1 伯爵令嬢と秘密の恋人
「もう終わりにしませんか」
大好きな、ずっと聞いていたい声が、残酷な言葉を告げた。
場所は、クリスがずっと住んできた部屋だった。
彼の母エリナの協力を得て、部屋に入れてもらい、待ち伏せしたのだ。
クリスが、反逆者・魔法使いダグラスに対抗する王家側の組織の指揮官となり、秘密裏に進めていた伯爵令嬢ヘンリエッタとの婚約を白紙に戻した後。
伯爵家を飛び出したヘンリエッタは、田舎娘ヘレンという偽りの立場を得て、元家庭教師で友人の魔女グローリアとペアを組み、クリスの組織活動を手伝った。
ただし、ヘンリエッタの就職をクリスが反対したため、ゲリラ的に。
果たして平メンバーたちの心をつかみ、今日、グローリアとヘレンの採用に関する陳情書をあげてもらった。そして最後の仕上げが、クリスの部屋を強襲することだった。
(うぅ…覚悟はしてきたけど……)
クリスから早々に別れを宣告され、ヘンリエッタは、胸にズンと迫る苦味に、足元から崩れ落ちそうな身体の震えを意識した。
(……ううん。傷ついてる場合じゃない。わたしには『抱いて』って言う切り札があるんだから! でも、その前に、これだけは聞きたい…!)
「クリスは、わたしがそばにいることの何が嫌なの…?」
なんとか平静を装い、ヘンリエッタは言った。
「あなたのことがバレたら、取り返しのつかないことになります」
クリスが言った。
ヘンリエッタの評判を傷付けたくないと。
働くことも、庶民の中に混ざることも、伯爵令嬢にはあるまじきことで、バレたらヘンリエッタは伯爵令嬢として終わってしまう。
(つまりクリスはわたしの抱えるリスクを憂慮しているというのね。それなら…)
まっすぐに彼を見て、ヘンリエッタは口を開いた。
「クリス。魔法使いダグラスが王家を倒してこの国の王になったら、わたしは伯爵令嬢じゃなくなる」
伯爵という地位は、現王家あってのものだから。
「ううん。あなたがダグラスの奇襲を防いでなかったら、とっくにそうなってた。ねえ、クリス」
「……はい」
「貴族の価値観にしばられる必要、ある?」
ヘンリエッタは強い気持ちをクリスにぶつけた。
クリスは、しばらく言葉を探すように沈黙した。
それから。
「いいえ。けれど、今は、本当に先が見えなくて」
現状は王家の方が劣勢で、ダグラスに勝つという展望を、指揮官であるクリスが見出せないのだと、彼は言った。
そばにいることは、共に死を迎えることを意味すると。
ヘンリエッタは、たまらなくなって、長身のクリスに抱きついた。
「先が見えないから、そばにいたいの! あなたと運命を共にしたいの!」
「でも私は……! あなたを、私の大切な方だと言えないんです……!」
ヘンリエッタを抱きとめ、クリスは苦しい胸のうちを叫んだ。
命懸けでそばにいてくれても、クリスはヘンリエッタを恋人と呼び、その想いに応えることができないと。
クリスが恋人をつくれば、彼を目の敵にしている都の支配者マッキンレイ一族に狙われる。伯爵家の後ろ盾と、結婚という形があって初めて口にすることができた恋。
「大切な人だって、言ってもらわなくていいよ! しっかり考えて、足を引っ張らないよう動くから!」
「足を引っ張るだなんて…」
クリスは、ヘンリエッタを足手まといだとは言わなかった。
けれど、首を縦にもふらなかった。
「でも、やっぱり、嫌です」
抱きつくヘンリエッタをそっと押し戻し、クリスは距離を取った。
(うそっ…離された……! どうして……っ)
「クリス……」
ヘンリエッタは、涙目になって、クリスを見た。
恋人扱いされなくていいと言っているのに。どうして、ただそばにいることをここまで頑なに拒否するのか、理解できなかった。
「わ、わたしのこと、大切だって、さっき……」
未練がましく、彼を責めるだけの言葉が口をついて出てきてしまい、ヘンリエッタは慌てて口元を押さえた。
(ダメ…責めちゃダメ……泣いちゃダメ……!)
クリスもまた、自分の手を強く握りしめ、何かを懸命に堪えていた。
二人して、体の内側を荒れ狂う想いを、うまく形にすることができない。
息のつまるような沈黙が流れた。
先に言葉を見つけたのは、クリスの方だった。
「私があなたの採用を…女性であることを理由に却下した後」
喉の奥から声をしぼりだすように、クリスが言った。
涙を堪えていたヘンリエッタは、ハッと顔を上げた。
「あなたは今いるメンバーたちに近づいて、彼らの仕事を手伝い、仲間に加えて欲しいと思わせましたが…彼らのその気持ちの半分以上は、あなたへの恋心なんです」
「え? みんなが、わたしに…恋?」
思わず間の抜けた声がこぼれた。
どうして突然そんな話をされたのか理解できなかった。正直、今の二人には関係のない話だと思った。
クリスの表情が、さっきまでと変わらず、苦しそうで真剣そのものでなければ、「話を逸らさないで」と言っていただろう。
「強敵との命がけの戦いに参加すると決めたことで、ついていけないと彼女にフラれた者も少なくない中で…彼らの勇気を讃えてくれるあなたは、マドンナ的存在になったんですよ」
クリスは、丁寧に説明を足してくれた。
「そう言われてみれば…みんな、普通以上に好意的だったかな…? でも、わたしは…」
ヘンリエッタは、自分でも恥ずかしいくらい、クリス一筋だと全身で表している。…隠そうと思っても隠せない。
たとえ他のメンバーから好かれても何の問題もない。そう返そうとして、気付いた。
クリスの苦しそうな表情の中に、何かムキになっているような、苛立ちのようなものがふくまれていることに。
「…あは、参加に賛成してもらおうと思って、頑張りすぎちゃった?」
ためしにそう言ってみると。
「そうですね」
あからさまに拗ねた声が返ってきた。
「え、ちょっと、妬いてるの!?」
「目の前であなたを口説かれても、私のものだと言えない。だから、嫌です」
とうとう、クリスが言った。
魔法使いダグラスの都における奇襲を見事に防いだ名指揮官とは思えない、普通の、若者らしい顔で。
カアァッと身体が火照るのを、ヘンリエッタは意識した。
(うそっ…うそうそっ…! 誰よこの人…クリスがこんな顔するなんて信じられない…! 最後の切り札、使わずにすむならそうしたいと思ってたけど…)
「分かった! しよ?」
ヘンリエッタはつとめて軽く言った。
(わたしの全部、クリスにあげたい! クリスのものになりたい!)
「そ、そんな簡単に言わないでください…!」
クリスが、顔を赤くして、横を向く。
「でも、ダグラスの反乱がなかったら、わたしたち、今日、結婚してたのよ」
ヘンリエッタは重ねて言った。
クリスは息を呑んで、今度は返事をしなかった。
「ね…クリス。抱きしめて………?」
ベッドの前に立って、ヘンリエッタは言った。
心臓がドキドキして、恥ずかしくてたまらなかったが、ここは頑張るしかない。
「き……今日は…………その……………」
クリスが、苦しそうに言った。
「………えと、クリスが気にしてるの、これ…かなあ」
ヘンリエッタは、ポケットに忍ばせておいた避妊具を、そっとベッドにおいた。
(だ、出しちゃった! 慣れてるとか思われたりしないよね!?)
自分の行動に対する羞恥で、全身が沸騰しそうに熱い。
だが、これも協力者グローリアのアドバイスなのだ。
クリスはおそらく私生児の生まれに負い目を持っている。マッキンレイの酷さを知り、両親を敬愛する気持ちを持っていても、出生に対する後ろめたさはまた別の領域。だからコトに及ぶには子を成さぬ前提が必要だと。
ヘンリエッタは、ギュッと目を閉じてうつむいた。
そして。
長い長い数秒ののち。
ふわりとあたたかい体に包まれた。
「本当に…あなただけです。私の自制心も理性も砕いてしまうのは」
頭の上からそんなつぶやきがふってきて。
「ヘンリエッタ。これから、なにがあっても、最後まで、私のそばにいてください」
(クリスが…そばにいていいって言ってくれた………!)
「はい………!」
顔を上げて見ると、クリスは眼鏡を外していた。
ヘンリエッタがすり寄るように彼に寄りかかると、ゆるかった抱擁に、ギュッと力がこもった。
18禁話「伯爵令嬢ヘンリエッタと秘密の恋人~大人限定編~」を別途投稿しました。
こちらの続きは、18禁話完結後、再開致します。
二週間後くらいでしょうか。
どうぞよろしくお願い致します。




