2 父の心
クリスが十歳で働き始めた頃のお話です。
食わせ者恩師のおかげで(?)前回より若干明るさがある…はず。
長屋の一階の食堂に入ると、四十代半ばの細身の男性──クリスの恩師が、席についてお茶を飲んでいた。
やわらかさと、人を食うような飄々とした雰囲気を合わせ持つ人だった。
「クラーク先生!」
「やあ、お帰り。きみが王子の侍従になって、そろそろ三ヶ月ですね。随分、王子に気に入られたらしいじゃないですか。ほとんど城で寝泊まりしてるって?」
「はい。一週間に一度は帰るようにしているのですが」
病気の母の様子を見るために。
といっても、母はすでに快方に向かっていたし、長屋の人たちも助けてくれるので、クリスは王子のことに注力できた。
クリスが長屋にいるときは、食堂の主人がクリスのご飯を作ってくれた。
十歳で働き始めたクリスにとって、長屋は帰る家となっていた。
クラーク先生とご飯を食べ、王子の話を一通りした後、「でも」とクリスは言った。
「殿下のこれまでを思うと、あの人に腹がたつんです。王城の離れに殿下を隔離して、まわりは殿下から一歩引いた護衛だけ。殿下は、ご両親である国王陛下や王妃様と会うことすら許されず、唯一心を許したあの人が数日に一回、一時間ほど訪れるのを、ひたすら待っていたんです。いくら刺客から命を守る対策とはいえ、殿下はまだ六歳なんですよ?」
父への不満を言うと、先生は困ったように「うーん」と唸った。
「それは…難しい問題ですね。伯爵には摂政の仕事があって殿下だけに時間を割けないですし、殿下は…王子だから」
「え?」
「そうですねえ…今の殿下のことはひとまず忘れて、大人の、魔法使いの国王を想像してごらん。王という絶対権力に、強大な魔法の力が足されるんです。どんなことも思いのままの、怖い存在だと思いませんか?」
「それは………はい」
「そしてね、クリスくん。本当に怖いのは、そんなにも強い殿下に対して、近しい人間が私利私欲で政策に口出しすることなんです。だから伯爵は殿下のまわりに置く人間を慎重に選ばざるを得ない」
「え…と、それを言うなら私は? 今の殿下は、私が誰かを殺して欲しいと言えばやりますよ」
先生は、そこで「ぷっ」とふきだした。
「なに言ってんの。きみは私利私欲で殿下をそそのかさないでしょ。誰より公正な、殿下の監督者なんだから」
「は…い? 先生っ?」
クリスは、思わず声を大きくした。
とんでもないことを言われていると分かったから。
「まあ、身もふたもない話になるけど、伯爵がいくら立派な監督者であっても、普通に考えて、殿下より二十年は先になくなりますよね。国民に安心して王子を受け入れて欲しいと言うには、殿下と年の近い監督者が必要なんです。もちろん、その監督者自身が暴走しない、公明正大な人物であると信頼されることが絶対条件」
その、王子と年の近い監督者に、クリスがなるのだと。
「でも、私はまだまだ未熟ですし…」
「クリスくん。さっきも言いましたが、伯爵は慎重に吟味して、殿下のまわりに人を配置しているんですよ」
父に評価されたからこそ、今がある。
そこで、クリスは「いや!」と、強く反発した。
「いや、そんなはずないです! あの人は僕の顔を見ればダメ出しばかりで、褒めてもらったことなんか、ただの一度もないんです!」
父の要求通り半年で学業を終え、二度目の対面を果たしたとき。
本当は、心の片隅で期待していたのだ。よくやったと褒めてもらうことを。
ところが、父はクリスをねぎらうどころか、厳しい顔でさらなる課題をつきつけた。視る者として魔法使いの上に立つ覚悟を鍛えろと、手首を切って、自身の血で魔法をやぶる訓練をさせたのだ。
魔法で作られた透明な壁の中に置かれ、急速に薄くなっていく空気と、苦しくなる呼吸。手の届くところにあるものは、ナイフ一本。
透明な魔法の壁の向こうで、顔色ひとつ変えずに、死にたくなければ切れと言った父。
そのときのことを思い出したクリスは、右手で左手首を押さえた。
「今日だって…ほかの職員と笑っていたんです。僕には厳しい顔しか見せてくれないのに」
父に褒めて欲しい。笑って欲しい。だって自分は、父の出す厳しい要求に、こんなにも必死に応えているのだから。
ひどく幼稚な感情だと、自分でも分かっていた。
先生の顔を見ることができず、うつむきがちに言ったクリスに、ふう、と先生が息をついた。
それから。
「ねえ、クリスくん。働きだしてから、マッキンレイに対する認識、変わったんじゃないですか?」
そんな風に切り出された話に、クリスは左手首のうずきを心の底にしまい、頭を切り替えた。
「はい。私は本当に守られてきたのだと…痛感しています」
クリスの主な仕事は王子の相手だが、それでも大人社会に属していれば、学校では聞くことのなかった話が耳に入ってくる。
マッキンレイの絶大な影響力、えげつなさ、睨まれて生きることの困難さ。
「重荷だったと思います。私が特別な能力者だったせいで、長官(アンダーソン伯爵)の負荷を増やして」
「ん? クリスくん、それは逆です。伯爵は、きみのために特別な認定を頑張ったんですよ」
「まさか、そんな…そんなはずありません」
「いやいや、本当です。認定試験で三歳児が模範解答と異なる発言をしたところで、普通、三歳児の発言が正しいとはなりません。ましてやきみはマッキンレイが消したがっている存在。マッキンレイに楯突く以外のどんな意味も持たない特別な認定を、伯爵は強行したんです。きみを守るためにね」
「………」
「殿下のことだって……今のきみは、王子を引き受けたことで伯爵がどれほどの逆境に立ってきたか、知っていますよね」
「…はい」
視る者が魔法使いを管理する国に生まれた、魔法使いの王子。国民感情として受け入れ難い存在。
王子を生かすことは全国民を敵に回すことだった。
「きみや殿下も辛い立場ですが、伯爵が盾となってくださっているので、まだマシです。しかし、伯爵にはいかなる盾も存在しなかった。また、そうなることを分かっていて伯爵は殿下を引き受けたんです。それが陛下のためだと思いますか? ただでさえ政策丸投げで、お荷物でしかない、あの陛下の?」
(あの人が殿下を引き受けたのは、僕のため……?)
魔法使いの王子の誕生は、クリスの特別な認定の翌年。
先生の話に流されそうになりながら、クリスはじくじくと疼く左手首を、また意識せずにはいられなかった。
本当に先生の言うような気持ちがあるのなら、その片鱗でもいいから見せて欲しかった。厳しく当たられるばかりでは、嫌われているとしか受け止められない…。
手首を押さえるクリスを目でちらと確認しながら、先生は話を続けた。
「きみも当然、分かってると思うけど、この二ヶ月…きみが王子について一ヶ月過ぎたあたりから、刺客は来ていないでしょう。それ、きみの成果なんですよ」
「私?」
「そう。きみの特別な視る能力を目の当たりにしたこと、王子を手なづけたきみの手腕、謙虚で品行方正な態度。反王子派で、これまで刺客の手引きをしてきた視る者協会や王城内部の人たちが、きみを認めて態度を改めたんです」
客観的な先生の評価に、クリスは頬が熱くなるのを意識した。
「それで、まあ…王子を引き受けて以来、初めてだったそうですよ。伯爵が談笑したのは」
「え…」
「アンディ君がね、教えに来てくれたんです。今日、長官と職員の談笑中にきみが通りかかって、泣きそうな顔になって逃げていったって」
「なき…べつに、泣いてなんか」
さっきとは違う感情で赤面し、クラーク先生から顔をそむけながら、クリスは「だから今日先生が来たのか」と小さくぼやいた。
「そのときの話題が、この…刺客が来なくなった話だって。だから、今度伯爵の談笑を見たときは、自分が伯爵に褒められてるんだなと思えばいいですよ」
なんだそれ、と思った。
他人とクリスの話をして笑うくらいなら、クリスの前で笑えばいいのにと。
けれど、さっきまでのように、手首が痛みだすことはなかった。
──あの人は、きっと僕の前では笑わない。
諦念に似た気持ちで、そう思う。
──ずるいよ。厳しい顔をすることが愛情だなんて。
辛く当たられたら、傷付くのに。
それを憎むことすら奪われて。
「それより、先生とアンディさんが知り合いだったなんて、知りませんでした」
うまく丸め込まれたことが悔しくて、クリスは言った。今日初めて話したんですよ──先生の、そんな返事を期待していた。
アンディ・オルコット副長官は、父の腹心であり、クラーク先生と接点はないはずだったから。
ところが。
「ああ、言ってませんでしたっけ。きみの在学中から、アンディ君とは連携を取っていたんですよ」
しれっと先生は言った。
クリスは驚くと同時に真っ赤になった。
今度こそ、まっすぐに父の愛情を実感して。
ずっと、父はクリスのことを見てくれていたのだ。クリスにとって、父は、母が倒れたときに突如あらわれた人だったのに。
「エリナさんが倒れたときもアンディ君を通して、きみが最速どのくらいで学業を終えられるか、問い合わせを受けましたよ。ちょっと無茶ぶりかなと思いつつ、まあキリもいいしって、半年と区切ったの、実は僕なんです」
「はぁっ? 先生が!?」
一番の味方だと思っていた人に追い込まれていた。クラーク先生の告白に、クリスは叫んだ。
「うん。きみが本当に半年でやりきったとき、一番驚いたのは僕です」
まったく悪びれることなく「はっはっは」と笑われて、クリスは怒る気も失せた。
それから、おかげで王子と早く会えたから良かったと思うことにしよう、と自分に言い聞かせた。
さて。
父の心を知り、このとき納得したクリスだったが。
本人を前にすると厳しい態度に心は折れるし、親の愛情を示してほしい気持ちがふくれあがるしで、結局、父と顔を合わせることが苦手になった。




