13 伯爵令嬢と三番目の求婚者
「先日は、ブレンダがすまなかった」
馬車の中で、アンダーソン伯爵は、正妻ブレンダがヘンリエッタに仕掛けた暴行未遂を謝罪した。
「頭を上げてください。わたくしなら大丈夫ですから」
ヘンリエッタが恐縮してそう言うと、伯爵は顔を上げた。
そして。
「おわびと言うわけではないが、君たちの件、私にも協力させてもらいたい」
と、言った。
「わたくしたちの……?」
ヘンリエッタは、伯爵の意図が分からず、聞き返した。
アンダーソン伯爵の立場はマッキンレイの一員であり、最初からの協力は難しいというのが父の見立てだったからだ。
伯爵はヘンリエッタを見て微笑んだ。
「ああ。だから、彼ともう一度、話をしてやって欲しい」
「クリスさんと…?」
隣に座るクリスを見たヘンリエッタは、わずかに彼の顔が強張ったことに気付き、ハッとした。
(伯爵は、マッキンレイの不正を暴露して自決するとおっしゃったんだわ…!)
ヘンリエッタはうつむいて、膝の上においた手をギュッと握りしめた。
(そうよ。どうして考えなかったのかしら。マッキンレイの暴挙を厭いながら、その中に取り込まれて、政策協力し続けることの地獄を…)
王太子をマッキンレイ抑止の切り札となるよう育て、前王から引き継いだ政権を王太子に帰す大義のためとはいえ。
(ううん。国のための大義で、死を救いと感じるまでの、身を切り続ける日々を二十年も生きて来られたはずない。伯爵の心をここまで支えてきたのは、クリスさんを守らなきゃって気持ち…)
「ち…長官殿が…そう、おっしゃるのでしたら…」
自分の父親を役職名で呼び、クリスが言った。
その声は震えていて、彼も今初めて伯爵の心を知ったのだと分かった。
ヘンリエッタは、エリナを思い出した。
(伯爵に連絡したのはエリナさんだわ。クリスさんを選んで伯爵を捨てた自分は合わせる顔がないから会ってないって言ってたけど…)
それでも、人づてに伯爵の様子を聞き、執務室にハーブを届けていると言っていた。
だから、エリナは伯爵を地獄の生から救うために、ヘンリエッタの背中を押してくれた。
(でも、クリスさんの気持ちは……)
さっき、ヘンリエッタを引き離しながらクリスが言いかけた言葉。
『マッキンレイに呪われたこの身を、私は…』
(あのあとに続く言葉は『捨てられない』だわ)
いくら父親の態度が厳しくても。
面と向かって愛情を感じられなくても。
それでも、王太子誕生当時。国民感情を敵に回し、自身の立場を危うくしてでも魔法使いの王子を引き受けたアンダーソン伯爵の思いが、その前年に特別な能力者として認定したクリスを生かしたいだと、諸々の事情を知れば分かる。
厳しい父の要求に答えた結果、自分が生きていく未来が拓けたことも、実感としてあるだろう。
(クリスさんは、お父様が全身全霊をかけて守り、導いてくれた今の自分を捨てられない)
おそらく、クリスは自分で思っている以上に、父親を大切に思っている。だからこそ、自分を守るために生きてきた地獄から解放されたいと言われれば、嫌だとは言えない。クリスを拾うことでキングスフォード家が被る被害を軽減すべきだという理性的な判断も入っただろう。
クリス自身の思いは、違うのに。
そして。
(わたしは…)
小さくひと呼吸おいてから。
「すみません。わたし、気が変わりました」
ヘンリエッタは軽い口調で言った。
「彼とは結婚したくなくなったので、ここで失礼しますわ」
さらりとそう言うと、ヘンリエッタは返事を待たずに立ち上がった。
「ごきげんよう」
一方的に別れを告げ、馬車を降り、走り出さない程度の急ぎ足で歩き出した。
(泣かない。まだ…泣かない……!)
角を曲がったところで、ヘンリエッタは走り出した。
走りながら、涙が止まらなかった。
*
はあ、とティーテーブルにつっぷして、ヘンリエッタはため息をついた。
「エッタお嬢様。ため息ばかりつかれますと、幸せが逃げますわよ」
年の離れた友人、グローリアが言った。
もともと彼女はヘンリエッタを王太子妃にするための家庭教師だったのだが、その話が消滅したときに、彼女の任も解かれていた。今は、気の合う茶飲み友達だ。
「いいの。わたしにはもう幸せなんかこないから」
クリスと公園で会ってから、三日が過ぎていた。
「そんなことはありませんわ。私のお嬢様は世界一のお嬢様なんですから、絶対にお幸せになれます。私が保証します」
「あは、ありがとう」
ヘンリエッタは、グローリアの気持ちを無下にしないよう、弱い笑みを浮かべた。
そのとき。
「お姉様、大変、大変!」
「大変、大変!」
十歳になる双子の妹、イングリッドとシルヴィアが騒々しくやってきた。
「内緒のお客様!」
「とってもカッコいいお兄様!」
「お父様がサロンに来なさいって!」
「全員集合するんですって!」
(やだ。変な言い方するから、クリスさんが来てくれたのかと思っちゃったじゃない)
家族全員集合なら、家業に関係のある人とか、そのあたりなのだろう。
サロンに足を運んだヘンリエッタは、来訪者の姿を見て息をのんだ。
栗色の髪と瞳、すらりと高い身長、二十歳という実年齢以上に落ち着いた雰囲気をもつ青年。
「クリスさん…!」
「さあさ、お姉様はこっち」
イングリッドが手を引いて、ヘンリエッタをクリスの隣まで連れていってくれる。
クリスは、いつになく緊張しているように見えた。
隣に立ったヘンリエッタを見て、それから家族の方に向き直った。
「キングスフォード伯爵ならびにご家族の皆様。本日は、ヘンリエッタ様と私の結婚のお許しをいただきたくて参りました」
「!」
夢のような言葉に、ヘンリエッタは自分の耳を疑った。
「かまわんよ」
父はあっさり承諾した。
「きみを婿養子に迎えいれ、キングスフォード家の家督をきみたち二人に引き継ごう」
「いえ、その件に関してはヴィンセント殿と話し合いたいのですが」
クリスは長男ヴィンセントを気にかけたが。
「僕のことは気にしないでください。僕はどうも造船に興味が持てなくて。姉さんが家督を継いでくれる方が助かります」
ヴィンセントもあっさり権利放棄を宣言した。
「そういうわけだから、我が家に関して、きみが気に病むことはひとつもない」
父はそう締めると、あとは二人で話しなさいと気を利かせてくれた。




