第十二話「暗い光」
ゆらゆらと。
ゆらゆらと、世界が揺れる。
急がなければ。
急がなければ、間に合わない。
サイレンの音が遠ざかっていく。避難場所へと向かう人々の姿が見えた。
町全体が不安に包みこまれている。
本当に――もう時間がない。
「……誰も死なせない」
そう呟いたとき、住宅街が終わりを迎えた。広がる田園風景。道は山に続いている。
バイクの轟音が響き渡る。遥は梢のことを想った。
確かに、自分の彼に対する感情は、恋愛感情とは別物なのかもしれない。それは、まともな人としての人生経験が短いから、よく分からなかった。
それでも、彼が死ぬと考えると、胸が締め付けられる。死は一時的なものではない。ずっと続いていくものなのだ。いくら時間が経っても、死んでしまえば二度と会うことは出来なくなる。
死なせたくない。
だが救う方法が見つからない。頭を抱え、泣きたくなりそうな気持ちを必死に押し殺しても、彼をいかに救えばいいかが分からない。
そして、今朝。
遥は彼に、捨てられた。
「……あんな終わり方は、嫌だ」
だったら自分はどうすればいい。その疑問が浮かぶ度、泣きそうになる。それを無理に抑え続けて、すっかり表情は硬くなっていた。口調も乱暴になりつつある。
遥が今決めているのは、梢に会う、ということだけ。それからどうするか。会ってから決めようと思っていたが、この状況では無理かもしれない。
会いたい。なのに会うのが怖い。会ってしまえば、それが本当の終わりになってしまいそうだから。遥の思いなど無視して、事態が進んでしまうかもしれない。
……せめて。
悲痛な思いの中から、一つの答えが出てくる。
……せめて、最期まで一緒にいたい。
多くを望むことが出来ないなら。当たり前のことすら望めないのであれば。
彼の最期を見届けたい。最期まで、せめて家族として、一緒にいたかった。
……それくらいは、神様にも許して欲しい。
遥のバイクは、山道に入った。梢のものなのだろう。彼の力が、より強く伝わってくるのが分かる。揺れもますます強くなっていた。
「わっ……!」
下から突き上げるような衝撃に、遥は運転を誤った。勢いよく木々の中に頭から突っ込んでしまう。
だが、痛いなどと言ってはいられない。
……もうバイクじゃ無理か。
ここまで来たなら、走って行った方が速い。痛む身体に鞭を打ちながら、遥は梢の元へと急いだ。
人目も憚らず、全力で家まで飛んで戻った零次は、そこに亨の姿を見た。
亨もすぐに零次に気づいたようだ。彼は家の中から庭先に出てきたところらしい。そこから、空中の零次を見上げている。
なにせ、ついさっきやり合ったばかり。ぴりぴりした空気が両者の間に漂った。
「倉凪がいないんです」
言いたいことは色々あるのだろう。しかし、亨は感情を押し殺したような口調で、それだけを言った。
「既に逃げたということか?」
「この辺りなら避難場所は朝月学園のはずです。でも、通りがけに倉凪の姿は見ませんでした」
嫌な予感がする。
この近くで発症しているのは、おそらく草薙樵だ。彼はつい先日も、美緒を人質にして逃亡を図ったことがある。今回も似たような状況になったとしたら。そして、逃げている最中に草薙が発症したとしたら。
背筋が凍えるような光景が、一瞬脳裏に浮かんだ。
「……猶予はないな。亨、行くぞ」
「あんたに言われるまでもない。あいつは僕の家族だ」
亨も、本来零次たちが憎くて敵対したわけではない。守りたい対象はほとんど同じなのだ。僅かな差が、今の微妙な関係を生んでしまっただけである。
美緒を助けたいという思いは、二人とも同じだった。
「これは……」
山の奥地に進むにつれて異様さを増す光景に、遥は息を呑んだ。山林に生い茂る植物で荒波を表現しようとするとこうなるのだろうか。草木のすべてが、あり得ない形に歪んでいた。
更に進むと、木々は蠢くようになった。別に遥を狙ってくる様子はないが、ひどく気持ちが悪い。
植物を生みだすのが梢の異法だが、既にある植物を操ることも出来る。だが、これほど広範囲の植物をこうも禍々しくとは考えられない。
山林全体から、どす黒い感情が溢れ出ている。
……これは、憎悪?
今まで多くの人々の思いを感じ取ってきた遥だったが、今この山林が発しているのは、かつて感じ取ったことのないものだった。
深く、暗く、甘く、泥のようで、どこまでもどこまでも沈み込んでいく。常闇よりもなお深い。そして、海のように広い感情。
底なし沼に向かって進むような不安感に、足取りが重くなっていく。
この先にいるのは――本当に梢なのか。
獣の咆哮が聞こえてくる。この揺れで怯えているのか。耳を塞ぎたくなるような、嫌な叫びだった。
進むにつれて、揺れの種類が変わってきた。元より自然の地震と比べて乱暴で不規則な揺れだった。それが、まるで地団駄を踏んでいるような、周囲にあたり散らして暴れているような感じだった。
歯を食いしばりながら一歩を踏み出す。遥の視界に人影が映ったのは、それとほぼ同時だった。
……梢君!
まだ遠い。だからはっきりとした様子は分からない。けれど、あの後姿は間違いなく梢のものだった。
「しょ――」
届くかどうか分からない。それでも、声をあげずにはいられなかった。
そんな遥に冷や水を浴びせるかのように、眼前に木の枝が叩きつけられた。
周囲の木が一斉にこちらを向く。
顔も何もないから、そんなことは分かるはずもない。それでも、遥には周囲がこちらに悪意を向けてきたことが分かった。
もう一度梢の方を見て、遥は言葉を失った。
先程は見えなかったものが、姿を現していた。
梢の右腕。そこから、無数の人間の頭が生えていた。人間の肌ではない。すべて表面は樹脂で出来ていた。
その無数の顔が、四方八方を睨み据えながら叫び続けている。叫びながら、それは膨張と凝縮を繰り返していた。
光景がぶれる。
梢に気を取られていた隙に、木の枝が脳天を強打したのだ。強烈な一撃に脳が揺さぶられ、平衡感覚が崩れる。思わずよろめいた遥の脇腹に追撃が入る。
「く、うぅっ……!」
宙に身体が浮いたと思ったら、背中に激しい痛みが走った。本当に吹っ飛ばされたらしい。視界が揺れ動き、正確な状況が把握出来ない。
震える手が樹皮に触れる。木に激突したのか。
顔を上げる。ぐらぐら揺れる光景の中に見える梢の姿は、先程よりも近くにあった。
「――――」
側で耳にすると、怖気が走る叫び声だった。獣の咆哮ではない。人間の叫びでもない。強いて言えば、風の音に似ている。
ちり、と頬を何かが掠めた。意識が朦朧としていて気付かなかったが、梢の周囲は、木の枝の鞭が縦横無尽に暴れ回っていた。遥の動体視力では、何かが動いているということぐらいしか分からない。
頬に触れる。べったりと血がついた。
……私は。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。ぐらぐらと揺れる脳をどうにかしようと、手で頭を押さえつけた。
「何をしているのっ!」
そのとき、叱咤の声が聞こえた。
視界の端に、一人女が立っている。純白のコートと、艶やかな漆黒の髪。どことなく、顔立ちは涼子に似ているような気がした。
女は苛立ちと驚きを交えたような顔をこちらに向けている。
「なんでこんなところに……! 早く逃げなさい!」
言いながらも、女の腕は絶え間なく動いていた。女の周囲から小規模な破裂音がしていた。女に迫ろうとしている梢の植物を、次々と爆破しているらしい。
高速で詠唱もなしに魔術を連発するのは、相当な使い手の証拠だった。だが、そのことに感嘆していられる余裕がない。
「何、よ……!」
女に対する反発心が、身体を奮い立たせる。まだ視界はぐらついているが、どうにか身体を起こすことは出来た。
「私は……」
目の前で暴威を振るう梢を見る。否、あれはもう梢ではないのかもしれない。
少なくとも、本来の梢なら自分の力をこんな風に使ったりはしない。彼が尋常ならざる力を振るうのは、誰かを助けるときだけだった。
誰かを傷つけるために力を振るう。それを、梢はもっとも嫌っていた。
だから、止める。
「私が……止める!」
それは、判断と言うよりも勘だった。
数十メートルはあるであろう糸を創り出し、梢目がけて投げ放つ。
「捕えろ!」
遥の言葉に応じるかのように、創り出された糸は蛇のような動きで梢に絡みつく。あっと言う間に梢の上半身はぐるぐる巻きにされた。
やった、と思った瞬間、遥は太い腕によって抱きかかえられ、跳躍していた。
一瞬遅れて、ひゅお、と不気味な音が聞こえた。次いで、眼下に見える木が粉々に砕け散る様が見えた。遥が今しがたまで立っていた場所である。
自分を抱きかかえたのは、見知らぬ男だった。二メートル近くはあるであろう巨漢である。厳つい顔の男は、こちらに気遣わしげな眼差しを向けてきた。
男は何か言いかけたが、口元を引き締めると別の方向に視線を移す。
「姫様!」
「ここは私が! 陰綱、貴方は早くその子を、遥を避難させるのよ!」
先程の女の声が聞こえる。と同時に、着地の衝撃が身体に伝わった。
男の視線を追う。女は先程と同じように、自分に迫る触手を次々と破壊し続けている。
……え?
梢の動きは封じたはず、と思って周囲を見渡す。そして愕然とした。
何も変わっていない。森は――周囲の木々は、相変わらずこちらに敵意を向け、不気味に蠢いている。
梢の動きを封じても意味はないのだ。
彼は植物を生み出したり、操ったりする力がある。そしてここは山林。周囲すべてが梢の手足なのだ。例え全身の動きを封じたところで、この森の猛威は鎮まらない。
梢を――殺さない限り。
遥の行動は、むしろ梢を刺激させてしまったのかもしれない。森全体が放つ怒りの気配が、より深く濃くなっていた。
陰綱と呼ばれた男は、遥と女を見比べて、僅かに躊躇する様子を見せた。だがすぐに意を決したらしい。こちらを抱える腕に力を込めた。
そのときだった。
森全体を覆う烈火の如き怒り。暗く深い闇を感じさせる気配。
それと同質のものが、飛来した。
遥だけではない。陰綱も、姫と呼ばれた女も、そして正気を失った梢さえもが、上空に現れたその影を見据え、動きを止めた。
森が息を殺した。
全身を包帯で覆い隠した男。その手には、歪な漆黒の剣が握られていた。
空気が凍りついていた。
その場に到着した零次の視界には、何人もの人間の姿が入っている。
まず飛鳥井冷夏。何人かの人間と固まっている。こちらに気づいたらしく、感情の入り乱れた顔を向けてきた。この事態に焦っているのは間違いない。
次いで古賀里夕観。そしてフィスト。彼らも零次たちの到着には気付いているようだ。冷夏と比べると、殺気立った気配を周囲に向けている。迂闊に触れれば爆発しそうな雰囲気だ。それだけ緊迫したものを感じているのだろう。
周囲には、既にやられたのか、数人の男女が倒れていた。
そんな状況の中心に、男が立っている。
そしてその足元には――血塗れになった美緒の姿があった。
「っ……!」
それを見た瞬間、零次の中で何かが弾けた。
状況把握。そんなものはどうでもいい。
ただ、許せなかった。
「草薙、樵オオォォォォッ!」
誰が動き出すよりも速く、零次は男――草薙樵に飛びかかった。
弾丸よりも速く繰り出された零次の拳が、草薙樵の腹部に吸い込まれる。それを思い切り振り抜いた。
樵の身体は宙に浮かび、吹き飛んでいく。古賀里の女が何か叫んだようだったが、そんなことは知らない。
零次はしゃがみ込んで、血塗れになった美緒を抱きかかえた。
まだ息はある。だが脇腹を裂かれたらしく、内臓が見え隠れしていた。傷が深い。出血量も酷かった。このままでは間違いなく死んでしまう。
「美緒っ……!」
「零次、倉凪を貸せ」
側に来ていた亨が、零次の肩を掴んで言った。
思わず感情的な言葉を口にしそうになる。だが、亨の表情を見て言葉が引っ込んだ。こちらほど取り乱してはいない。
「どうするつもりだ? アテでもあるのか」
「飛鳥井のホテルには幸町さんがいる。彼なら――」
幸町。正規の医者ではないが、魔術やら異法やらといった裏事情に詳しい医者。零次にとっても顔馴染みだが、ここ数日は姿が見えなかった。
……飛鳥井のところにいたのか。
心中複雑だったが、ああだこうだと言っている場合ではない。腕前は確かなのだ。美緒を助けることが出来るかもしれない。
傷口が広がらないよう、零次はそっと美緒を亨に渡した。
「頼む」
「ええ」
互いに頷く。
亨は、美緒を抱えて走り去って行った。
それを見送り、零次は草薙樵が吹っ飛んだ先に視線を戻した。再び怒りが全身に広がっていく。
「草薙樵」
周囲にいるであろう冷夏や夕観たちのことは、気にならなくなっていた。
「どんな事情があろうと、俺の家族を傷つけた以上、許しはせんぞ……!」
その怒りに応じるかのように、獣のような声をあげて、草薙樵が飛びかかってきた。
速い。先程の零次の突撃を上回る勢いだ。
零次は腕と脚の悪魔を解放し、真っ向から迎え撃つ姿勢を取った。
突っ込んできた樵の拳と、漆黒に染まった零次の拳が激突する。凝縮された魔力が火花を散らした。
……この、勢いはっ!
両脚に力を入れて踏ん張る。少しずつ足が地面にめり込んでいった。
しかし、どれだけ勢いがあろうと引く気にはなれない。美緒を傷つけた奴が相手なのである。零次にも意地がある。
「引けるか……っ!」
背中の翼が大きく開いた。そこから追い風が生じる。
「引けるかアアアァァァッ!」
零次の足が、一歩進んだ。
腕を無理矢理押し込む。
樵の身体が再び宙に浮いた。それを追って、相手の脳天に回し蹴りを放つ。まともに喰らった樵は、受け身も取らず地面に激突した。
だが、樵は何事もなかったかのように起き上った。ほとんど効いていないらしい。
すかさず追撃を叩き込む。樵の反応は鈍い。零次の連打を、防御もせずまともに喰らい続ける。大振りな反撃も、こちらにはまるで当たらない。
顔面に渾身の拳を叩き込んで、樵を吹っ飛ばす。
だが、零次の胸中には焦りが生じていた。
……硬過ぎる。
どれだけ攻撃しても、まるで効果がなかった。これでは埒が明かない。下手すれば、攻撃しているこちらの方が先に体力切れになる。
……武器が。
武器が欲しい。樵を一撃で倒せるほどの、強力な武器が。
脳裏に浮かぶのは、無現の手にしたあの漆黒の剣。
多くの嘆きによって形作られているという、あの剣。
あれがあれば、樵を倒せる。
――ある。
どこかで、誰かが囁いた。
――お兄ちゃんも知ってるんだよ、本当は。
郁奈の声も、どこからか聞こえてきた。
……あのとき、無現はどうしていた?
背中の翼を切り離し、それを繋ぎ合せた。そうすることで、翼が剣になった。
不意に、零次は背中が軽くなったことに気付いた。視線を後ろに向ける。
そこには、自分の背中から切り離された翼があった。
なぜか驚きはなかった。自分でも奇妙なくらいに落ち着いている。
零次は両腕で切り離された翼を掴んだ。
悪魔の翼。一時期、自分が最も嫌っていたものだ。これのせいで、零次は多くの人々から怪物扱いをされ、迫害を受け、母と妹を失った。
そのことがきっかけで、また別の悲劇も生まれた。遥や涼子の人生を狂わせたのは、零次の実の父親だった。だがそれも、元を辿れば零次のこの翼が原因である。
深く暗い業を宿した翼。手にするだけで、様々な思いが去来する。
だが、それを零次は否定しない。
かつては、こんなものさえなければと、ただ忌み嫌っていた。しかし、この翼に救われたことも何度かある。どんなに嫌な思い出があろうと、この翼は目的を達するための力になる。大切なものを守るための力になる。
多くの嘆きを宿しているからこそ――守りたいという念も強くなる。
「解放――"剣"」
その言葉と共に剣を繋ぎ合せる。刹那、黒い光が周囲を包み込む。
そして光が治まったとき――零次の手には、歪な漆黒の剣が握られていた。
剣には、ぞっとするほど多くの感情が込められていた。自分の中にこんなものがあったのか、と考えると震えが走る。
形こそ剣状だが、これは自分の中にいた悪魔に違いなかった。それが自分の身体から完全に解放されている。
零次の中の悪魔は、制御し損ねればすぐに暴走した。周囲にあるものを破壊し、傷つける。それこそ土門荒野に乗っ取られかけている、今の草薙樵のように。
この剣も同じだ。気を抜けばまた姿形を変え、周囲に暴威を振るうものになりかねないだろう。これは、生きている。
剣を握る手に力を込める。見つめる先には、ゆらりと起き上る草薙樵の姿があった。
距離はおよそ十メートル弱。
異法人の身体能力で考えるなら、さして遠い距離ではない。だが、樵は先程のように飛びかかってこなかった。理性がなくとも、本能が理解したのだ。
この剣が、危険な代物だと。
零次は無言で八双の構えを取った。こちらの闘気に呼応するかのように、剣も黒い光を放ち始める。ずしりと、空気が重くなった。
傷ついた美緒の姿が脳裏に浮かぶ。
零次の眼光が鋭くなった。
無言の対峙はどれほどの時間あったのか。
零次が大きく剣を振るったのと、樵が飛び出したのはほぼ同時だった。
全身を包帯で包んだ男が、剣を振りかぶる。標的は間違いなく梢だった。
「あ……」
陰綱に抱えられながら、遥は全身を硬直させた。
あの剣に込められた力。それは、森全体を支配下に治めている梢の力をも凌駕する。素人目にも分かるくらい、それは強大なものだった。
まともに喰らえば――それだけで梢が死にかねない。
待って、と叫ぼうとした。しかし、上手く声が喉から出てこない。緊張のあまり、舌や喉が思うようにならなかった。
包帯男に向かって跳躍しようとする梢の横顔が見えた。
そこだけは、いつもの梢と同じに見えた。
誰かを助けるため、何かに立ち向かうときの横顔。
それが、光に包まれて、消えた。
その瞬間、秋風市全域に閃光が走った。
やがて、町を震撼させていた揺れがぴたりと止まった。
町に暮らす人々は、訝しく思いながらも、ほっと胸を撫で下ろす。
しかし、その裏で起きている事件は――より混迷の度合いを深めていくことになる。




