8 それでも、わたしたちは
「ブライアンは、わたしが泣いていたから、なだめてくれただけよ。クリスの角度からはキスしてるように見えたかもしれないけど、してないから」
ヘンリエッタはクリスに言った。
あのときブライアンに流されそうになった気持ちも、唇がかすかに触れ合っていたことも、絶対に言ってはいけないと思った。
(正直に言ってクリスを傷付けるのは嫌。一度あることは二度あるって疑われるのも嫌)
嘘も方便というが、この場合、真実を告白してもいいことはない。
(ブライアンとのことは墓場まで持って行く秘密にしなきゃ)
「あと、泣いた原因はクリスよ。視る者認定事務所で女にベタベタ触らせてたでしょ。わたしの方こそ言い訳が聞きたいわ」
途端、クリスがびくりとした。
「なによ、クリスの方こそ浮気…」
瞬時にカッとなって責めの言葉を口にしてから、クリスの顔を見て、ヘンリエッタは自分の早とちりに気が付いた。
クリスが心底嫌そうな顔をしていたのだ。
「ええと…どういうことなの?」
思いきり顔をしかめ、深く苦いため息をついてから、クリスは説明を始めた。
「彼女は認定事務所のブロウ所長の姪御さんで、事務所職員です。一時期私の行動範囲に頻繁に彼女が現れていて…それで、ブロウ所長から頼まれたんです。付き纏いをやめるのと引き換えに、時々アレをして欲しいと。断ろうと思ったんですが、彼女が私の付き纏いを続けることでマッキンレイに目をつけられたら責任を取れるのかと言われて…」
「う…わあぁ……」
あんまりな話に、ヘンリエッタもすぐには何も言えなかった。
自分の周りがマッキンレイの被害に遭うことを何より嫌だと思っているクリスにとって、断ることのできない最凶最悪の脅し文句。
(なにそれ、酷い、エグい、気持ち悪い…っ)
改めて言われるのも嫌だろう素直な感想を心中で唱えてから、ひとつ、引っかかったことを聞いた。
「でも、人がたくさん見ている中で抱き合うのもアウトじゃないの?」
「それが…変に隠れて、間違った噂を広められるよりはいいと…ブロウ所長も身内の恥をさらして、事務所内で周知徹底しているんです」
(ええと…つまり、彼女がイタイ女だって周り全員が分かった上での、あの行為…)
ブロウ所長としても相当恥ずかしいはずだが、姪の命を守るため、背に腹はかえられないということなのだろう。
(でもあの女だけは自分の欲求を満たせて満足している上に、絶対に自分がクリスの彼女だとか思ってるわよね…)
そう思ったら、ヘンリエッタの中で殺意のスイッチが入った。
「分かったわ、クリス。わたしに任せて! 彼女、綺麗に消してあげるから!」
「ヘンリエッタ!? じょ…冗談ですよね?」
被害者のはずのクリスが、ギョッとしたように言った。
「大丈夫。わたしがやったなんてバレないようにするから」
「待ってください! 簡単にそういうことを言わないでください!」
気に入らない者は殺すなんてマッキンレイの思考だ──至極真っ当な正論を真面目に返され、ヘンリエッタは、むうと唇を尖らせた。
(簡単じゃないでしょ。相手が胸を痛めているところを突いて、耐え難い、嫌なことを強要するとか、明らかに悪質じゃない。だいたいクリスは我慢のレベルがおかしいのよ)
普通の人なら到底我慢できないようなことを呑み込んで、嫌なことなどないように振る舞うのだから。
常軌を逸したマッキンレイの嫌がらせを受けながら周りに気を遣って生きてきたせいではあるのだろうが。
そこまで考えたところで、ふぅと息をついて、ヘンリエッタは頭を切り替えた。
(でも、そうね。あの女にダメージを与える一番の方法は、クリスがほかの女のものになることだわ。つまり、わたしの存在を知らせること)
ふふ、と知らず、笑いがこぼれる。
「ヘンリエッタ…?」
クリスが恐ろしいものでも見るようにヘンリエッタを見た。
ヘンリエッタはにっこりと笑って、クリスを見た。
(状況が変わって公表できるときが来たら、とびっきり綺麗に着飾ってあの女をぶちのめしてやるわ。どのみち明日にでも魔法使いダグラスが攻めてきたら、わたしたちの秘密は意味を失くすんだもの。そう遠い未来の話じゃないわ)
「分かったわ、クリス。殺すのはやめにする」
「お願い…しますね?」
クリスは不安そうに言った。
そんな彼にヘンリエッタは自分から腕を回し、ギュッと抱きしめた。
「消毒。これからは、わたしに消毒させてね」
すると、強い抱擁が帰ってきた。
「夢みたいです…」
クリスがつぶやいた。
「ずっと、あなたに消毒と言って、抱きしめて欲しいと思っていました。あなたは伯爵令嬢で、わたしが懸想していい女性ではなかったのに…」
「え? 今のどういう意味…? クリスがわたしを知ったのって、秋口の舞踏会だよね…?」
ヘンリエッタはクリスの発言を聞きとがめ、言った。
クリスは抱擁を解くと、緊張した様子で、思い切ったように口を開いた。
「…知っていたんです。五年前から。国王陛下の侍女の中に、殿下を熱心に見ている人がいると。最初は誰だろうと思いました。それでも、あなたの強く、まっすぐな目が忘れられなくて。毎年、キングスフォード伯爵から殿下に贈られていたあなたの肖像画を見て、ああ、そうかと」
「ええ? でも肖像画と侍女姿はほぼ別人よ? 年齢もサバ読んでたし、髪も…」
確かに五年前からヘンリエッタは時々国王の侍女として王城に上がっていた。王太子の婚約者に収まるためには、王太子の強い魔力のオーラに見慣れる必要があったから。
侍女姿のヘンリエッタは黒髪のかつらをかぶり、十五、六歳に見えるよう背伸び化粧をしていた。直近はともかく、五年前のヘンリエッタは十一歳だったから、かなり頑張って大人のフリをした。
「あ、まさか最初に黒髪のわたしがすぐ分かったのって…」
「私には、黒い髪に青い瞳のあなたの方が馴染みが深かったので。って、引き…ますよね…」
クリスはまた弱気なことを言って、うつむいた。
「ううん、嬉しいわ。むしろ殿下しか見てなかった昔の自分をやり直したい。言われるまで気付かなかったけど、そうよね。殿下の隣にはクリスがいたのよね。あんなどうでもいい人を一生懸命見て、素敵な眼鏡男子を見逃してたとか、一生の不覚だわ…!」
あえてヘンリエッタが問題の多い発言をすると、クリスは苦笑し、「当時は眼鏡をかけていなかったので」と言った。
苦笑でも笑わせられたことに、(よし!)と心の中で唱えたヘンリエッタは。
「そうなの? じゃあ、眼鏡はいつから?」と、素直な疑問を口にした。
「今年の夏、都に戻って来てからですね。あなたには最初から見抜かれていましたが、本当に…見たくないものが多かったんです」
(な、なるほど…なんか分かった気がする。今年の夏、眼鏡をかけ出してから、クリスのモテ度、絶対上がってるわ)
とにかく似合いすぎるのだ。そこに愁いを帯びた色気が加わって、本当にもう、女子なら視界に入った瞬間に落ちる最強の魅力が生まれてしまった。※ヘンリエッタの主観です※
(罪作りな人。一体何人の女子を身悶えさせたのかしら…。というか眼鏡、外させた方がいいわよね。事務女みたいな痴女を増やしたくないし。ああもう、クリスを売約済にできないのが辛すぎる…!)
邪な考えを掘り進めていたヘンリエッタは、視線を感じ、クリスと目を合わせた。
愁い顔のクリスに(ああ、でもやっぱり眼鏡のクリス格好いい…)とヘンリエッタがドキドキしていると。
「すみませんでした」
唐突にクリスが謝った。
ヘンリエッタは「えっ?」と聞き返した。
「何が?」
「分かっていたのに、舞踏会前に言わなかったんです。殿下に。キングスフォード伯爵の話を一度聞いた方がいいとは進言しましたが、あなたが陛下の侍女をやっていたことは…言えなかった」
それを言えば、キングスフォード家の本気を王太子に伝えられたのに。
舞踏会で王太子にふられ、貴族女性として致命的汚名をかぶった後、クリスがしてくれた心からの謝罪をヘンリエッタは思い出した。
「クリスも殿下の行動を予想してたわけじゃないわ。むしろ、うちがうまく殿下を丸めこめるはずと思ってたんでしょ?」
ただ、クリスは自分が後押しすることを避けただけ。
「それは…はい」
クリスは伏し目がちにうなずいた。
それから。
まっすぐにヘンリエッタを見た。
「最近、よく思い出していました。以前、あなたから言われた言葉──すぐそばにいるのに、ほかの人と結婚するなんて耐えられないと。私の方こそ、耐えられた気がしません。五年前からずっと…好きでした」
愛の告白を、ヘンリエッタは切ない気持ちで受け止めた。
(クリスにとって、わたしは、五年間ずっと、手が届くことのない遠い存在だったんだわ)
急に近くに来て手を差し伸べられても、目が覚めたら消えてしまう夢のように、それを現実だと受け入れるのは難しかったにちがいない。
恋人だと公にできない状況も、きっとクリスを追い詰めていた。
(でも)
「ねえ、クリス。わたしたち、ちゃんと間違わずにたどりつくべきところにたどりついたんだわ。そうは思わない?」
(わたしの伴侶はあなただけよ)
ヘンリエッタは強い気持ちを込めて言った。
「はい…思います」
クリスも、熱い瞳で応えてくれた。
ヘンリエッタの頬に手を添え、顔を近づけてくる。
目を閉じ、唇が重なって──ああ、この唇だとヘンリエッタは思う。
それから、ソファに場所を移動して、キスを深めたとき──。
──ドンドンドン!
乱暴にドアをたたく音がした。
「ブライアンです。すみませんが、開けていただけないでしょうか!」
あ、とクリスとヘンリエッタは顔を見合わせた。
緊急事態、とブライアンに特別に時間的猶予を捻出してもらっていたことを思い出した。
ヘンリエッタは、はああ、と大きくため息をついた。
(やっぱり話し合ってエッチするには時間が足りない…!)
後日、クリスは眼鏡をやめた。
視界を悪くする必要がなくなったから、というのが理由だった。
モテ度が下がったのかどうかは………分からない。




