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「紅!!」
耳に飛び込んだ卯木の叫びを認識するよりも早く、目の前に迫った黒いナニ(・・)かに腹部を殴打され、掌に握っていた玉を落としながら、酷く簡単に紅火の身体は中を舞った。
咄嗟に反応した仲間達によって、何とか壁に強打されることだけは回避する。
遥、由紀、彼方を巻き込んで倒れ込んだ紅火は腹に走ったあまりの激痛に、一瞬にして意識を刈り取られたらしい。
何が起こったのかわからない。
ほんの一瞬、ひと呼吸もしない内に今の今まで浮遊霊程度の存在でしかなかったものの力が、こちらの手のつけられないほどに増した。
本当に、仲間達が紅火を受け止めてくれなかったら、間違い無く大怪我では済まなかっただろう。
紅火が痛みに気を失い、遥達が呻き声を上げている間にも、影に過ぎなかった力がどんどんと大きな暗闇へと変化していく。
『あー……、あ……』
もうすでに、手持ちの装備では手の付けられない存在になってきている悪霊に、卯木は何とか頭を動かし始める。
払う事が不可能ならば、せめて全員無事にここから抜け出さなければ。
部屋の入口……、『扉』というのはそれだけで一つの強力な結界の役割を果たす。
中級程度の霊や妖は、人に招かれなければ扉の向こう側に抜けることが出来ないくらいには効果がある。
卯木は、自分の推測にしたがって、目の前で増大し続ける悪霊に目を凝らした。
暗い靄の中であってもしっかりとした輪郭を視認すると同時に嘆息する。やはり、思った通り人が入っているあの霊は、今や取り込んだ人間を増強剤にして限りなく強力に成り続けるだろう。
体を持たない幽霊は、思念だけの存在と言ってもいい。
人間は自分の五感に感じることでしか基本的に、その存在を感知することが出来ない。
なので、何の能力も持たない人間に、霊を見ろというのは、他人の表情にも出ていない感情を感じろ、と言っているのと同じなのである。
しかしそんな幽霊が、何かの拍子に人間に取り憑き、……又は人間を自らの中に取り込んでしまったとしたら。
普通の人間には認識出来ない思念が、そのまま人間としての存在感を得ることになってしまう。
つまり、本来見えなかったはずのものが、取り込まれた人間を通して顕現されるようになり、普通ならば見えないはずの、能力の無い人間にも容易く認識出来るようになってしまうのだ。
『認識』させる、“意識に認めさせる”というのはそれだけで力だ。
目に見えて、それが本当にこの世に存在している、と思ってしまうと実際に物体としての型が無くとも触れたら“触れる”と感じてしまう。
大事なのはきっかけなのだ。
人間の身体を得ることで、この世に戻った存在感。
卯木達が最初にあの霊を“幽霊”だと位置づけることが出来たのは、いや、位置づけてしまったのは(・・・・・・・・・・・)単にあの幽霊が人に取り憑いているのでは無く、人を“取り込んでいる”状態だったからだ。
それは彼等が能力者であったからこその痛恨のミスだったとも言える。
表面に見えるのが霊体であったから、卯木達は油断し、そして迂闊に近づき過ぎてしまった。
もし、ここまで手遅れになる前に奴の正体に気付いていたら、この教室に入ることもせずに本家に連絡をして、待機することも出来たというのに。
これでは、照明達が『保護者』として自分を連れて来た意味がまるで無い。
卯木は、ギシリと奥歯を噛み締めながら、この状況を打破するために懐から土の入った試験管を三本取り出した。
卯木の属性は、『土』だ。
けれども、いくら土の属性を持っている“槌永”だといっても何も無い所から自在に土を生み出せるというわけでは無い。
術者達は基本的に槌永の守護龍である土龍の加護のかかった土しか使え無いのだ。
これは、槌永に限らず、宝円、廉条にも言えることだった。
だから、三家の術者達は、各々のスタイルにあった入れ物を常備している。
だが、例外もある。
それが翠仙寺だ。
風は、無形であり、とても持ち運べるようなものではない。
だから、翠仙寺に限っては、術者の使う呪具に加護が授けられる。
術の媒体を、量に関係なく持ち運べる、という点においては翠仙寺が圧倒的に有利ではあるものの、やはり属性そのものに加護を掛けるのではない分、他の三家よりも純粋な火力では劣るというのが通例だ。
卯木は、蓋を開きながら自分の前で止まっている爽太に呼びかけた。
「爽! 取り敢えず、こいつを押し返す!! 弓をっっ」
突如、発生した事態に目を見開いて停止していた爽太は、卯木の声にやっと我を取り戻し、手に持っていた弓を構えた。
どんどんと存在を強めて行く、元浮遊霊に向かって弓をかざし弦を引き絞る。
弦に力を込める度に、中心には風が集まり、どんどんと密度の濃い一本の矢が形作られて行く。
放つ。
『っああああああああああああっっ!!!』
強風を纏った矢が、実体を持ち始めていた身体の一部を抉り、痛みを与え、さらに風が身体全体を僅かに押し戻す。
「……っ、いける」
『風牙』一本で、全体を押しやれるのだ。ならばここにいる仲間達でこいつを滅することも出来るのでは……。
爽太はさらに大きく、強く貫くイメージを頭の中に思い描き、次の矢を番える。けれど、爽太が作った次の矢は、放たれる前に卯木によって打ち消された。
弓にかかった、霊力で繋がれている土を、爽太は信じられない思いで見詰める。
「つぎ兄!?」
「卯木さん、どうして!!?」
けれども驚いたのは爽太だけでは無かった。
爽太が放った矢に続いて、自分が今使える一番強力な術を編んでいた照明と滝津も卯木に術をかき消されたからだ。
「お前等こそ、何考えているっっ!! わからないのかっ!?」
ガタガタと教室中の机と椅子が耳障りな音を立てながら密集し始める。
卯木が力で動かし、物理的なバリケードを作っているのだ。
爽太達の術を潰して、一本使った。残りの二本でバリケードの上から結界を張らなければ。
「良く見てみろ。中に何があるのか」
卯木は声を張り上げながら、三人を促す。
促された三人は、卯木が張ろうとしている結界の中から、相対している元浮遊霊を見詰め、そして眉を寄せた。
もう影が大きくなりすぎていて良く見通せないが、影の中にしっかりとしたシルエットがある。
この影の存在感と言い。強まり続ける力と言い……。
まさか。
「……っ人か!?」
こんな状況でさえなければもっと早く気付けていただろうに。
卯木が三人の術を潰さなければ、確実に中の人間を巻き添えにしていた。
これでようやく、卯木が追加攻撃を仕掛けずに、結界を張っている理由がわかった。
今の自分達の装備では、中の人間を救出するほどの力は無い。けれどもこのまま時間を置いてしまったら、この影はさらに大きくなることだろう。
霊体の厄介な所は、一度感情が振り切れてしまったら、なかなか止められないことだ。
思念の塊であるということは、感情だけの存在である、とも言える。
その感情がただ一つに絞られれば、その霊体はどこまでも振り切れた先の感情に引っ張られて行くことだろう。
けれども、中の人間を傷つけないように引き剥がすにしても、この影を払い落とすにしても、どうしても一度撤退しなければなるまい。
卯木が作っている結界は、云わば時間稼ぎ。
爽太、照明、滝津だって、扉の意味くらい知っている。
そうとわかればと、滝津は卯木の結界の中から、さらに水張りを施し、爽太は紅火と彼を庇い気を失った三人の身体を、風によって軽くした。
軽くなった四人をまず、教室の外へと出すために照明は四人の中でも比較的身体の小さい紅火と彼方を片手ずつ抱え、爽太も力を切らさないように注意しながら遥を『扉』から出した。
幸い、と言っても良いのか彼等が吹き飛ばされた所は教室の出入り口付近だったので、気を失っている由紀も含めて四人はすぐにでも扉を越えることが出来た。
残っているのは、四人を移動させていた照明と、力を動かしていた爽太、主力として結界に力を送っている卯木とその補佐に徹している滝津だ。
照明と爽太はすぐにでも動けるが、卯木と滝津はそうもいかない。
そうこうしているうちにも、まだまだ力が増していく影に、卯木は荒々しく吐き捨てる。
「……っそ! 天井知らずかっ」
力の増大が止まらない。
少しでも気を抜いたが最後。こんな有り合わせの防御結界などすぐにでも破壊され、暗闇に呑まれてしまうだろう。
その前に何とか教室を使って封じ込めなければ……っ。
「爽! お前は外に出て、扉を塞ぐ準備! 照は結界を強化っ。四属性にして少し持たせ! 滝津を連れて出ろ。俺もすぐに出るっ」
「はい!」
「了解っ!」
「え……っ!? でも、卯木さん!!」
確かに主力は卯木だが、滝津の力もそれなりに入り組んでいる。なのに先に離れろという卯木に、滝津は一人戸惑う。
「大丈夫だ。伊達にお前等よりも歳くってねぇよ。お前等を守るのが俺の役目、だろう?」
「…………っっ」
自分だってギリギリ一杯のはずなのに、それでも滝津達を守ると言う。
すぐ目の前にある逞しい背中に、滝津は一瞬見惚れ、そしてすぐに目に力を込めた。
「はい!!」
この人の足手纏いにならないように、自分に出来る限りの精一杯を。
滝津が顔を上げると、もうすでに結界に火属性を掛け終えていた照明と目が合い、小さく頷く。
結界から離れる直前主な力の土と、水の対である火の邪魔にならない適度にと力を送り込んだ滝津は、伸ばされた照明の手を取った。
今の流れならば至極当然の行為のはずだった。
けれども、酷くタイミングが悪かったとも言わざるを得ないだろう。
わかるはずも無い。
滝津が照明の手に触れた瞬間、今までの比では無い程に力が増大するなんて。
湧き上がるのは悲しみ。
もう嫌だ、という哀しみの感情。
それを覆い隠すように表面に現れるのは、憎悪と憤慨。
もう嫌だ。目の前であの人を取られるなんて。
また。また、私からあの人を取って行くのはあの黒髪の女。
許せない。許せない。許せるはずがない。
一体、どれだけ。
膨張し、弾けた感情のままに、暗闇は一気に結界の規模をあらかた掌握した。
「っ!? っああああああっ!!」
放出していた力が、膨張した暗闇に押し戻され、逆流し、それは卯木の腕に裂傷という形で現れることとなった。
「つぎ兄!?」
「卯木さん!?」
「!?」
脳天を突き抜ける激痛で、切れた集中を一瞬で取り戻せたのは“守らなければ”という途方もない使命感。
けれどもその『一瞬』で充分だった。
緩んだ結界の穴を抜けて、鋭く暗闇が突き進んだのは黒髪の少女。
結界を張り、暗闇の邪魔をしてた卯木でも、強力な火属性の攻撃力を持つ照明でも無く、黒髪の少女である滝津だった。
気付いた時には間に合わない。
「っな!?」
「っしまっっ!!?」
「ダメだっ!」
手を伸ばして卯木の元に引き寄せることも、照明が前に出て身体全体で庇うことも。爽太が風で、暗闇の向かう先を反らすことも。
「滝津っっ!!!」
それでも、誰もが手を伸ばさずにはいられなかった。
叫んでも、どうしようも無くとも叫ばずにはいられなかった。
その時だった。
「うおおおおぉおぉぉぉおおおお! だりゃしゃああああああっっ!!!」
教室の扉から物凄い勢いで滑り込んできたTシャツを頭まで被った不審者が、滝津に向かっていた暗闇を弾き返したのは。
「!?」
「……っ!?」
「……えっ!?」
物理を伴った暗闇が、弾かれた先の壁に轟音を立てながらぶつかる。
Tシャツをさえ被っていなければ……、な人物は、そうとう急いで来たのかシャツの中で苦しそうに息をしていたが、少しの間を置いて颯爽と立ち上がった。
広がる見事な浅葱色の長髪。
「……ゆ、故あって、助太刀いたすっっ!!!」
誰もが展開について行けず、呆然と停止する中、逆に何かを吹っ切ったかのように彼女は高らかと宣言した。




