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時は、ほんの少し遡る。
千世子は後悔していた。
それはもう、本当に後悔してた。
「……、舐めてた……」
神気を貯めている水瓶から、学園の近くまで通り抜けて来たとしても、徒歩十分。
走れば、恐らく約五分。
全力疾走で、約五分。
たかが五分。
されど五分。
この世に生を受けて十六年。運動部に所属したことも無い、所謂“運動音痴”と言われる部類の千世子は、一言で言って体力が無かった。
ヒューヒューと、ちょっと危険な呼吸音を響かせながら、肩で息をする千世子の視界は、弱冠汗で霞んでいたりもするグロッキー状態。
走り始めてまだ三分ぐらいではあったものの、それでも千世子にしてはかなり良く持った方だと言わざるを得ない。
急がなくてはならないことは、良くわかってはいるのだけれど、ぶっちゃけもう限界である。
「……も、ダメ……っ」
生まれたての小鹿よろしく、ヨタヨタと頼りない脚付きで、千世子は近くのポールに腰掛けた。
「ふぅー……」
腰につけていたホルダーからペットボトルを取り出し、ゴキュゴキュと水分を補給した千世子はやっと一息ついた思いである。
『千世様!! 千世様!!? 何してんですかっ!!? 早く、早く来て下さいようっっ!! 今、『ふぅー』とか聞こえましたよ!? 何かすっごい気の抜けた声が聞こえましたヨ!!?』
そんな中でも眷属のこの声である。
本当に、主人の心臓を考慮しない眷属で困る。
いや、千世子は千世子で今の状況を重々承知してはいるのだが、喉元過ぎれば熱さ忘れる、と言うか。これが所謂賢者タイムなのか?というか。そんな緩慢かつ、閑静な時間に突入してしまったというか。
焦りが一周回ってパーン! して、授業に盛大に遅刻してしまった時のような開き直った気持ちになってしまったというか……。
……あれって、どうしてあんなにも清々しい気持ちになってしまうのだろう。
『もう、いいや。……ゆっくり行こう』
なんて……、きっと人間はこういう所で“諦め”という感情を学んで行くのだろうな。
人間の感情の移り変わりに、また一つ小さな哲学を見てしまった千世子は、うんうんと頷きながら、再び立ち上り走り始めた。
ゆっくりと。
「ホッ。ホッ。ホッ。ホッ。ホッ」
『……千世様……? 急いでます? 本当に急いでます!? 何です!? ホッホって! それ、呼吸音です!? それ、一歩ずつの呼吸音ですっ!?
絶対一歩が小さいでしょう!? そうなんでしょう!!?』
『だいじょうぶ。だいじょうぶ。かーこ。私、ちゃんと走っている。走って前に進んでるよ……』
『大事なことかもしれないですけどっっ! 内容ーーーーっっ!!!』
『でもね。かーこ。大丈夫だよ』
『な、なんなんですかっ!? その余裕はっ!』
『だって、彼等は四家の嫡男達だ。傍系の子達はわかんないけど、少なくとも、本家筋の子達には守護龍の加護が働く。
腕が飛ぼうが、足が飛ぼうが命だけは助かる』
『腕が飛ぼうが……、まぁ、そうかもしれないですけど』
『それに、今はかーこがいる。私も向かってる。良く考えたら、こんな大判振る舞いもそうそう無いよ。かーこなら、あの子がどんなことになっても数分は持たせてくれるでしょう?
それにもし、腕が飛んでても、私がいる』
『…………』
『人体の約七〇%は水だ』
主人の悪戯っ子のような笑い声に河子は小さく嘆息した。
『……、今の私を、そんなに信用してもらっても困りますよ……?』
せめてもと、主人に悪態を吐いたのに、河子の主はただ楽しそうに笑うだけだった。
『それに、少し楽観的に考えてみようよ』
『? どういうことです?』
『確かに、今私は“もしもの事態”に備えて動いているわけだけど、その“もしも”は起こらないかもしれないじゃないか』
『…………』
『一応、盛塩、水張りもしているわけだし、彼女の感情も落ち着いていた。結界に守られ気配も小さい浮遊霊に、彼等は気付くかな?
気付いたとしても、相手は浮遊霊だ。害無しと見逃す可能性だって無いわけじゃないかもしれない』
『……、それは楽観しすぎでは?それに、彼女が強制的に滅せられたとしたら、千世様確実に』
『怒るだろうけどねぇ……。けど、まぁ、そうなったら……、そうなる前に痛い目を見るのは嫡男達の方か……』
あれだけ純粋な魂も珍しい。
彼女を見つけた時、千世子は感嘆した。
よくぞ、ここまで……、と。
『千世様?』
反応が遅れたからだろう。怪訝そうな声音で河子が千代子の名を呼んだ。
『ああ……。かーこ。一応先回りして彼女の様子を見てきてくれないかな。何か思い出して感情が高ぶっていたりしたら、その分見つかりやすくなる。
特に、槌永先生はスルドイからね。もし、彼女が悲しい思いをしていたら宥めてやって。
私も、後から行くから』
千世子の言うことはいつだって、命令に見せかけた“お願い”だ。
河子も、そして彼女の他の眷属や神使もいつだって口元を綻ばせずにはいられない。
『はいっ……!』
まったく本当に、ウチの神様はいつだって、こんなに優しい。
だから私達は、いつだってこの神様の喜ぶことをしたいんだ。
けれども、この状況がそれを許してくれなくなるのは、僅か数分後。
千世子の命令に従い、『彼女』の様子を見に行った河子は驚愕した。
どうして。彼女の中に人間の女の子が入っているのか。
そうして、河子は後悔する。
どうして自分は中に入らず、教室を外から覗く、など遠回りなことをしてしまったのか。
遠目からでもわかる。千世子の水張りが壊れている。
きっと壊したのは、彼女の中に入っているあの子なのだろう。
今は、落ち着いているように見えるが、廉条のお嬢様の気配がこの教室に近づいている。
二階の教室を覗くために、こちらは木の上。さらに目的の教室の窓は当然のように施錠されている。
河子は千世子の眷属であり、もちろん人間では無いが、今は千世子の生活のために肉体を伴った身体を持ち、且つ一般的な常識の範囲の力しか無かった。
今の河子に、すぐにでもあの教室に入る術は無い。
祈るしか無い、と思いつつも状況は最悪だ。
こんな時なのに。こんな時だからこそ、槌永の感知は優秀だった。
ほんの僅かな時間で、事態はどんどんと変化して行く。
それなのに、河子の祈りの対象は足が遅い。
だああああぁぁぁあああ!!! もう!! 千世様の馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿っっ!!!
『かーこ! ウルサイっっ!!』
内心で絶叫したつもりが、どうやら千世子に繋がっていたらしい。え? ワザと? いやいや無意識ですよ(キリッ)。
ああ。でも、本当に。
『千世様っ。まずいですよ。やばいですよっっ。早く! 早く! ハリアップッ!! ああっ!! 彼女が翠仙寺の風に抉られたっ!!』
『急いでるっ! 急いでるよっ!! 私史上、最高に急いでるけど、私は文系(体力、足の速さに自信無しっ!)だっ!!』
『偏見ある副音声が聞こえますっ』
『っうぁああああぁぁあああんんん!! どうして、今日の夜勤が河子なの!? どうして私は神様(表役)で河子を使ってしまったの!? 河子はどうして水の龍神として滝津様と面識があるのーーーっっっ!!?
確かに、いざとなれば、河子を使う気は満々だったけど、それは本当にいざとなったらでしょう!?
本当にいざとなるとは思わないじゃないっっ!!?
はっ! もう一層、河子が守護龍として堂々と滝津様を助けに行けばいいのではっ!?』
『千世様。今日の私はTシャツとジーパンです』
『衣装ーーー!!!o(T□T;o)』
『っ!!? 千世様っっ!! 彼女の力が変ですっ! あれダメですっっ!!』
河子の目の前で事態がまた一気に最悪へと転がった。
彼女が暴走する。手遅れな方に。
思った瞬間、肩甲骨ぐらいだった河子の髪が腰まで伸びる。
身体を満たす潤沢な神気。
あんなに嫌がっていた千世子が、枷を一つ外したのだ。
『行け、河子』
『っはい!!』
ならば、その分の働きをしなくては、水神の眷属たる肩書きが泣くというもの。
『あ。でも、顔は出しちゃだめだぞっ☆』
『っっ! はいっ!! ・゜・(ノДT)・゜・』
こうして河子はTシャツを被って、滝津のピンチを救うハメになった。




