謎の男
アリスどうなった?
落ちた場所は、すぐに分かった。
そこだけ道が崩れていたからである。
「なぜ、こんな所まで来たのだ? 近くを走っていたのではなかったのか?」
厩舎の管理人の顔が青ざめる。
「この川の先は二つに分かれていて、その先には滝があります。もう一方であれば、下流は穏やかな流れなのですが……」
川に詳しい村人が、管理人へ説明した。
「どうか、滝に落ちていませんように……」
皆で祈ることしかできなかった。
アリス行方不明の知らせは、早馬で城にも届けられた。
村の若者が公爵の手紙を携え、王太子殿下のもとへ走ったのである。
「何ということだ。すぐに城からも捜索隊を出せ!」
しかし現場は両側が崖になっており、途中で道も途切れている。
捜索は難航した。
「なぜ、こちらへ行ったのだ? 普通、馬に乗っていれば広い道を選ぶであろう?」
捜索に来た騎士たちが不思議そうに言う。
「そこが、お嬢様ゆえでございます……」
管理人は頭を抱えた。
「なぜか、困難な方をお選びになるのです。カイル様も、ずいぶん困っておいででした」
やがて皆の胸に、アリスも父親と同じ運命をたどったのではないか、という不安が広がっていった。
王太子夫妻の嘆きは深かった。
だが、それ以上に打ちのめされたのは、公爵夫妻と侍女たちだった。
「いったい、なぜ……」
アリスの部屋を調べると、荷物がきちんと整理されていた。
机の上には地理の本と地図が広げられ、ベルンシュタインの地名に印が付けられている。
「まさか、カイルを探しに行くつもりだったのでは……」
夫人は言葉を失った。
「無茶です。あんなに方向音痴でいらっしゃるのに……!」
アリスは近くの村でさえ迷子になり、村人に連れられて屋敷へ戻ってくることがあった。
「あの子は、最初からいなかったものとして諦めるしか……」
公爵夫人はその場に崩れ落ちた。
「まだ、そう決まったわけではない」
そう言う公爵も、目を閉じていた。
(まさか、父親と同じようなことになるとは……)
屋敷の中は静まり返っていた。
ただ、厩舎の馬だけが、必死にいななき続けていた。
◇
その頃、アリスは――
川に落ちた直後、ちょうど流れてきた流木をつかみ、何とかその上によじ登っていた。
「ああ……私って馬鹿だわ。もっと他に方法があったのに」
自分が方向音痴であることを、しみじみ思い出したのである。
「最近、外に出ていなかったからなあ……」
流木は川の流れに乗り、ゆっくりと下流へ進んでいく。
次第に川幅は広くなっていった。
辺りもだんだん暗くなってくる。
その時だった。
岸の方から、たいまつの明かりが見えた。
「こっちへ来い!」
男の大きな声が響く。
行きたいのはやまやまだが、流木は自然に流されるままである。
「どうしたらいいのですかあ!?」
アリスは大声で返した。
しばらくすると、声の主がたいまつを掲げたまま、岩の上をひょいひょいと飛び移り、アリスの乗る流木へ近づいてきた。
「何をしているのだ、そなたは」
男は呆れたように言った。
「あの……道を間違えて、川に落ちました」
「道? この川の上流沿いに道などなかったと思うが……まあよい」
男はたいまつを差し出した。
「そなた、このたいまつを持ちなさい。もう片方の手で、この枝をしっかり握っておくのだ。振り落とされぬようにな」
そう言うと、男は水の中へ入り、流木を後ろから押した。
流木は右へ左へと蛇行しながら、少しずつ岸へ近づいていく。
「どうして、まっすぐ進まないのですか?」
アリスが尋ねる。
「浅瀬が蛇行している。一つ間違えば深みに落ちる。気が散るから黙っていてくれ」
男の顔は真剣だった。
アリスはその表情を見て、口を閉じた。
そうして、流木に乗ったアリスは、何とか岸までたどり着いた。
「ふう……」
男は大きく息を吐く。
「たまに崖から落ちた人間が流されてくることはあるが、女の子は初めてだ。いったい、そなたはどこから来たのだ?」
「えっと……あっちからです」
アリスは少し考え、上流の方を指さした。
自分の住んでいた村の名前は思い出せなかった。
「お父様の家の近くを馬で走っていて……道を間違えました。村から出たことがないので、全然分からないのです」
男は、農村の娘だと判断したようだった。
「まあ、たまたま私が見つけてよかった。今日はもう日が暮れている。私の小屋で休むといい。明日、明るくなったら町へ連れて行く。家族も心配しているであろう。ついてまいれ」
小屋に着くと、そこは本当に小さな小屋だった。
「ここで二人、眠れるのですか?」
アリスはきょとんとして尋ねた。
「とにかく中へ入ろう。私もそなたもずぶ濡れだ。暖炉で体を温めなければ」
確かに、外の風は冷たかった。
「私は外で待っているから、先にこの服へ着替えなさい。私の服だが、何も着せないわけにはいかぬからな。できるだけ早く頼む」
男も少し震えている。
アリスは慌てて中へ入り、濡れた服を脱いだ。
そして男の大きなシャツを借りて身にまとった。
「着替え終わりました」
戸を開けて男を呼ぶ。
男は中へ入ると、濡れた服を脱ぎ始めた。
アリスは何事もないように、その様子を見つめていた。
「すまぬが、後ろを向いてくれぬか。見られたくない」
「あ、すみません。兄が着替える時、普通に一緒だったので」
そう言って後ろを向いた。
だが、窓ガラスに男の上半身が映り込む。
アリスは思わず息を飲んだ。
背中に大きな切り傷の跡があったからだ。
それは一瞬のことで、すぐに服に隠れてしまった。
「ふう……すまぬが、食事は一人分しかない。何も食べないよりはましであろう。分けて食べよう」
しばらくすると、川魚の焼き物、温かいスープ、そしてパンが出てきた。
お読みいただきありがとうございます




