6 想定外の伏兵
コートを羽織って外に出ると、あたりは暗かった。
「今日は早めに帰れたと思ったけど、もう真っ暗ね」
白い息を吐きながら、ヘンリエッタは言った。
「そうね。夏ならまだ明るい時間だわ」
グローリアも、疲れた声で応えた。
往来を歩く人は多く、街灯と建物からこぼれる明かりで街は充分明るい。けれど、空が暗いだけで、なんとなく夜遅くまで働いたような疲れを感じるのだから不思議だ。
「あ」
ヘンリエッタは、街灯に照らされた人物に気付き、声をあげた。
クリスだった。十五、六歳の少女に話しかけられている。外出先から戻ってきたところをつかまったらしい。
「あら。相変わらずモテるわねえ」
グローリアも気付いて、言った。
「一日一回は女性につかまってるわよ」
ヘンリエッタは棘のある口調で言った。
恋人がほかの女性に言い寄られるところを見るのは、やはり面白くない。
ただ──クリスは、すがりつこうと伸ばされた手をやんわりと返し、困った顔を見せ、早々に少女と別れていた。
(…わたしとは違う態度を取ってるクリスを見ると、ホッとするのよね。最初の告白のときから、わたしは特別だったって優越感が持てるっていうか)
あっさりフラれた少女の方は、泣きながら走り去っていった。
「行きましょ、先生」
ヘンリエッタは、さっさと歩き出した。
「挨拶くらいなさればいいのに」
「いいわよ」
「身体で愛されてる女は余裕ですわね」
耳元でささやかれたグローリアの言葉に、「むぅ」とヘンリエッタは小さくうなった。
(そんな、エッチしてたら大丈夫みたいに言わないで欲しいわ)
もちろん、それも特別で大切な愛の時間ではあるのだが。
人の感じ方や考え方は、日々まわりに影響されて少しずつ変わっていくから、恋人でも夫婦でも、普段からたくさん話し合うことが大事。
ほかでもないグローリアがヘンリエッタに説いた持論だ。
だから、そばにいることには大きな意味があると、ヘンリエッタに協力してくれた。
けれど、現実は。
(エッチだけで二人の時間が終わっちゃって、最近ろくに会話してないのよね…)
*
「人が増えて備品もそろってくると、なんとなく前向きになるね」
大きな袋を抱えた赤毛のロニーが、ヘンリエッタに言った。
「ええ、本当にね」
ヘンリエッタも、自身の実感を込めてうなずいた。
職場の備品の買い出しに行った帰りだった。
少し後ろを、ロニーと同じ顔をした魔法使いのテッドが、やはり大きな袋を抱えながら、魔女グローリアと並んで歩いている。
なにやら真剣に話し込んでいて、もともと遅かった足取りがついに止まってしまった。
「ねえ、テッドは先生になんの相談なの?」
「恋愛相談だよ。長年片思いしてる女の子がいるんだ」
「え、そうなの? その話、わたしも混ざりたい!」
「いや、あいつ、シャイだからさ。勘弁してやって」
双子の兄らしく、ロニーが言った。
「たしかに物静かよね、テッドって。双子でも性格って変わるものなのね」
「そりゃ、そうだよ」
明るく社交的で視る能力者のロニーと、大人しく内向的な魔法使いのテッド。違うところもありつつ、仲の良い双子。
ロニーに好きな子はいないの、と聞こうとした矢先。ヘンリエッタは、ふと目に飛び込んできた光景に、頭が真っ白になった。それから、ブワッと全身に鳥肌が立った。
ちょうど視る者認定事務所の前を通ったところで、窓から事務所の中が見えたのだが。
眼鏡をかけた二十代の女性が、恍惚とした表情を浮かべ、クリスに抱きついていたのだ。
そして。背中しか見えないクリスは、べたべた触られているにも関わらず、なんの抵抗もしていなかった。
「ヘレン?」
偽名を呼ばれたヘンリエッタは、ハッとした。
「ご、ごめん。行こっか!」
足を止めたことを詫び、なんでもないと明るくふるまうと、先に立って歩き出した。
(あ……っぶない。理性飛んで、わたしのクリスになにしてるのって殴り込みに行きそうになってた……)
*
職場に戻ったところで、調べたいことがあるとロニーと別れ、ヘンリエッタは書庫に向かった。
一人になって頭を冷やしたかった。
(何あれ何あれ絶対おかしいよね普通にああいうことされてたまるかだし一体何がどうしてああなったの!?)
廊下を歩く間も、混乱した言葉たちが高速で頭の中をうずまく。
──バンッ!
思いっきりドアに八つ当たりして、勢いよく書庫を開けると。
突然の大きな音に驚いた様子のブライアンと目が合った。
「ブ…ライアン~!」
(ブライアンだ、ブライアンだぁ…)
秘密の話をしてもいい人の顔に、それまで堪えていたものがプツンと切れた。
ヘンリエッタはぶわっと涙をあふれさせ、ブライアンに泣きついた。
「ヘレン? 誰かに何かされたのか?」
ブライアンが心配して言った。
「ちが…わ、わたしじゃなくて、クリスが」
「クリス君?」
「眼鏡かけた女と抱き合ってたぁ!」
「え? いや、さすがにそれはないんじゃないかな。こけそうになったところを支えてあげたとか…」
「支えてくれた相手の背中を撫で回したりしないでしょ! それにあの女の眼鏡! 絶対クリスを意識してつけてるヤツ! ああもう、ゾッとする! 気持ち悪いっ!」
「ええと、そうなると、ストーカー的な…?」
「クリス、何の抵抗もしてなかったんだよ? こんなこと、あり得るの?」
あり得るわけがない。
彼は応える気持ちのない女性に抱擁を許したりする人じゃないのだから。
自分が発した言葉に、ヘンリエッタは自分でショックを受けた。
「く…クリスを他の女に取られちゃったぁ……わ、わたし、ウザかったかなあ…?」
「いや、何か誤解があるんだ」
「わたしだって信じたくないよ。でも…」
「ヘレン。勝手に決めつける前に、クリス君の話を聞いた方がいい」
「それで、ハッキリ言われるの? もう嫌いになったって。こんな──こんなことって…」
恋人同士になって、身体をつなげて。
まさかここまできて大どんでん返しがあるとは思わなかった。
ハラハラと涙をながしながらヘンリエッタが言葉をつむげなくなったところで、ぐっとブライアンに抱き寄せられた。
「誤解だよ。大丈夫…大丈夫だから」
彼のぬくもりの中で聞くなぐさめは、ヘンリエッタの心に響いた。
「ヘレン」
苦いものでも噛みしめるような声に名を呼ばれ、顔を上げると。
吐息がかかるほどの距離にブライアンの顔があった。
ヘンリエッタを心配する瞳のひたむきな熱さを見たら、乾いてひび割れた大地に水が染み渡るように何かが満たされた。
どちらからともなく、自然と吸い寄せられるように顔が近づいた。
目を閉じ、唇が軽く触れ合ったところで。
──ちがう!
ヘンリエッタは明確な拒絶感を持ってしまい、目を開けてぐっとブライアンを押し返した。
同時に。
開けっ放しだった書庫の入り口に立つ、クリスの姿が目に入った。
黙って顔をそむけ、身を翻して行ってしまう。
「クリス…っ」
拒絶とヘンリエッタのつぶやきに、ブライアンもサァッと青ざめた。
「俺がなんとかするから、クリス君の執務室へ行って!」
何の算段もない状況で、本当になんとかできるのか。ヘンリエッタにもブライアンにも分からなかった。
それでも、ヘンリエッタはぶんぶんと激しく頷いた。
「ごめんなさい!!」
ブライアンに一度深く頭を下げると、ヘンリエッタは駆け出した。
雨降って、そのたびに少しずつ地面が固まっているところです。
どうぞもう少しお付き合いくださると幸いです。




