた校庭を踏みしめ、
灯影小学校の闇の中へと足を踏み入れた。
【2年2組】
誰かに体を揺さぶられて、ぼくは目を覚ました。
「福大!起きて!!」
目を開けると、
まつりちゃん、雷斗、賽ちゃんが、
泣きそうな顔で覗き込んでいた。
「・・・みんな・・・無事・・・?」
ぼくが言うと、三人は同時に頷いた。
「福大!影がグワァーって襲って来ただろ。オレ、その影に捕まって・・・
気付いたらここにいたんだよ。」
「私も、影に飲み込まれたと思ったら・・・ここにいたの。」
「・・・ここは・・・異界。
・・・灯影小学校の・・・『向こう側』」
賽ちゃんが辺りを見渡しながら呟いた。
震えているのに、どこか確信めいていた。
「賽ちゃん、何か知ってるの?」
「・・・何も知らない・・・でも。
ここ・・・普通じゃ・・・ない。」
ぼくも立ち上がり辺りを見る。
・・・薄暗くて古い。
電気はついていなく、窓の外から差し込む薄暗い月明かりだけが、教室をぼんやりと照らしている。
空気は湿っていて、
どこか腐った臭いがする。
その臭いは古い木材と誰かの涙が染み込んだ臭い。
雷斗が教室のドアをを開けようとする
「なんだよ。ビクともしねぇ。
福大、手伝え。」
ぼくも一緒になってドアを開けようとするけど、全然動かない。
まるで外側から押さえつけられているみたいに動かなかった。
ぼくは窓の外を見て息が止まった
窓の外のが・・・
昼間とまったく違う景色だった。
校舎の外には、古びた木造の家が並び、
視界を遮るマンションも道路もない。
まるで、
何十年も前の灯影町にタイムスリップしたみたいだった。
外は夜。
薄く雲がかかり、星は見えず、薄暗い月明かりだけが差し込んでいる。
教室の中は薄暗い。
「ねぇ、これ見て。」
まつりちゃんが黒板を見て驚いている。
黒板に目を向けると、白いチョークで日直の名前が書かれていた。
『2年2組 日直:輪唱カノン』
その文字だけ、なぜか滲んで見えた。
ぼくたちは息を呑む。
「・・・カノンお姉ちゃん・・・?」
「・・・僕達と同じ・・・2年2組。」
さらに黒板の端には、
クラスの係の名前が並んでいた。
そこには——
黒羽(賽のママ)
千葉
雷轟(雷斗のパパ)
見慣れた名字がいくつもあった。
「・・・これ・・・玲奈って・・・
ママの名前・・・。」
「黒羽・・・ママの名前も・・・ある。」
「雷轟・・・親父の名前だ。」
ぼくたちは顔を見合わせた。
そのとき、
まつりちゃんが震える声で言った。
「・・・ねぇ・・・あれ・・・。」
指差した先は、
教室の一番後ろの席。
酷く汚れ、落書きだらけの机があった。
「酷でぇ。」
「・・・なんなのこれ。酷すぎる。」
「・・・イジメ。」
机の上には——
萎れた一輪挿しが置いてあり、
破れたノートには誹謗中傷が描き殴られ、
机には「カノンのバカ」「カノンきえろ」「カノンうざい」などの落書きで埋め尽くされ、
彫刻刀で深く刻まれた傷もある。
机の上にはゴミがばら撒かれ、引き出しの中もゴミで溢れている。
それらは、
いじめの痕跡そのもの だった。
ぼくたちは息を呑んだ。
「・・・これ、なんなんだよ。
カノンお姉ちゃん・・・
虐められてたのかよ・・・。
なんでだよ。」
雷斗が震える声で言う。
その瞬間——
カノンの机の影が揺れた。
ぼく達は息を呑む。
影が、
・・・ゆらり・・・と膨らんだ。
そして
『黒い靄』が漏れ出した。
机の落書きの隙間から、
彫刻刀の傷から、
萎れた花瓶の影から、
黒い煙のようなものがゆっくりと立ち昇る。
それはまるで、
カノンの心の闇が形になったようだった。
「・・・ひっ・・・。」
まつりちゃんが後ずさる。
黒い靄は、
ぼくたちの足元まで伸びて体にまとわりつく。
それは、冷たく、重い、
胸の奥を、心の奥底を掴まれるような感覚だった。
僕達は、黒い靄に体を押しつぶされる様に教室の床にガクリと膝をつき、両手をついて倒れ込んだ。
黒い靄は倒れたぼく達の体を這い、耳元で啜り泣く。
・・・見ないで・・・
・・痛い・・
・・・・・怖い・・・・
・・誰も・・・助けて・・・くれない
僕達の中に、カノンお姉ちゃんの感情が沁み込んでくる。
雷斗は耳を抑え、
まつりちゃんは胸を抑え、
賽ちゃんはお腹を抑え、
ぼくは嗚咽を抑え、
床の上で身悶えていた。
そのとき——
タタタタタッ・・・!!!
廊下を走る足音が響いた。
ぼくたちは一斉に振り向く。
教室の扉の向こうを、
小さな女の子の影 が走り去った。
髪が揺れ、
裸足で、
泣きながら走っているように見えた。
「・・・カノンお姉ちゃん・・・?」
ぼくが呟いた瞬間、
ガラッ!!
と教室の扉が勝手に開いた。
冷たい風が吹き込み、
カーテンがざわりと揺れる。
僕達の体から黒い靄が離れ体が自由になる。
ぼく達は体を起こす。
「行こう!!」
「おう!」
「うん!」
「・・・。」
最後に賽ちゃんが無言で頷き、僕達は影を追って廊下へ飛び出した。
【廃校舎灯影小学校の七不思議:トイレの花子さん】
女の子の影は、
廊下の奥のトイレへ駆け込んだ。
バン!
空気を震わせる様な大きな音を立てて扉が閉まる。
「・・・っ!!」
僕達は全員体をビクンと震わせ、全員動きを止めた。
静寂の中が廊下を満たす。
すると・・・トイレの中から・・・
「・・・ひっ・・・ぐす・・・
ごめんなさい・・・
もう・・・しません・・・。」
すすり泣く声が聞こえた。
その声は、
間違いなく——
輪唱カノンの声だった。
ドン!
ドン!!
ドン!!!
「花子さぁん・・・。」
ドン! ドン!! ドン!!!
「花子さぁん!!」
ドン!ドン!ドン!
「あーそーびーましょ……?」
キャハハハハ!!
ハッハッハッハッ!!
フフフフフフ……!!!
廊下の外まで響く、
ドアを叩く音と、子どもたちの笑い声。
その奥に・・・
消え入りそうなほど小さな、小さな声。
「・・・や・・めて・・
・・・おねがい・・・
もう・・やめて・・ください・・・」
カノンお姉ちゃんの声だった。
「止めろ!!!!」
雷斗が叫び、
ぼくたちはトイレへ駆け込んだ。
そこには・・・
複数の影が、個室の前に群がっていた。
一人の影が、揶揄うように叫ぶ。
「花子さぁん・・・あーそびましょ〜?」
別の影が、
ドン!ドン!ドン! と個室を叩く。
さらに別の影が、
腹を抱えて笑っていた。
「キャハハハハハ!!!
まだ泣いてるよ〜!!」
「止めろって言ってんだろうが!!」
雷斗が影に殴りかかる。
しかし拳は影をすり抜け、
影は水面のように揺れるだけ。
「・・おねがい・・
・・やめて・・・」
個室の中の声は、
泣き崩れ、震え、
息が詰まっていた。
「止めてよ!! 早く止めてよ!!」
まつりちゃんも影を殴るが、
影はただ漂うだけ。
「・・・これは・・・記憶・・・
だから・・何も・・できない・・・」
賽ちゃんが涙を流しながら呟く。
「記憶って・・・
もしかして・・・カノンお姉ちゃんの・・・?」
賽ちゃんは震えながら頷いた。
一方、白雪の後をついてきた
大人たちは、
現実のトイレの前で息を
呑んだ。
ドン!ドン!ドン!
花子さーん!!
ドン!ドン!ドン!
あーそーびーましょ!!
キャハハハハハ!!
現実のトイレの中で揺れている
影は——
過去の自分たち。
そして、
その影を殴り叫んでいるのは——
自分たちの子ども。
雷轟パパは雷斗を掴もうとする
が、手はすり抜ける。
「・・・どうなってんだ・・
なんで・・・触れねぇんだ
よ・・・!」
「・・・ここからじゃ・・・
向こう側に・・
手を出せない・・・」
黒羽ママが震える声で言う。
そのとき——
影のひとつが喋った。
『ほら、雷轟。
お前も叩けよ。
花子さんに遊んでもらうには・・・
4回叩くんだぞ?』
「止めろ!!
止めさせろ!!
こんなの・・・見せないで
くれ!!
雷斗に・・・
見せないでくれぇ!!」
雷轟パパは泣き崩れた。
『早くやれよ雷轟!!
ビビってんのかぁ?!』
影の雷轟が、
戸惑いながら個室の前に立つ。
「親父・・・何やってんだよ・・・
そんなこと・・・絶対にやるなよ・・
いじめなんて最低だって・・
親父が言ってたじゃねぇか・・・
やるなよ・・・絶対にやるなよ・・!」
「見るな雷斗!!
お願いだ・・・お前だけ
は・・・見るな・・・
頼む・・・!」
『やれよ!!』
ドンッ!!
影の雷轟が、
個室のドアを叩いた。
「親父ぃぃぃーーーー!!」
雷斗は影に殴りかかる。
何度も、何度も。
「止めろ!!
止めろよ!!
やめろって言ってんだよ!!」
しかし影は揺れるだけ。
「・・・やめて・・・
もう・・・やめて・・・」
個室の中のカノンの声は、
死にそうなほど弱かった。
雷轟パパは、
まるで自分が殴られているか
のように身を丸めて
うずくまった。
キャハハハハハ!!!
ハッハッハッハッ!!!
フフフフフフ……!!!
笑い声が、
トイレ中に反響した。
その笑い声は、
過去の子どもたちの声だった。
トイレ中に響く笑い声。
影たちの嘲笑。
個室の中で泣き崩れるカノンの声。
雷斗は影を殴り続け、
まつりちゃんは泣きながら叫び、
賽ちゃんは震えながら見つめていた。
ぼくは——
胸が張り裂けそうだった。
「・・・やめて・・・
・・もう・・やめて・・」
カノンの声は、
今にも消えてしまいそうだった。
その瞬間・・・
空気が変わった。
トイレの温度が一気に下がり、
白い息が漏れる。
ぼくたちの背後から、
冷気が吹き抜けた。
「・・・白雪・・・?」
振り返ると、
白雪が立っていた。
小さな体から、
怒りの冷気が噴き出していた。
白雪の瞳は、
氷のように冷たく、
影たちを真っ直ぐに睨みつけていた。
「・・・もう・・・いい。
これは・・カノンの痛み・・
でも・・・『今のカノン』は・・・
こんなこと・・望んでない・・・」
白雪が一歩踏み出す。
その足元から、床が凍り始めた。
影たちがざわめく。
「な、なんだ・・・?」
「寒っ・・・。」
「やめろよ・・・」
白雪は静かに手をかざした。
「・・・凍れ。」
バキィィィィィン!!!
トイレ全体が、
一瞬で氷の世界に変わった。
影たちは悲鳴を上げる間もなく、
黒い氷像 となって固まった。
個室のドアに張り付いていた影も、
笑っていた影も、
雷轟の影も——
すべてが凍りつき、砕け散った。
カノンのすすり泣きだけが、
氷の中に残響のように響いた。
白雪は個室の前に立ち、
そっと手を触れた。
「・・・カノン・・・
もう・・・大丈夫・・・
これは・・・過去・・・
あなたは・・もう・・
ここにいない・・。」
白雪の冷気が、
個室の扉を優しく包み込む。
泣き声が、ゆっくりと消えていった。
静寂。
氷の破片が、
床にカラカラと転がる音だけが響く。
凍りついた影の残骸の奥から、
かすかな声が漏れた。
「キャハハハハ・・・
あーあ・・・
凍らせちゃった・・・」
その声は、
子どものようで、
大人のようで、
男とも女ともつかない声だった。
白雪の表情が、
ほんの一瞬だけ強張った。
「・・・やっぱり・・・
・・・いる・・・。」
トイレの氷が静かに砕け落ちる中、
ぼくたちは息を整える暇もなかった。
タタタタタッ・・・
また、あの足音。
廊下の奥を、
小さな女の子の影 が走り去っていく。
髪が揺れ、
裸足で、
泣きながら。
「・・・カノンお姉ちゃん・・・!」
ぼくたちは影を追って走り出した。
白雪の姿はそこにはなかった。
【廃校舎灯影小学校の七不思議:動く人体模型】
影が消えた先は——
理科室 だった。
扉のガラス越しに見える室内は、
薄暗く、
月明かりだけが机の上を照らしている。
その光の中で、
人体模型がぼんやり浮かび上がっていた。
雷斗が息を呑む。
「・・なんか・・・動いてねぇか・・・?」
まつりちゃんが震える。
「・・・やだ・・・やだよ・・・
あれ・・・こっち見てる・・・」
賽ちゃんは小さく呟いた。
「・・・ここ、すごく嫌な感じがする。」
ギィィィ・・・
誰も触っていないのに、
扉がゆっくりと開いた。
冷たい空気が流れ出し、
ぼくたちの足元を撫でる。
賽ちゃんが小さく呟く。
「・・・入れって・・・言ってる。
これは・・『記憶』の誘導・・・」
ぼくたちは恐る恐る中へ足を踏み入れた。
理科室の中は、
昼間とはまったく違っていた。
薬品の匂いが濃く、
空気が重く、
どこか湿っている。
机の上には、
ホルマリン漬けの標本瓶が並び、
その中の生物が
ぼくたちを見ているように感じた。
そして——
部屋の中央に立つ人体模型。
白いはずの肌は灰色に濁り、
目の部分は黒く空洞になっている。
なのに——
ぼくたちを見ている。
「ひぃっ!!
・・・あれ・・・動いた?」
まつりちゃんが震える声で言った。
・・・ひっく・・・ひっく
人体模型から引き攣る様な泣き声が微かに聞こえてくる。
「人体模型・・・動いてるぞ。」
雷斗呟いた瞬間、
人体模型の足元に『影』が現れ揺れた。
影が伸び、
床を這い、
ぼくたちの足元に触れた。
そして・・・
小さなカノンお姉ちゃんが影に囲まれて、人体模型の前で膝を抱えて泣いている。
「・・・やだ・・・
ここ・・・やだ・・・」
その前に立つのは、
複数の子どもの影。
『ほら、カノン。
人体模型さんと遊べよ』
『動くかもしれないぞ〜?』
『ほら、触れよ。
触らないと・・・帰れないぞ?』
影のひとりが、
人体模型の腕を掴んで揺らした。
ギ・・・ギギ・・・
模型の首が、不自然な角度で回る。
カノンが悲鳴を上げた。
「いやぁぁぁぁ!!
やめて!!
こわい!!」
影たちは笑う。
『泣いた〜!』
『ビビり〜!』
『ほら、もっと近づけよ!』
影が人体模型を大きく揺らすと、バランスを崩した人体模型がカノンの方へ倒れ込む。
ドサァッ!!
「いやぁぁぁぁぁ!!」
「・・・やめろ!!」
雷斗が叫び、影にに殴りかかる。
しかし——
拳はすり抜ける。
人体模型は、
バラバラになり、頭が外れてクルクルと回る。
そして、
頭はぼく達の方を向いて
空洞の目が、
ぼくたちを見ている。
まつりちゃんが泣き叫ぶ。
「いやぁぁぁ!!」
賽ちゃんは震えながら呟く。
「・・・これも・・・記憶・・・」
大人たちが現実の理科室に到着すると、
そこには——
人体模型の影に殴りかかる子どもたちの姿が見えた。
しかし、
子どもたちの体は靄のように透けている。
「福大!!
雷斗君!!
賽ちゃん!!
まつりちゃん!!」
玲奈ママが叫ぶが、
声は届かない。
雷轟パパも影に殴りかかるが、
手がすり抜ける。
「・・・・くそっ・・・
また・・・
触れねぇのかよ・・・!」
影がカノンに近寄り、ランドセルから
ト音記号のキーホルダーを奪った。
楽譜を奪った。
「おい、これ。」
影は音符の描かれた下敷きを取り出し押し付けた。
「・・・私・・・いらない。」
その影は・・・
「ママ・・・止めて・・・
受け取らないで。・・・」
賽ちゃんのママ、黒羽ママの影だ。
「私・・・いらないよ・・・」
「・・・受け取れよ。」
「ママ!・・・・ダメ。
止めて・・・お願い。絶対にダメ!!」
賽ちゃんはその場で泣き崩れた。
「賽!見ないで!
こんなの見せないで。
止めてお願い。
子供にこんなの見せないで、
お願いします。」
「ほら!」
影が無理やり黒羽ママの影に下敷きを渡す。
「お願い返して・・・大切な物なの。
本当に大切な物なの・・・だから
・・・お願いします。
・・・返して下さい。」
「逃げろ!人体模型が追いかけて来るぞ。」
影の言葉で、キーホルダーを持った影が逃げる。
小さなカノンは必死で追いかける。
そして投げ捨てられたキーホルダーを拾い、楽譜を奪った影を追いかける。投げ捨てられた楽譜を拾い、下敷きを奪った黒羽ママの影を追いかける。
黒羽ママの影は、小さなカノンの気迫に押されて下敷きを落とす。
そして、涙を流しながら下敷きを拾う小さなカノン。
「ママ・・・どうして。
どうして、そんな酷い事したの?
・・・カノンお姉ちゃんが・・・可哀想。」
「ごめんなさい・・・
ごめんなさい・・・
ごめんなさい・・・
ごめんなさい・・・」
黒羽ママは床に頭を擦り付け
て何度も何度も何度も謝る。
カノンに向かって、賽ちゃん
に向かって。
「黒羽、もう止めて。
もういいから。
もう止めて。」
「黒羽、これ以上自分を責める
な。止めてくれ。
もう止めてくれ。」
玲奈ママも、雷轟パパも
必死で黒羽ママを止めよう
とするけど、
「ごめんなさい・・・
ごめんなさい・・・
ごめんなさい・・・
ごめんなさい・・・」
黒羽ママは床に頭をつけた
まま離さず、ずっと謝り続け
ている。
「あっはっはっはっは!
まさに動く人体模型だ。
お前のあだ名、今日から人体模型な。
動く人体模型。
あっはっはっはっ!!」
影が大笑いし、周りの影達も笑う。
小さなカノンは啜り泣き。
そんな影達に雷斗が殴りかかるが、全てすり抜ける。
「ごめんなさい・・・
ごめんなさい・・・
ごめんなさい・・・
ごめんなさい・・・」
賽ちゃんが小さなカノンに謝り
「ごめんなさい・・・
ごめんなさい・・・
ごめんなさい・・・
ごめんなさい・・・」
黒羽ママも謝る。
2人は何度も何度も小さなカノンに謝り続けた。
あっはっはっはっ!!
あっはっはっはっ!!
「・・・なんで・・・私だけ
私だけ・・・こんなめに・・・あうの。」
小さなカノンは泣きながら呟くと、
白雪が静かに手を振り上げた。
冷気が理科室を満たした
「・・・凍れ。」
バキィィィィィン!!!
理科室全体が、
一瞬で氷の世界に変わった。
影たちは一瞬で凍りつき砕け散った。
理科室から影が消え去り、小さなカノンを白雪がそっと抱きしめる。
「・・・大丈夫だよ。」
小さなカノンは涙を流して消えた。
「あっはっはっはっ!
また凍らせちまったよ。」
影がゆらりと揺れて姿を消した。
「・・・逃がさない。」
こんなに怒った白雪を見るのは初めてだった。
【廃校舎灯影小学校の七不思議:13階段】
小さなカノンの影を追うと上の階へと続く階段だった。
階段の上からカノンの声が聞こえる。
「10・・・11・・12・・・」
カノンは蚊の鳴く声で囁く。
「13段あるのに、数も数えられないのか?」
「頭悪いな。」
「はい、やり直しぃ!
あっはっはっはっ。」
カノンが階段を降りて来る。
踊り場の鏡に映るカノンの顔は
『死人の様な顔』だ。
肌は青白く、
目の下には深い影、
唇は紫色に乾き、
笑っているのか、泣いているのか分からない表情。
「ひっ!」
まつりちゃんが後ずさる。
「カノンお姉ちゃん・・・?」
ぼくが呟いた瞬間、
鏡の中のカノンがゆっくりと口を開いた。
『どうして・・・?
どうして・・・助けてくれなかったの?』
その言葉は・・・
ぼく達の胸を突き刺した。
「あっはっはっはっ
どうした?早く数えろよ。」
そしてまた、階段を登り始める。
「10・・・11・・12・・・・・・13。」
涙を流しながら13段目を数える。
「あっはっはっはっ
バカじゃねえの?
12段しかないだろう。
数字も数えられないのかよ。」
あっはっはっはっ!!
あっはっはっはっ!!
「はい、やり直しーーー。」
「ふざけるな!!」
雷斗が階段を駆け上がり、
「止めろぉーーーー!!」
まつりちゃんが階段を駆け抜け、
「許さない・・・」
賽ちゃんも駆け出した。
ぼくだけは、見覚えのある影に身を震わせた。
白雪を先頭に大人達が現実階段に到着する。
また、子供達の体は霞の様に透けて見える。
「なぁ、この階段何段ある?
教えろよ。」
ママの影に影が言い寄る。
「嫌ぁぁぁぁぁーー!!」
「玲奈落ち着け!!」
「止めて止めて止めて!!
お願い福大見ないで、
お願い。」
玲奈ママは僕の霞に駆け寄る
が、ぼくはママの気配すら
感じとる事が出来ない。
ママは階段を駆け上がり、
影に言いよる。
「止めさせてよ。
何でこんな事するの?
何で今更こんなの見せるの?
何で何で福大に見せるの?
子供達に見せるの?
何で・・・何でなの・・・」
ママはヒステリックに叫び
続けた。
「嫌ぁぁぁぁぁぁ。」
あっはっはっはっ!!
「ほら言えよ。何段だよ。
「・・・・」
「教えろよ。12段?13段?」
「・・・」
「何だよ・・・次はお前の番か?」
影の声が低く響き、ママの影を睨みつける。
ひぃ!!!
「ママに何するんだ。止めろよ。
知ってるんだぞ。全部、お前が悪いんだろ。止めろ!!」
ぼくの声は影達に全く届いてない、でも分かったんだ。
今まで見てきたら、全て分かったんだ。
「11・・・12・・・・・」
「言わないで・・・
止めさせて。」
「何段あるんだよ。13段だよな。」
「ママ、言わなくていいんだ。
こんなの答えちゃダメだ。」
「言っちゃ・・・・ダメ!!」
「お前、カノンの親友なんだろ。だったらちゃんと答えてやれよ。
13段だってさ。な、さっさと言えよ。」
ママ影は言われるがままに呟いた。
「13段・・・です。」
「12・・・・13」
「あっはっはっはっ!!
バーカ!!12段だろ。
はい、やりなおしーーーー!!」
小さなカノンは膝から崩れ落ち、階段をゆっくり、ゆっくりと力なく転げ落ちていった。
「この野郎!!!」
「この野郎!!!」
ママと僕は同時に影に殴りかかった。
でも、影は揺れめくだけだった。
小さなカノンは踊り場の鏡の前までゆっくりゆっくり転げ落ち・・・
鏡に映る自分の顔を見た。
「私・・・死んでるね。」
あっはっはっはっ!!
影の笑い声が響く。
影の背後から、白雪が現れる。
「・・・凍れ!!!」
影達は凍り砕け散る。
が、
「あっはっはっはっ
全然凍らないね。
大した事ないよね。
・・・・君。」
白雪の背後に現れた影が消えた。
「・・・・」
白雪の姿も消えていった。
タ・・タ・・タ・・タ・・
足音だ。
でも、今度の足音は今までと違う。
タ・・タ・・タ・・タ・・
足音は2階の奥、音楽室へと向かっている。
「・・・カノンお姉ちゃん。」
僕達も音楽室へと向かった。
13階段の影が砕け散ったあと、
ぼくたちはしばらく動けなかった。
でも——
あの足音が、ぼくたちを前へ進ませた。
タ……タ……タ……タ……
カノンお姉ちゃんの影が、
音楽室へ向かって歩いていく。
ぼくたちはその後を追った。
異界の廊下は、
月明かりだけがぼんやり照らしていた。
床は冷たく、
壁には古い掲示物が貼られ、
どれも色が抜けている。
ぼくたちは歩きながら、
胸の奥が重く沈んでいくのを感じていた。
「・・・親父って・・・
あんなこと・・・してたんだな・・」
雷斗が呟いた声は、
いつもの強さがなかった。
「・・・ママ・・・
カノンお姉ちゃんのクラスメイトだったのに・・・どうして・・・」
まつりちゃんは泣きそうな声で言った。
賽ちゃんは、ずっと黙っていた。
ぼくは・・・
胸が苦しくて、
言葉が出なかった。
ママはカノンお姉ちゃんの親友だって言ってた。
なのになんで・・・あんな・・・
酷いこと・・・
親がいじめをしていた。
カノンお姉ちゃんを傷つけていた。
それを、ぼくたちは全部見てしまった。
ぼくたちは歩きながら、
それぞれの胸に重い石を抱えていた。
一方、現実の廊下を歩く大人たちは、白雪の背を追いながら薄暗い校舎の中を進んでいた。
子どもたちの霞のような背中を見つめながら、
誰も口を開く事なく、足音だけが響く。
コツ・・・コツ・・・コツ・・・
玲奈ママは、
震える手で胸を押さえていた。
「・・・あの時・・・
私は・・・怖かった・・・
あんな風に・・・なりたくなかった。」
誰に向けた言葉でもなかった。
「カノンは・・・
私の親友なのに・・・
私は・・・怖くて・・見てるだけで・・
何も・・・できなかった・・・」
声が震えていた。
黒羽ママも、
雷轟パパも、
誰も顔を上げられなかった。
「・・・俺たちは・・・
同罪だ・・・。」
雷轟パパが呟く。
「止められたはずなのに・・・
怖くて・・・
見て見ぬふりをした・・・
あの時の俺は・・・
何を守ろうとしてたんだ・・・?」
黒羽ママは涙をこぼした。
「・・・子どもたちに・・・
『いじめはダメ』って言って
きたのに・・・
自分がやった事は
何も言わなかった・・・
それは・・・
自分を守るため・・・?
親としての威厳のため・・?
分からない・・・
でも・・・
見られたくなかった・・・
あんな姿・・・」
玲奈ママは足を止め、
壁に手をついた。
「福大に・・・
なんて言えばいいの・・・
私は・・・
あの時の自分を・・・
恥ずかしいと思ってる・・・
でも・・・
どう償えばいいのか・・・
分からない・・・」
誰も答えられなかった。
ただ、
子どもたちの霞の背中が、
前へ前へと進んでいく。
その背中を見て、
大人たちは胸を締め付けられた。
異界の廊下と、現実の廊下。
ぼくたちと、親たち。
同じ場所を歩いているのに、
触れられない。
声も届かない。
でも、
お互いの『痛み』だけは、
確かに伝わっていた。
廊下の奥に、
音楽室の扉が見えた。
扉の前に、
小さなカノンの影が立っていた。
振り返り、ぼくたちを見つめる。
その瞳は、
悲しみと怒りと、
どこか救いを求めるような光を宿していた。
「・・・カノンお姉ちゃん・・・」
ぼくたちは歩みを止めた。
大人たちも、
現実の廊下で足を止めた。
音楽室の扉が、
ゆっくりと軋む音を立てて開き、カノンお姉ちゃんが音楽室の中に消えていく。
【廃校舎灯影小学校の七不思議:誰もいない音楽室で鳴るピアノ】
音楽室のドアの前で、
ぼくたちは息を呑んだ。
誰もいないはずの音楽室で——
ポロン♪ポロン♪ポロン♪
ピアノが、
月明かりに照らされながら
ひとりでに優しく鳴っていた。
まるで、
月光 の最初の一音のように、
静かで、透明で、泣き出しそうな音。
窓から差し込む月明かりが、
ピアノの黒い表面を淡く照らし、
鍵盤の上に白い光の筋を落としていた。
ぼくたちはその光景に吸い寄せられるように音楽室へ足を踏み入れた。
その瞬間——
空気が震えた。
ぼくたちのいる異界の音楽室と、
白雪と大人たちのいる現実の音楽室が、
ゆっくりと重なり始めた。
床の模様が二重に揺れ、
壁の掲示物が重なり、
ピアノの影が二つに伸びては一つに戻る。
そして——
ぼくたちの姿が、
大人たちにはっきり見えるようになった。
大人たちの姿も、
ぼくたちにはっきり見えるようになった。
互いの視線がぶつかる。
逃げ場は、もうどこにもなかった。
僕の胸の奥がギュッと痛んだ。
その瞬間、白雪が僕の胸に飛び込んできた。
「・・・痛いとこ・・・ない?」
白雪が僕の首に腕を絡ませ、頬ずりしてくる。
「大丈夫。怪我なんかしてない。どこも痛くないよ。」
「・・・ここ、痛いの?」
白雪は僕の胸を摩って呟いた。
ぼくは無言で頷くことしか出来なかった。
ポロン♪ポロン♪ポロン♪
雷斗は雷轟に駆け寄り、腹に目掛けて思いっきり殴りかかった。
バン!!
「何でだよ。何でなんだよ親父!!」
バン!!バン!!
「イジメをする奴は最低だって言っただろう。」
バン!!バン!!バン!!
「弱い奴がイジメるんだって言っただろう。」
バン!!バン!!バン!!バン!!
「守ってやれって言っただろう。」
バン!!バン!!バン!!バン!!
バン!!バン!!バン!!バン!!
雷轟は殴られるまま、息子の言葉も拳も全てを受け止めて体を震わせて泣いていた。
ポロン♪ポロン♪ポロン♪
黒羽ママが賽ちゃんに近づき抱きしめようと手を伸ばした。
「・・・賽。」
「・・・。」
賽ちゃんは体をビクンと震わせ、
伸ばされた手を見つめ、思わず手を避け後ずさった。
「賽!?」
「・・・ご、ごめんなさい。
で、でも・・・・今は・・・無理。」
黒羽ママがその場で泣き崩れた。
それでも賽ちゃんは何も言わずに見つめていた。
ポロン♪ポロン♪ポロン♪
玲奈ママはぼくを見た瞬間から泣いていた。
両手で顔を覆い嗚咽混じりに。
「・・・ごめんなさい。
・・・ごめんなさい。
・・・カノンごめんなさい。
・・・福大ごめんなさい。
・・・ごめんなさい。
・・・ごめんなさい。」
ひたすら謝り続けていた。
僕は、ママの声を聞きながら、
どう返事をすればいいか分からなかった。
ポロン♪ポロン♪ポロン♪
ポロン♪ポロン♪ポロン♪
その旋律はまるで、カノンお姉ちゃんがぼく達に何かを伝えようとしているみたいだった。
そして音楽室の空気が震えた。
ピアノの弦が、
誰も触れていないのに
ビィンと・・・震えた。
大人たちは言葉を失った。
雷轟パパは拳を震わせ、
黒羽ママは泣き崩れ、
玲奈ママは福大に顔を向けられなかった。
「・・・ごめん・・
本当に・・・ごめん・・・」
玲奈ママの声は震えていた。
「・・・あの時の私たちは・・・
弱かった・・・
怖かった・・・
でも・・・
それは言い訳にしかならない・・・。」
黒羽ママは涙を拭おうともしなかった。
「・・・子どもたちに・・・
同じことをしてほしくなかった・・・
『いじめはダメ』って言った・・・
自分がした事を黙って
・・・隠して
・・・当然の様に
自分が正しい事をしてきた様に
子供の前で・・・恥ずかしげもなく
・・・情けない。
・・・本当に情けない。」
雷轟パパは歯を食いしばった。
大人たちの後悔と罪悪感が、
音楽室の空気を重く沈ませ、
ぼく達とママ達の泣き声が、
音楽室をさらに暗くした。
ポロン♪ポロロン♪
静かな旋律は紡ぎ続けている。
月明かりの中で、
鍵盤がひとりでに沈み、
音が生まれていく。
その音は、
悲しくて、
優しくて、
どこか懐かしい。
まるで——
カノンの心そのもの が
音になって響いているようだった。
ピアノの音が・・・
ふっと、途切れた。
静寂。
音楽室の空気が、
まるで時間ごと凍りついたように止まる。
月明かりだけが、
静かに、静かに、
黒いピアノの表面を照らしていた。
その月光は、
鍵盤の上に細い白い道を作り、
まるで『誰か』がそこを歩いてくるのを
待っているようだった。
そして——
音もなく。
月明かりの中に、
『輪唱カノン』が現れた。
昼間のお姉さんの姿ではない、ぼく達と同じ歳ぐらいの背格好。
白いワンピースが、
風もないのにふわりと揺れた。
足音は影のように薄く、
床に触れているのか分からないほど静か。
その顔には、
優しい笑顔が浮かんでいた。
でも——
その瞳だけは違った。
深い深い悲しみを湛え、
夜の湖のように揺れていた。
ぼくたちは息を呑んだ。
大人たちも、
言葉を失ったまま立ち尽くした。
カノンは、
ゆっくりとぼくたちを見渡し、
微笑んだ。
「・・・みんな・・・
やっと・・・来てくれたんだね・・・。」
その声は、
優しくて、
寂しくて、
泣き出しそうなほど綺麗だった。




