3 想定内の伏兵と法外な恩賞
「伯爵令嬢と秘密の恋人」の「それでも、わたしたちは」後のお話です。
冬陽が西へ傾き始めたばかりのまだ明るい街は、家へ帰る人々であふれていた。
明日は建国記念日。ほとんどの仕事は休みで、家族と過ごす日だった。
ブライアンの職場も、今日は全員早帰り、明日は休みだ。
魔法使いダグラスがこの記念日を狙って仕掛けてきたら、という懸念もあったが、クリスは皆を休ませることを選んだ。
ダグラスが動くという情報は入ってこなかったし、襲撃があったとしても、そのときはそのとき──どのみち結果は変わらないのだから、休暇中を理由に皆を一番に死線に送らなくて済むならそのほうがいいと。
職場を出たブライアンは、憂鬱な気分でコートの襟を立てた。
今日はもう帰るが、明日は、明日も仕事をすると言っていたクリスに付き合って出勤する予定だった。けれど、どんな顔をして彼に会えばいいのか分からない。
一世一代の失態をやらかしてしまったのだ。
(クリス君には、彼女に言い寄られたからって応えちゃ駄目だと偉そうに言ったくせに、弱った彼女の心の隙につけこんでキスをするなんて、最低だ)
しかも、その現場をクリスに目撃されてしまった。
グローリアに事情を話して協力してもらい、二人に時間をあげて、なんとか事なきは得たのだが。
「ブライアン。今日はお疲れさま」
落ち着いた女性の声を受け、ブライアンはハッと顔をあげた。
「グローリアさん。先に帰っていませんでしたか?」
「ええ、そうね。でも、途中で一人になっちゃったし、あなたと少し話したかったから」
グローリアは、声をかけた理由を、そんな風に語った。
(途中で一人になったって…そうか、ヘレンは帰ったふりをして、こっそり職場に戻ったんだ)
今夜、クリスとヘレンは一緒に過ごすのだろう。
「ブライアン。あなたには、お嬢様にとてもよくしてもらって、感謝しているの」
「やめてください。俺が今日何をしたか、話したでしょう。二人を応援するはずが、あんな…」
「いいえ、ブライアン。あなたはよく頑張ったわ。頑張りすぎてたのよ。キスのひとつくらい、ご褒美にもらってもいいくらいにね」
好きな女性の偽恋人。その辛い立場を頑張った。
グローリアの励ましに、ブライアンは涙腺のゆるみを意識した。
「だい…たんなことを言いますね…」
「そう? 本心よ。あなたは悪くないわ。非があるのは…彼と彼女の方。もっとも、あちらも初めての真剣な恋だから…気持ちが空回りしたり、失敗することがあるのも仕方ないわね。だから、ブライアン。私はあなたにひどいことを言っているの。これからも頑張り続けて欲しいって」
「…本当に、あなたには負けますよ」
ブライアンは、グローリアに白旗をあげた。
グローリアの擁護を聞くうちに、気持ちが軽くなっていた。
「ありがとう、ブライアン」
ホッとした様子で、グローリアが微笑んだ。
ブライアンも、笑顔を見せて、グローリアと別れた。
*
グローリアと別れたあと。
なぜかブライアンは一生縁がないはずの高級料理店にいて、緊張でガチガチに固まっていた。
「まあ、まずは一杯」
機嫌良さそうにそう言ったのは、地味な庶民服に、手入れの行き届いたちょび髭が違和感ありまくりの中年男性──マシュー・キングスフォード伯爵だった。
道で見知らぬ男に話しかけられ、キングスフォード家の紋章をそっと見せられ、この高級料理店に誘われてきたのだ。
目の前には、値段を聞くのも恐ろしいワインの入ったグラス。ブライアンは、ええい、と心中で踏ん切りをつけ、ワインを喉に流しこんだ。
「すまんな。突然、驚いただろう」
「は、い、いえ、まったく、そんなことは…」
ブライアンは、しどろもどろになって答えた。
伯爵なんて雲の上の人に対し、どんな態度を取ればいいのか分からなかった。
ところが。
「はは、そんなかしこまらなくていい。娘とは普通に話しておるんだろう」
伯爵は笑うと、気さくに言った。
そこで「あ…」と、ブライアンも落ち着きを取り戻した。
考えてみればヘレンも伯爵令嬢で、本来なら雲の上の人だった。そして、目の前の男性は彼女の父親なのだ。
「…すみませんでした」
極度にあがってしまった自分が恥ずかしくなって、ブライアンは言った。
「かまわんよ。今日は、不肖の娘が世話になっている礼だ。本当はもっと早くにこういう機会を持ちたかったのだが、場所のセッティングに少々手間取ってね」
(庶民の、取るに足らない俺にわざわざお礼…?)
なにか裏があるのではないか、法外な要求があるのではないかと、ブライアンは警戒した。
(とりあえず、言動には気をつけておいた方がいいな)
二杯目のワインをブライアンが断ると、伯爵は「では食べなさい」と食事を勧めてくれた。
「娘の仕事ぶりはどうだね。周りに迷惑はかけておらんかね」
「迷惑どころか…ヘレ…ヘンリエッタ様にはいつも助けられてばかりです。魔法知識も、判断力も、機転もすばらしいですね」
失礼にならないよう、食事も口に運びつつ、ブライアンは伯爵と話をした。もっとも、食事の味はさっぱり分からなかったが。
「はは、そうか。だが思慮に欠けるところもある娘だ。止めるべきときは止めてもらえたらありがたい」
「はい、そのつもりです」
「そうそう、今日の本題だが──君の手助けがバレたときなど、君にはリスクを負わせている」
「かまいません。ヘンリエッタ様がそばにつくことで、クリス君の調子が飛躍的に上がりました。私の背負うリスクなんて、ちっぽけなものです」
「ほう……だが、あれだ。私の気持ちはまた別だ。私から君への感謝の気持ちとして──君と、君の家族、君の大事な人が困難に直面したとき、我が家の門をたたけば無条件に助けると約束しよう」
なんでもないことのように言ってのけた伯爵の言葉を、ブライアンは一瞬、理解できなかった。
素直に解釈すれば、あまりに法外な恩賞を提示されていたから。
「は…? あの、今のお言葉の意味は…?」
「言ったとおりだ。たとえば、魔法使いダグラスの都襲撃のとき。キングスフォード家の船に君の大切な人たちを乗せて、安全な場所まで送り届けよう。君が、我が娘のために犠牲にしているものの対価として」
ここで、ブライアンは気付いた。
伯爵はブライアンの気持ちを知っていると。
法外な恩賞は、まさに今日やらかしてしまった失態──自分の内なる苦しみにブライアンが負けそうになったときに踏みとどまるためのセーフティネットなのだ。
今回は事無きを得たが、ブライアンの失態が、二人の秘密の露呈につながる場合もあるわけで。
ブライアンは、ゾッと、足のつま先から頭のてっぺんまで冷えた気がした。
マシュー・キングスフォードが恐ろしい政治家だと全身で理解して。人を思い通りに動かすために最適なものを知り、それを実行する人。
この話を受けたら、自分は彼の駒だ。
思わず恐怖に固まったあと。
ブライアンはぐっと腹に力を入れ、覚悟を決めた。
──ここまで来たら、行くところまで行くしかない。
彼女の偽恋人を、もうボランティアや自己犠牲ではやらない。
褒美を受け取って、それに恥じない働きを返すのだ。
「身に余る恩賞……痛み入ります」
ブライアンが答えると、伯爵は満足したようにうなずいた。
「当然、君も船に乗っていいんだぞ?」
「いえ、私は最後まで戦うことが使命ですので」
自分が逃げることはキッパリ否定したブライアンに、伯爵は苦笑した。
「上司が上司なら、部下も部下だな。まったく……君がアレの首に縄をつけてでも引っ張って来てくれたなら、後のことは君に任せるのも悪くないと思っていたんだがな」
(ん? 今、伯爵は、俺とヘレンを結婚させてもいいと言ったのか…?)
「なあ、ブライアン君。わしの夢はな、ヘンリエッタを政略結婚させて、世界で一番好きな男性はわしだと言ってもらうことだった」
(あれ? 話が…お父さんの愚痴になった?)
「政略結婚に同意して、ここまで期待通り頑張ってきてくれたヘンリエッタが、わしには可愛くて可愛くて…」
「お気持ちは…すごくよく分かります」
ブライアンは、とりあえず同調することにした。
伯爵の前に、ワインの空ボトルが三本あることに気付いたからだ。
つまり。
今、目の前にいるのは、伯爵でも、恐ろしい政治家でもない、ただの酔っぱらい。
「わしはクリス君が大嫌いだ」
「え……と、そのわりには、寛大なご対応をされてますね…?」
「仕方がないだろう。ヘンリエッタに嫌われたら生きていけん。なあ、ブライアン君。いっちょ、アレを誘惑してみんかね?」
「申し訳ありません。私では役不足かと」
「男がそんな弱気なことを言うもんじゃないぞ?」
「そうですね。伯爵、お水はいかがです?」
「おう、水か。気が利くな、君」
結局。そこから最後まで、伯爵は『酔っぱらいお父さん』だった。
愛娘が本気で男性を好きになったことがとにかく悔しく、鬱憤をためこんでいたらしかった。
支離滅裂な酔っぱらいの相手を務めあげたあと、夜更けの街に立ったブライアンは、晴れやかな気持ちで、星も何もない黒い夜空を見上げた。
(伯爵は、クリス君が特別な存在だから、結婚を認めたわけじゃなかった)
血筋や能力、生まれもったもので最初から望みを断たれていることが辛いと思っていた。
けれど。
(今からでも彼女を口説いて落とせたら、キングスフォード伯爵は俺でも認めてくれる)
心の中で、大嫌いだとぼやきながら。
(ま、俺には彼女と付き合う度量がまるで足りていなかったけどさ)
恩賞を提示されたとき。伯爵が恐ろしくて、足が震えて止まらなかった。
そのあと、伯爵が酔っ払っていると気付いて気持ちを楽にできたが、そうでなければ、最後、席を立ってまともに歩けたかどうか分からない。
クリスなら、シラフの伯爵と対等に渡り合えるだろう。
(俺は、偽恋人として二人をフォローするくらいがせいぜいだ)
もう、クリスを羨ましいなんて思わない。
ブライアンは、腕を空に向かって上げ、伸びをした。
「また明日から頑張れそうだ」




