第十一話「決意の飛翔」
上泉陰綱の話は終わった。
彼は今、まだ名乗りを上げぬ女の側に立ち、腕を組んでいた。腰に刀は下げているが、戦意は感じられない。むろん、こちらを逃がすつもりもないのだろうが。
梢は、手頃な岩に腰掛けて、二人のことをじっと見ていた。
見ているだけで、思考はまったく別のところを泳いでいる。
『一時間だけ待つ』
話し終えて、陰綱はそう言った。
『己が命に関わることだ。某も即断しろ、などとは言えぬ。だがこちらにも事情がある。一時間で、決めて頂きたい』
自力で草薙樵を見つけ出し、相手を殺して自害するか。
もしくは、陰綱や飛鳥井に協力を申し出て、草薙樵共々殺してもらうか。
どのみち、自分は死ぬ。
これほど酷い選択肢はそうそうないだろう。
だが、切羽詰まった状況の中で時間を与えてくれただけ、陰綱はましである。
……もうすぐ三十分経つな。
話を聞いて、梢は陰綱のことを信頼に足る相手だと判断した。である以上、彼らと協力する方が良いのは明白だった。しかし、素直に頷けない自分がそこにいる。
自分の命そのものを相手に託すことになるのだ。それは、正直怖い。死ぬことへの恐怖とはまた別の怖さがある。
……なあ、先代さんよ。あんたもそうだったのかい?
梢の父、倉凪司郎。そして目の前にいる陰綱が討ち滅ぼしたという先代の土門荒野。自分の前の被害者。その念が、土門荒野を通して、自分の中に今も生きているような気がしてくる。
その先代は、魔術の名家である泉家に連なる男だった。土門荒野に憑依されたことから分かるように、その男も梢と同じ異法人だったらしい。
もっとも、男は自分の異法を陰綱に見せたことはなかったそうだ。
梢にはよく分からないが、異法人であることは魔術の家に生まれた者にとって、あまりプラスにはならないらしい。そのため、その先代は自分が異法人であることを滅多に明かしたりはしなかったそうだ。
陰綱はその先代に仕える家系の生まれで、弟分として目をかけられていたそうだ。司郎との関係については、陰綱も正確なところは分からないらしい。先代や陰綱が暮らしていた泉の里にいつのまにか出入りするようになった男、それが司郎なのだそうだ。先代と司郎は、互いを友人として見ていたらしい。
――でなければ、自分を殺してくれ、などという頼みは果たされない。
先代は自分の死期を察したとき、司郎にそう頼んだそうだ。土門荒野という怪物から、自分の大切な人たちを守るために。
先代には、そのとき三人の娘がいた。愛する妻と子供たちを守りたい。その願いを受けて、司郎は土門荒野となった先代を討ち滅ぼしたのだという。
それは十九年前。梢が生まれて間もない頃のことだ。
同時期、土門荒野と司郎・陰綱らの戦いによって、泉家は致命的な打撃を受けた。多くの一族が屍を野に晒すような、酷い有様だったらしい。
――先代の娘たちも、その争いの中で逃れた。陰綱同様、その先代に仕えていた者たちに連れられて。
先代の名は式泉運命。
四散した娘たちの名は、優香・遥・涼子という――。
愛する人を得て、これから幸せな日々を送ろうというとき、自分の死を悟ってしまう。その死によって引き起こされる災禍を避けるため、自らの命を友に差し出す。その苦悩は梢などより、遥かに深かったに違いない。それに応じた司郎の心境も、簡単には想像出来ない。
『某は』
陰綱は語った。
『某は、あの日――貴様の父親と共に土門荒野を屠った日に誓った。二度とこのような悲劇を繰り返すまいと。命ある限り、土門荒野と戦い続けると』
そう言った陰綱の目に曇りはなかった。二十年と少しだけの人生だが、人を見る目には自信がある。陰綱は、本心を語っていた。
『それに、この町には遥様と涼子様がおられる』
土門荒野という災禍により一家離散の憂き目にあった二人。そのせいで色々と苦しむこともあった二人だが、今はこの町でそれぞれ平穏に暮らしている。
その平穏を、再び土門荒野が壊そうとしている。陰綱にしてみれば、許すまじきことなのだろう。
梢を殺すことで、遥たちは深い悲しみに襲われるだろう。陰綱にとっては、やりきれない状況のはずだ。
飛鳥井の人々や古賀里の者たちも、おそらく同様のはずだ。誰もが、迷い、苦しみながらこの事態に参加している。
……俺がここで決めれば。
もしかしたら、そんな人々の苦しみも終わるのではないか。
今、苦しんでいる人々を助けられるのではないか。
そうだとすれば――悪くない。
事態は一刻を争う。決めるなら、今すぐが良い。
陰綱と女を見る。二人はぴくりとも動かない。良く出来たオブジェのようだ。
「陰綱」
意を決して、声を上げる。さすがに、心臓が跳ね上がった。自分を殺してくれと頼むのだ。当然だろう。
だが、こちらの呼びかけに陰綱は反応しなかった。ぴくりとも動かない。
……なんだ?
「おい、陰綱」
もう一度呼ぶ。だが、陰綱も女も、こちらの声など聞こえていないかのように、一切の反応を見せてくれない。
なんだか、酷く不安定な気分になる。
「おい」
立ち上がろうとして、梢は大きく前に倒れこんだ。膝に力が入らない。顔から雪の中に突っ込んだせいで、周囲の状況が分からない。それに、酷く熱かった。
「……どうした、倉凪梢」
怪訝そうな陰綱の声が聞こえる。何か言おうとしたが、やめた。こちらの声など、向こうには届かないに決まっている。あの女は、何も聞いてはくれない。
……待て、俺は何を考えてる?
まずい。何か、まずい。
自分の中に、いつの間にか妙なものが入り込んできている。あの女のことなど、俺はほとんど知らない。なのになぜ聞いてくれないなどと決めつけている?
「陰綱、まずいわ」
女の声が聞こえる。あの声を聞くと、何か妙に切なくなる。虚しくもなる。なんだ、あの女はなんだ。なぜ名乗らない。
なんだか無性に腹が立って、勢いよく起き上った。視界が暗い。おかしい。まだ夜には早いはずだ。
こちらを見る二人の表情には、揃って焦りが浮かんでいた。
「姫様、これは……」
「推測の域を出ないけれど、彼の中の"土門荒野"が私たちを見て刺激されたのかもしれないわね。土門荒野にとって、私たちは許せない相手のはずだから」
「何を、言って」
口にしかけて、梢は気づいた。喉が震えていない。話しているつもりでも、声になっていなかった。意識と身体が切り離されたような感覚に陥っている。
不意に、冷たい何かに抱きしめられた気がした。
ぞくりと背筋が震える。
何だと思う間もなく、梢の視界は漆黒のカーテンで塞がれた。
……私は。
強大な力が、否応なく遥の元にも伝わってきた。
ホテル近くに停めておいたバイクで、住宅街へ向かう途上である。
彼女は視線を少しだけ上げた。建ち並ぶ建造物の屋上を飛び跳ねながら先行する影が一つ。あの後ろ姿は亨に違いない。
近くに零次の姿はなかった。どうなったのかは気になるが、今は詮索している余裕もない。
……最悪だ。
近づくたびに、嫌な予感が脳裏をよぎる。強大な気配は、榊原家の方からした。そして家には美緒が残っている。急がなければ。
だが、急けば急くほど思うように進めない。先程から続いている揺れのせいで、思うように走ることが出来ない。往生している車に何度かぶつかりそうになった。
「くそっ」
自分に異法人並の身体能力がないのが歯がゆかった。思わず毒づいてしまう。
その矢先――揺れが更に酷くなった。
だけでなく、強大な気配が二つに増えた。
……何!?
遠方、おそらくは郊外の山中辺り。そこから、爆発的な勢いで、おぞましい気配が広がってきている。
「くそっ」
また毒づく。
考えられるのは、梢と樵、その両方が覚醒しつつあるということ。
事態がいよいよ切迫した状況になりつつある、ということでもある。
下手をすれば、この町が瓦礫の山にもなりかねない。最初に土門荒野のことを聞かされたときは、大袈裟だと思わなくもなかった。しかし、肌でその気配を感じると、そんな考えは吹き飛びそうになる。
二年前も、遥は想像を絶する怪物と戦った。しかしその怪物も、恐ろしくはあったものの、それは個体としての脅威だった。
土門荒野と称されるこれは、そんなものではない。災害の域だ。先程から止まぬ地震は復活の前兆に過ぎないのだろうが――それでも市街地はパニックになっていた。遠くから避難するよう叫ぶアナウンスも聞こえる。
……くそ、どっちに行けば!?
美緒の安否を確認するなら榊原家だろう。しかし、そちらにいるのはおそらく草薙樵の方だ。梢が家に戻ってくるとは考えられない。あくまで梢を追うのであれば、郊外の方に向かわねば――。
「っ……ンの馬鹿がっ!」
自分に向って罵声を浴びせる。
そんなことを考えてる場合ではない。
――美緒の安否を確認するのが先に決まっている。
郊外の気配へ向かうなら左。家に向かうなら右。
表情を引き締めて右折しようとした瞬間、突如亨が眼前に飛び込んできた。
「っ……!」
反射的にブレーキをかけようとするも、間に合うはずもない。
だが、亨はさして動じた様子もなく遥のバイクを片手で受け止めた。衝撃で宙に浮きかけた身体を抑えて、遥は亨と向き合う形になった。
「何の真似?」
「遥さんはあちらへ行ってください」
遥の問いには答えず、亨は郊外の気配がする方を指差して言った。
「美緒が」
「倉凪は僕が助けます」
こちらの言葉を遮る、力強い言葉だった。
しばし、睨み合いが続く。
先に折れたのは遥だった。
「美緒をお願い」
「言われるまでもありません」
遥は左へ。亨は右へ。
二人はそれぞれ、走り出した。
揺れはまだ、治まらない。
零次。
誰かが囁きかけてくる。
久坂零次。
そうやって、誰かが俺の名を呼んでいる。
誰だ。俺の名を呼ぶのは誰だ。
……涼子?
根拠はない。だが、そんな気がした。そうであって欲しいと考えているだけなのかもしれないが。
うっすらと人影が浮かび上がってくる。
それは、涼子ではなかった。それは、零次自身の形をしていた。
……ああ、夢か。
俺は今どうしているのだったか。よく思い出せない。
「貴様はつくづく、うじうじと悩むのが好きなようだな」
開口一番、目の前にいる久坂零次は、そんな悪態をついた。
「半端に悩んでいられるほど事態は優しくない。覚悟が決まらないのであれば、大人しく目を閉じて事態が終わるまでじっとしていろ」
吐き捨てるように言われた。なぜ自分にここまで言われなければいけないのだろう。そこまで自己嫌悪の念は強くないと思っていたのだが。
何か言い返そうとしたが、言葉が見つからなかった。相手の言葉には理がある。反論したところで、子供の言い訳同然のものにしかならないだろう。
だが。
なぜ皆、割り切れるのだろう。
梢もこの町も、どちらも失いたくはない。それでも、皆はどちらかを選びつつある。何をすべきか、決めつつある。
零次一人が、取捨選択出来ずにまごついている。
「倉凪梢を救う手立てはない」
向き合う久坂零次は、やけに断定的な口調で言った。
「救おうとすればするほど、足掻けば足掻くほど、貴様は深い傷を負うことになる」
「見捨てた方が、まだ傷は浅くなるとでも?」
「はっきり言ってしまえばその通りだ。誰もお前を責めたりはせんよ。なにせ、奴自身が自ら死地に赴いたのだ」
「人の命がかかってる。そんな風に考えられるか!」
損得勘定でこの事態を捉えているかのような言葉に、零次は激昂した。それを言っているのが自分自身の姿をしていることが腹立たしい。昔の自分を見ているようだ。
「ならば貴様はどうする。解決策はない。今のままでは、いたずらに事態をややこしくするだけではないか」
「それは……!」
何度となく胸中によぎった思い。このままでいいのか。今の自分のやり方は、本当に正しいのか、という疑問。その念はどんどん強くなっている。
言葉を失った零次に、目の前のそいつは侮蔑の眼差しを向けた。
「そうやって曖昧な意思を持ちながら、決死の事態に臨もうとするな。善悪の問題を論じているのではない。例え貴様が善意で誰かを救おうとしているにしても、そうした曖昧さが却って被害を拡大させる」
「ならば、どうすればいいと言うんだ!」
たまりかねて零次は叫んだ。
袋小路だ。出口のない迷路に、いつまでもいつまでも迷い続けている。
「知らん」
目の前のそいつは、無情にも頭を振った。
「それは貴様が決めることだ、久坂零次。多くのことに"正解"などない。どうすれば良いなどと便利な解答があるはずもなかろう。ただ、これだけは言える」
そいつは、こちらの胸を指差して言った。
「決意に対抗出来るのは決意のみ――ということだ」
言われた瞬間、零次の全身に、がつんと大きな衝撃が走った。
衝撃を感じながら、零次は目を開いた。
眼前に自分自身の姿はなかった。
――いたのはミイラだった。
「なっ……!?」
突然のことに動揺して、そこで零次は自分が身動きの取れない状態にあることを思い出した。亨に完敗したのである。
……今のは夢、で。
そうして目の前には、正体不明のミイラ――包帯男がいる。
訳が分からない。どうなっているのか。自分はどの程度気を失っていたのだろう。まだずきずきと頭が痛むから、もしかすると数秒に過ぎないのかもしれない。揺れはまだ続いている。
「混乱してるみたいだね、お兄ちゃん」
脇から鈴のような声がかけられた。首を動かすと、そこには郁奈と名乗った少女が立っている。
「お兄ちゃんは亨さんに完敗して、今は一分経ったか経ってないかくらい」
「……正確だな」
「だって見てたもの。戦ってるところから」
最悪にみっともないところを見られたらしい。
実の妹というわけではないが、何か妙にプライドを打ち砕かれた気がした。
……いや、そうではなく。
混乱する脳を鎮めながら、零次は再び視線を包帯男に戻した。全身をくまなく包帯で覆っているため表情などはほとんど分からない。先程から無言で零次の前に立っている。
敵意は感じられない。その異様な風体に反して、存在感は希薄だった。
「無現……だったか」
現れるはずの無い者。昨晩、土門荒野になりかけていた草薙樵を、強力無比な一撃で追い払った男だ。
そして、零次とよく似た黒い翼を持っている。
気になる相手ではあるが、謎が多過ぎて取っ掛かりすら掴めない。無現という呼称も郁奈がそう言っていただけだ。本名とは思えない。
ただ、体格だけは分かった。思っていたよりも小柄だ。男としてはやや小さいくらいだろう。
郁奈は飛鳥井陣営の人間だからここにいてもおかしくはない。だが、この正体不明の男はここで何をしているのだろう。飛鳥井とは関係なく、個人的に郁奈とつるんでいるのだろうか。
「またいろいろと頭で考えてる」
そんな零次の様子を見透かしたのか、郁奈は呆れたように溜息をついた。
「聞けば教えてあげるのに」
「お前の言葉は意味不明だ。聞くと余計に混乱する」
子供相手に随分な言い草ではあるが、それは本心だった。
ちぇ、と郁奈はつまらなさそうに舌打ちするとそっぽを向いてしまう。
「久坂、零次」
不意に、合成音のような声が聞こえてきた。人間のものとは思えない声質だ。
郁奈ではない。
どこかで聞いたことのある声に似ていた。どこかは思い出せない。だが、知らない声ではないような気がした。
それが無現の言葉だと、理解するまで少し時間がかかった。
包帯の隙間から覗いて見える眼差しは、こちらへと真っ直ぐに向けられていた。
「時間がない。貴様に決意はあるか」
まるで夢の続きのようだった。決意。夢の中の自分もそんなことを口にしていた。
「決意……は」
「決意一つでどうにかなるほど状況は甘くない。ただ、決意なき者は頼るに足らぬ」
こちらの迷いに構うつもりはないのだろう。無現は短く断定的に言った。
「今、倉凪梢と草薙樵が同時に発症しつつある」
「……この揺れはそのためか」
確かに、遠方から大きな力を二つ感じる。しかも片方は家の近くだ。梢が今更戻ったとは考えにくいから、草薙樵なのだろう。
「我が身が二つあれば両方に出向くが、そうしている時間はない。被害が大きくなる」
「……片方を俺に任せる、ということか?」
「任せられるかどうか聞いている」
決意。皆がそれをしている。梢を殺して樵を救おうとしている者。両方を殺して被害を最小限に抑えようとする者。自らの死で周囲を救おうとする者。そんな男を追いかけようとする者。
てんでバラバラだ。当然だろう。最善の方法などないのだから。
選ばなければならない。それが決意というものだ。
零次は大きく深呼吸をした。
やはり、倉凪梢を見捨てることは出来ない。家族を失う悲しみは、もう二度と繰り返したくなかった。何もせず諦めることは出来ない。
かと言って、町の人々を犠牲にすることも出来ない。この町で暮らしたのは僅か二年程度だ。それでも、ここは零次にとって掛け替えのない故郷になっている。家族同様に失いたくない友人・知人も大勢いる。
守ると決めた人もいる。
全部捨てられない。何もかもを守り抜きたい。
誰もが何かを切り捨てる。それが現実的だ。それが、自分の理想論に水を差した。迷いが生じた。
だが――もう迷わない。
全部守る。
全部救う。
そのために最善の努力を尽くす。夢見事だと笑われようが、最後の最後までその姿勢を貫く。その果てに犠牲が出るかもしれない。それも、覚悟のうえだった。その結果に対する責任を背負う覚悟も出来ている。
それが、零次なりの決意だった。
零次の表情から、それを察したのだろうか。
無現は背中から翼を出し、それを昨晩と同じようにして剣にした。間近で見ると異様に禍々しい。だが、どこか哀しい剣でもあった。
無現はその剣を軽々と振るい、零次を拘束していた亨の金属を斬っていった。
「その剣は、なんだ?」
自由の身になった零次は、関節を鳴らしながら無現に尋ねた。
翼を繋ぎ合せて剣にするなど聞いたこともない。
「……私の翼は多くの嘆きを背負っている。その嘆きをこれ以上増やさぬため、私はあえてそれを剣という形にした」
「絶望断ち切る嘆きの剣、ということか」
無現の言葉の正確な意味は分からない。ただ、そういうものだと捉えておくことにしておいた。
無現そのものよりも、その剣の方が存在感を感じる。不思議な剣だ。
「貴様はどちらを目指す?」
無現は零次から視線を外し、強大な気配のする方を睨み据えた。零次もそれに倣う。
「……家に行かせてもらう」
梢のことも気にはなったが、美緒の様子を確かめることが最優先だ。彼女は普通の人間で、しかも事態に深く関わる立場にある。ある意味では、梢たち以上に危うい立ち位置にいると言えよう。
「ならば私は山へ」
言って、無現は空に浮かび上がった。翼は剣になったままである。飛行に翼は不要らしい。未だに謎だらけで信用しにくい相手だが、今この瞬間は敵ではない。それが救いと言えば救いだった。
零次もまた、翼を出して空に浮かぶ。
背中に視線を感じた。振り返ると、郁奈が神妙な面持ちでこちらを見ている。
「やっぱり、行くんだ」
「ああ。俺は諦めん」
零次がそう言うと、郁奈はいくらか哀しそうな表情を浮かべた。
「…………ね」
「ん?」
強い風が吹いて、郁奈の言葉はよく聞き取れなかった。
「何をもたもたしている。時間がないと言っただろう」
聞き返そうとする零次を、無現の急かすような声が押し止めた。そのまま無現は、山に向かって飛翔していく。
再び振り返ったとき、郁奈の姿はもうなかった。
……今は気にしている場合ではないか。
揺れは収まるどころかますます激しさを増していく。早くしなければ、被害はますます広がっていくだろう。
零次は脇目も振らず、家に向かって飛び出した。




