1 目の前のこの人が一番憎い
クリスの子どもの頃のお話です。
父親との確執の話で、痛々しいので、苦手な方はご注意下さい。
物心ついた頃から母と二人だった。
よく事故に遭っていた。
学校にあがる頃、一緒には暮らせない父がいることを知った。
図書館の本を読むようになって、自分がいわゆる私生児で、本妻に嫌われていることを理解した。
まわりの大人たちは父を偉い人だと言い、守ってくれているのだと言ったが、クリスはそうは思わなかった。
クリスの庇護組織である視る者協会が実効支配する安全エリア内の学校と寮の往復生活で、クリス自身が事故に遭うことはなくても、安全エリアの外から通ってくる先生たちが本妻の被害に遭っていた。心身ともに深く傷付いた先生たちは、都を離れていった。特別な、個別指導という学習スタイルも、同級生が本妻の刺客にさせられる事態を避けるためだった。
そんな中で、近くにいると言いながら姿を見せにくることもなく、顔も知らない父は、存在しない人だと思った。
八歳のとき。本妻の被害に遭いながら、その後、身の安全を確保して、そばに残る選択をしてくれた教師がいた。彼はクリスの恩師になった。
それからは母と恩師のために早く学業を終えて大人になろうと、より一層、積極的にスピードアップして勉学に励んだ。働けるようになったら、母と二人、都から遠く離れた地方に行こうと考えていた。
十歳になったばかりの頃、遠方で住み込みで働いていた母が倒れた。
倒れるまで働かせたはずの職場は、なぜか給金は払えない、道に捨てられたくなかったら引き取りに来いと一方的に通達してきた。
季節は真冬だった。
恩師の働きかけで、安全エリアの端にある長屋の空室を無償提供してもらえることになり、母を引き取ることはできた。
けれど、母の薬代を捻出するには自分が働くしかないと思い、学校に退学を申し入れた。
一週間後。
父と名乗る人があらわれた。
「まだ一年半分の履修課程が残っているそうだな」
厳しい顔をしたその人は、開口一番に厳しい声で言った。
「…はい」
クリスは萎縮してしまい、小さな声で答えた。
初めて会った知らない人なのに、自分と同じ髪の色、目の色をしていると、気持ち悪く感じたことを覚えている。
「半年だ」
「え?」
「半年で終わらせろ」
突然突き付けられた無茶な要求に、クリスは愕然とした。
すでに八年半分の学業を消化していたクリスだったが、残りは十五、六歳向けの課程で、恩師とは一年以内の修了を目指そうと話していた。
答えられないクリスの前に、数枚の金貨が、バラバラと投げおかれた。
「これは支度金だ。半年後に私の指示する職についてもらう。それまでに修了できなければ、仕事の話は白紙。支度金も返すんだ」
意味が分からない、と思った。
金貨を渡し、無理難題をふっかけて、できなければ返せとは。
「あ…あの、これはもらえません。僕もう、学校を辞めて働きますから」
クリスは勇気を振りしぼって言った。
途端、ギロリとにらまれた。
「僕ではない。私だ。働くなどと口にするからには、学生気分は捨てろ。もう自分を子どもだと思うな。…ああ、そうだ。今日からクリストファー・アンダーソンと名乗るように。もちろん、私の姓を名乗るからには、私の顔に泥を塗るような行為は絶対に許さん。分かったな」
それだけ告げると、父は出て行った。母が厚意で置いてもらっている長屋の一階の、食堂を。
「あ…お金」
テーブルに残された金貨に気付いたクリスは、慌てて金貨を持って往来に出た。
ところが、父は馬車に乗り、あっという間に見えなくなった。
一人、道にぽつんと残されたクリスは、そこで猛烈な怒りを感じた。
(なん…なんだ、あの人は。一方的に言いたいことだけ言って。誰のせいで母さんが苦労したと……!)
アンダーソンを名乗れと言われたことも、一人称の訂正も。
すべてが受け入れ難かった。
手に力をこめ、掌中に残された金貨の存在を思い出すと、怒りは金貨へと向かった。
「こんなもの………っ!」
金貨を握りしめた手をふりあげ、そして。
「──────っ」
そのこぶしをふりおろすことも、金貨を投げ捨てることもできずに、クリスは崩れるようにその場に膝をついた。
──どうして、母さんの体はどうかと、一言、聞くことすらしないんだ………。
その後。
金貨を使い込んでやるつもりで行った薬屋で、それが、母に必要だと言われた薬の、ちょうど半年分の代金だと知って、クリスは父に従うことを決めた。
学歴も後ろ盾もない十歳の子どもが、いくら身を粉にして働いて、数年かけたって、金貨一枚分も稼げない現実を知っていたから。




