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毎朝、寝起きに一雫。
水神の少女から手渡されたペットボトルを開ける度に、室内に満ちる神気の濃さにやっと慣れてきた。
千世子の衝撃の使用用途に耳を疑ったあの日から数日が過ぎた。
初日は風呂上がりに口を開けただけで圧に耐えられなくなり、自室を神気で満たして終わった。
初日と言わず、三日ほどはそんな有り様だったのは仕様の無いと思って欲しい。
何とかキャップの縁についた一滴にも満たない神水を口にした時には、一瞬気絶をした。
何度も言うが、あくまでも一瞬だ。立ちくらみみたいなものだ。
誰だ。今、強がりとか言った奴。少しOHANASIがあるから放課後俺のところに来るように。
っと、まぁ、こんな風に朝、寝起きに一雫とか格好良く言えるようになったのは、千世子から神水を手渡されてから、約一週間後のことだったりする。
今朝も寝起きの頭を神水ですっきりさせた後、入っていたメールを眺め、心底間抜けな声を上げた。
「……は……?」
佳境だった期末テストも終わり、吾都万学園は楽しい夏休みに突入していた。
♢♢♢
「では第一回、どきどき夏休み! 滝津様夏の課外修行もお守りするぞ会議を始めたいと思いまーす! ちなみにこれは、灯処ちゃんとはハ・ジ・メ・テの個人会議。会場も日暮家というスペシャル仕様でお送りしております!」
どんどん、ぱふ。
「初めての、お……おともだちのおうちっ! 初めてのおともだちのお部屋……っっ!! 灯処ちゃんっ! ありがとうありがとうっ。今日は思い残すことが無いように一杯匂いを嗅いでいくねっ」
「え……、気持ち悪い上に会議の内容がわからなすぎる……。とりあえず、泣きながら手を握られるの怖いから振り払うけどいいよね?」
「辛口のコメントすらも、今は幸せの要素! くぅ! 好き!」
「ご主人様、水神様のご寵愛が深いですぅ。さすがです! お水飲みます?」
「あら。ありがとうアオくん。グラスに二杯、お願いできる?」
いつものように訪ねてきたコツメカワウソに、灯処が答えると『アオ』と呼ばれた彼は、一段と明るい声ではい! と返事をした。
「すぐにお持ちしますね! 少しお待ちくださいですぅ!」
金色の小さな雲に飛び乗ったアオは一目散に灯処の部屋のドアをすり抜けて行った。
どうやら、一階にあるキッチンへグラスを取りに行ったようだ。
コツメカワウソが乗った金色の雲の残滓を指先で弄びつつ、千世子はつい、と口許を上げる。
「そういえば思ってたんだがね。君はいつの間にあのコツメカワウソの『ご主人様』になってたんだい? 私の知っている限りでは、君は私の『ご友人様』と呼ばれていたと思うが」
「……あんまりにもずっと、私の側にいるから、何て言う名前なのかって聞いたのよ。あの子に……、そしたら……」
『……どうしました? ご友人様。お水飲みます?』
今日も今日とて何故かずっと灯処の部屋にいるコツメカワウソが、くりっと首を傾げ灯処に問うてくる。
毎度の質問内容に疑問を覚えつつも、金色の雲の上にいるそれを、灯処は見詰める。
金色の雲に乗った、青い着物を着たコツメカワウソ(※喋ります)。
テレビに出たら一躍有名になること間違い無しのその子。
千世子の呪いによって見えるようになってから、灯処の何を気に入ったのか気が付くと部屋の中に住み着いていた。
『前から思ってたんだけど、君ってどうして私にくっ付いてまわってるの? 君は千世子ちゃんの’けんぞく’? なのよね? ずっとここにいていいの?』
『!? ご友人様、お優しいですぅ。こんな僕のこと気にしていただけるなんて……っ! ご心配はいりません! ご友人様のおっしゃる通り、僕は水神様に連なる種族ではありますが、’眷属’など畏れ多いものではありませんし、僕は水神様や、風神様のご寵愛深いご友人様に憧れておりますので、ご友人様の近くにいとうございますれば……! っ、もしや、ご、ごごご、ごめいわくでしたか……っっ!? 』
『えっ!? いいえ! 迷惑なんかじゃないわ(そりゃ、初めは金色雲に乗ったコツメカワウソには驚いたけど)。いつも美味しいお水も出してもらってるし。
ただ、ずっとここにいるから気になっちゃって。それだけだったの。でも、憧れ、なんて言ってもらって嬉しいわ』
『じゃ、じゃあ……僕は、ご迷惑ではないでしょうか……?』
『もちろん。好きなだけいてくれていいわよ』
小さな指と指を胸元でつんつんしながら、おずおずと見上げてくるコツメカワウソに、灯処は笑顔で首肯した。
『ならば、名付けてはどうかの?』
突如、ここにいないはずの声が響いたが、そろそろ神出鬼没なその存在に慣れてきてしまった灯処は、ただただ、恨みがましい声を出すことだけに留める。
もうそれこそ、こいつに何を言っても無駄だ。
『風青……! あんた、また私のベッドに……!』
何を言っても無駄とわかっていつつも、我が物顔で乙女の寝床に寝転がって現れるその姿勢を許したわけではないのだ。
が、相手も相手で、さすが風の神。どこ吹く風。
『その者、まだここにおるのだろう? ならば、呼び掛けに不便でない名前を付けてやればよいのではないか?』
『何言ってんの、私が付けなくてもこの子にはこの子の名前があるでしょ? ねぇ?』
『なまえ……! 良いのですか!? ご友人様が僕に付けてくれるのですか!?』
『え”?』
コツメカワウソとのやり取りを眺め、優雅に扇を取り出した風青は、ふむ、と広げぬ扇を口許に当て、うっそりと微笑む。
『その者に名は無いよ、灯処。水に連なる種族といっても、その者らは自然に同じ。
空に浮かぶ雲や、川のせせらぎ一つ一つに名を付けられるものではなかろう? この者らは、そういうものなのだよ』
『な、なるほど……?』
わかったような、わからないような話に一応相槌は打ってみる。
まぁ、本当はよくわからないのだが、このコツメカワウソに名前は無いことだけは理解した。
『じゃあ、本当に私が付けちゃっていいの? ……名前、なんて大層なものじゃなくて、呼び掛ける時に困らないような愛称になっちゃうけど……』
あくまでも、この子が一生使うような名前は付けられないぞ、という確認を込めて風青の翠色の瞳を見詰める。
蠱惑的な赤い唇が、下弦の月のように見事に弧を描く。
『良きにはからうが良いよ。灯処。その者は、それを望んでおるのだから』
麗しの美貌にくらくらしながら、灯処は言われた通りコツメカワウソを見てみる。
小さな瞳を期待でキラキラさせながら、こちらをじっと見てくる。
どうやら、とてもワクワクしているらしい。
『そうねぇ、じゃあ……』
コツメくん……じゃ、そのまますぎるし、金色の雲はコツメカワウソの本体ではない。
じゃあ……。
『青くん……。今から、君のことをアオくんと呼ぶことにするわね』
着物が青いから、アオくん。これも安直すぎるかもしれないが、呼ぶときの愛称だと言うのなら、これでも良いだろうと思ったのだが。
『あお……、僕の名前は青……っ!』
突然、コツメカワウソ……アオが光り輝き、瞬く間に光が終息したかと思うと、灯処は自分の中の変化に驚くこととなった。
今の今まで感じられなかったのに、光りの消失と共に、灯処とアオの中に繋がりが出来たのだ。
物理的に説明のつかない酷く感覚的なものだったが、それは確かに繋がりだった。
『……っな、に……?』
『ご友人様! 灯処様……っ! いえ、ご主人様! 私青は、今よりご主人様に誠心誠意お仕えいたします! これから、どうぞ何なりとお申し付けくださいませ。ご主人様!』
ご主人様。
言葉が持つあまりのインパクトに、灯処は何が何だかわからない。
『え? ……あ……?』
『ふむ。青か……。灯処に、千世子と我の加護が付いている上に、我の名の一文字であるからか、風の力も少々使えるようになったようだのう。
よかったのう灯処。おぬしの僕が出来たぞ』
『しもべ……?』
何で?
『名付けとは契約だからなぁ。名を持たぬモノに確固たる存在を与える儀式。存在を与えるということは存在を認める、ということ。
名を貰ったモノはその時点で名付け親と繋がりを持つこととなる。
そやつらは霊体だからのう。周囲に認知される可能性が上がれば、それだけ本人の実力にも影響する。
今回はその良い例であったということじゃ。よかったのう。青』
『はい!』
いや。待て。待て待て待て待て。ぜんぜん良くない。ぜんっぜん良くないよね。
『何よそれっ! あんた、私をダマしたわねっ!?』
憤りのまま、ベッドでごろ寝している風青を指差すが、相も変わらず、どこ吹く風。
『”騙す”など、人聞きの悪い。ただ我は、そなたたちのことを思い、助言したまでのこと』
『ご、ご主人様……!』
『言わなきゃいけないことを、あえて黙って唆すことを助言とは言わないのよ! この詐欺師ーーーっっ!!』
「……っと、言うわけで、千世子ちゃんのお仲間の風の奴に良い様に弄ばれて、青くんの”ご主人様”になったワケよ……、そこ。肩震わせて笑わない……!!」
「いや、すまない……っ。ちょっと、だいぶ面白いことになってたんだな……! 灯処ちゃん。本当に風さんに気に入られちゃって……!」
「恐ろしいほどの美形なのは認めるけど、全然嬉しくないわ、それ」
呆れながら、手をふりふり。
「それで? 滝津様の……、なんだっけ? 何かを何かするための会議をするんでしょう? まず、どうしてその会議を私の家でわざわざするのかは疑問だけど」
「それは簡単。私がお友達の家に来てみたかったからです」
千世子が親指を立てると、灯処は頷いた。
「正直でよろしいが、私を巻き込まないで欲しい」
「言い換えよう。夏休みに私と一緒に小旅行へ行こうじゃないか!」
「前に聞いていた話から、怪談旅行にしかならない気がしてならない……」
「ならなら……?」
ならなら言いすぎて、自称、少しお馬鹿な千世子がポンコツな返しをする。
それを灯処が黒髪をなでなで。
「まぁ、それは置いといても、ねぇ、千世子ちゃん。その”小旅行”、私は多分、本当に行けないわよ?」
「ええーーー!? 何で!?」
『行けない』という一言に、ポンコツ千世子は抗議の声を上げる。
まだ旅行の詳細も語っていないのに、断られるとは早すぎないかっ!?
「旅費のことなら大丈夫だよっ!? 私の神様へのご機嫌取りマネーが火を吹く予定だから! お宿も滝津様達に合わせて超高級旅館に無理矢理予約をねじこむ予定だから安心して二人で一夏の思い出を過ごしてもらえるスーパープランだよっっ!!?」
割りとツッコミ所の多い内容を、軟体動物よろしく体全体で灯処に絡み付きながら発する千世子の肩をぐっと掴む。
「千世子ちゃん」
今まさに、灯処のお胸に向かってお顔を埋めようとしていた千世子は、思いがけず強く名前を呼ばれて灯処の目を見てしまった。
彼女は微笑っていた。
しかして、彼女のタレ目がちな瞳は笑っていなかった。
「へぇ……?」
「私ね。特進科なの」
「……ぞ、存じておりますが……?」
「特進科はね。お勉強をたくさんするクラスなの」
「そ、そうですね……」
千世子が肯定すると、灯処は今度こそ良い笑顔で笑った。
「特進科に、夏休みって無いの」
きっぱりと言いきる友人に、千世子の口の端が歪む。
「そ、それは、嘘だぁ……」
「ううん。無いのよ」
「…………」
「学校の休暇期間、希望者のための補講授業があるの。もちろんこれは、赤点を取った人のための、と言うものではなくて特進科の先生達の、特進科の生徒達へのものよ。……もちろん希望があれば、他の科の生徒も受けられるけど。
それがね。お盆と土日以外、毎日あるの」
その補習講義は認知している。何故ならば千世子の通う普通科のクラスにも申請書が回ってきたからだ。
けれども、自称、少しだけお馬鹿な千世子は、その存在をすっかりと忘れていた。
やっと学期末テストが終わり、やっと自由の身になったばかりなのだ。また、自らあの脳みそが溶けそうな空間に身を置くなんてありえない。そうやって申請書を早々に机の引き出しに押し込んでしまったから、ぶっちゃけ忘却の彼方だった。
だが、思い出してみてもおかしい。
だって、あの講義は強制じゃないのだ。それに特進科の中でも成績優秀者である灯処が強制的に補習になるなど考えられるわけが無い……。
けれど千世子の頭は、弾き出しそうになったその答えを全力で拒絶した。
そんな……っ、そんな馬鹿なことがあってたまるかっっ!!
夏休みだぞっっ!? 高校生になってから初めての。高校生活最初のっ。花の十六歳のっっ! 今しかない、ピッチピチ(死語)の、今しかない(二回目)夏休みだぞっっ!!?
中学を卒業して、少し大人になった自分。新しい友人、新しい環境。そんな中で迎える長期休み。
誰もが開放的になるしかないこの季節の貴重な休みを……、まさか……っっ。
「で、でも……、その補講って、……授業ごとの申せい……っっ」
「言ったでしょう? 千世子ちゃん」
そんなことって……っっ!!
「私ね。お盆と土日以外、毎日あるの」
崩れ落ちた。
音もなく崩れ落ちた。
滝津の側から離れなれないながら、初めて出来た人間のお友達と少しでも一緒にいようと絞り出した苦肉の策だったのに……っっ。
「ご主人様! 水神様! お水、お持ちしま……、どうしました!? 水神様!?」
「…………」
金色の雲に乗って来た小動物に、ちょっとだけ癒された。




