2 仲間が狼になるとき
レイプの描写があります。苦手な方はご注意下さい。
「ヘレン、おはよう!」
十代の赤毛の青年が、ヘレンことヘンリエッタに明るく言った。
「おはよう、ロニー」
ヘンリエッタも愛想良く答える。
そして。
「あら、ロニー。私に挨拶はないのかしら?」
ヘンリエッタの隣から、からかうようにグローリアが言った。
「ぐ、グローリアさん! 遅れてすみません、おはようございます!」
ロニーは慌てて挨拶を追加した。
「ふふ、おはよう。明日はヘレンだけじゃなくて、私も眼中に入れてちょうだいね」
「わわ、やめてくださいよ、そういう言い方! さ、先に行ってますっ」
ロニーは顔を真っ赤にすると、走っていった。
グローリアはロニーの背中を見送りながら、くすくすと笑った。
「若いって、いいわねえ」
「…先生が楽しんでくださって何よりだわ」
グローリアにだけ届く小さな声でヘンリエッタは言った。
クリスとの秘密の関係も順調で、何もかもうまくいっている──そう思っていた。その日の午後までは。
*
「べ…ベン、なんの冗談なの?」
同僚の大柄な青年に人気のない部屋に誘いだされ、壁際に追いつめられたヘンリエッタは言った。
「昨日、俺を見て誘っただろ?」
ベンはねっとりとした視線をヘンリエッタに向け、言った。
「ごめんなさい。勘違いだと思うわ」
ヘンリエッタは謝りつつ、キッパリと否定した。
しかし。
「勘違い? あんな目で俺を見ておいて?」
ベンは納得しなかった。
「わ、分かってると思うけど、わたし…」
「クリスさんが好きで、クリスさんの役に立ちたくて、ここに来たんだろ? でも、あの人は恋人を作れない。俺にしとけよ。絶対、幸せにするって」
「ごめんなさい。そんな簡単に気持ちをどうこうできたら、わたし、今、ここにいないから」
ヘンリエッタはベンに頭を下げ、歩き出そうとした。
ところが。
「待てよ、ヘレン。好きなんだ。もう我慢できない」
ベンはヘンリエッタの手をつかんだ。
ぞわぞわぞわっと、全身に鳥肌が立った。
「イヤっ!」
ヘンリエッタは短く叫んだが、男性の力は強く、あっという間に床に押し倒され、口を手でふさがれて声を封じられた。
「手の届かない人のことなんか、忘れさせてやる」
ベンは片手でヘンリエッタの口を塞ぎ、下半身で体を押さえつけ、あいた手で服に手をかけた。
押し付けられた股間から彼の昂りが嫌でも分かる。
(うそっ…いや………!)
ヘンリエッタは涙目になった。
友好な関係を保たなければならない同僚相手で、なんとか話し合いで分かってもらおうとしたことが、完全に仇となってしまった。
口だけでも自由になろうと、口を塞ぐベンの腕を両手でつかんでみたが、ヘンリエッタの倍はありそうな太くたくましい腕はびくともしなかった。
ビリッと力任せに上衣が破かれる。
「んんーっ!」
ヘンリエッタは、あらわにされた胸を慌てて両腕で隠した。
「おまえ……!」
ヘンリエッタの胸元を見たベンは何かに激昂した。
「キスマークなんかつけやがって、男と寝てんじゃねえかよ!」
太い腕がふりあげられた。
殴られる、と目を閉じたとき。
「ベンっ!」
別の男性の怒声が響き、ドタ、ガターンッと大きな音がして、ヘンリエッタは巨体から解放された。
「ブライアン!」
ヘンリエッタは体を起こし、目に飛び込んできた人物の名を呼んだ。
しかし、短い付き合いの中で、和やかな顔しか知らなかったブライアンの怒った顔や、ピリピリした雰囲気は別人のようで、助けられているのに彼のことも怖かった。
「ベン、恥を知れ!」
と、ブライアンが言うと。
「恥ずかしいのはその女だ! キスマークつけてんだぞ! 男好きなんだよ!」
自分より細身のブライアンに押さえつけられながら、ベンはなおも悪態をついた。
「勝手に話を作るな! おまえの行動は犯罪だ!」
「ブライアン、何か大きな音が…」
他のメンバーが集まってきた。
怖い顔をしていたブライアンは、そこでやっと少し表情をゆるめた。
「誰か、グローリアさんを呼んで来て」
それから、ブライアンはその場を取り仕切り、ベンを他のメンバーに連れて行かせた。
気がついたら、ヘンリエッタはブライアンと二人になっていた。
「これを…」
ブライアンは、ヘンリエッタに自分の上着をかけてくれた。
「ありがとう」
礼を言って、ヘンリエッタは上着の前をかきいだくようにした。
解放を実感したら、それまで以上の恐怖に呑まれた。
体は小刻みにふるえ、顔も青ざめていただろう。
(ブライアンが助けてくれなかったら、わたし、ベンにレイプされてた…)
どうにもならない力の差で。
「もう…やめたらどうだい」
ふいにブライアンが言った。
「えっ」
「男は、若い女性がいるだけで性欲が触発される。今日みたいなことは、何度だって起こる。今日はたまたま俺が気付けたから良かったけど…分かってるだろう。いつか、きみが傷付く日が来る」
ブライアンから、やめた方がいいと諭されたヘンリエッタはゾッとした。
レイプももちろん嫌でたまらないが、クリスを失うことはそれ以上の恐怖だった。
「こ…来ないようにするわ! 今日はわたしがバカで、甘かったの。次からはこんなことにはしない。ブライアンにも迷惑かけない! だからお願い。やめろなんて言わないで」
「やめたくないのは、きみにキスマークをつけたのが、クリスさんだから?」
「ちがうわ、ベンの勘違いよ。そんなもの、ついてないもの。だいたいキスマークって、女性の口紅でしょ?」
クリスの名前が出てドキドキしながらも、ヘンリエッタは反論した。
途端、ブライアンは目を丸くした。
「いや、そっちのキスマークじゃなくて…体に唇を押しつけて強く吸ったときにできるキスマークの話をしてたんだけど」
「え?」
勘違いを訂正されたヘンリエッタは、最中にクリスが胸元につける痣に思い至った。
そういうものかとスルーして深くは考えなかったのだが。
(ええと、今の言い方だと…)
「ねえ、ブライアンの言うキスマークって、普通にしてたらつかないもの?」
「まずつかないだろうね。俺の言うキスマークは…たいてい、男性の独占欲とか、他の男への牽制とか、そういう感情で女性に意図的につけられるものだから」
(独占欲…!)
それって、嬉しいかも。
「あ、ちがうの! 恋人がいたら、独占欲って嬉しいかなって……」
反射的に頬を赤らめてから慌てて言い訳をしたが、冷静なブライアンの表情に途中であきらめた。
これ以上、何を言っても墓穴を掘るだけだ。
(どうしよう…二週間足らずでバレるなんて)
しゅんとしたヘンリエッタに、ブライアンはやれやれと息をついた。
「大丈夫。俺は他言しない。でも、他の奴は分からない。きみは…もう少し、自分が背負ってるリスクを考えた方がいい。将来のない相手と、今さえ良ければいいと付き合うにしては、代償が大きすぎる…と、俺は思うけどね」
そこまでブライアンが言ったところで、グローリアが到着した。
「ヘレン、大丈夫!? ブライアン、ありがとう」
「だいぶショックを受けているから、今日は連れて帰ってあげてください。上への報告は俺がやっておきます」
上への報告──クリスへの報告。
ブライアンに、グローリアと帰れと言われたヘンリエッタは、クリスに会いたくてたまらない自分の気持ちに気付いた。
ベンに押し倒されたショックを、気持ちの悪い思いをしたことを、彼に抱きついて、安心することで消したかった。
けれどもクリスは不在だった。
そして、彼には、ヘンリエッタと会うよりも先にブライアンから報告を受け、場をおさめる責務がある。
伯爵令嬢の身分をふりかざせたら、何よりも優先して自分のもとへ来いとワガママ言えたのに。
ヘンリエッタは、自分で選んだ道の厳しさを少しだけ辛く感じた。




