序章 第九章「老人の正体」
兵士たちが里に駐留するようになってから、二日が過ぎた。里全体に漂う緊張は、少しずつ日常に溶け込みつつあったが、セフィの周りにだけは、相変わらず落ち着きのない気配が漂い続けていた。
この二日の間、セフィは何度も墓地の脇を通ろうとしたが、その度に足がすくんで近づけなかった。あの無数の死者たちが、まだそこにいるのかどうかも、確かめる勇気が出なかった。それでも、家の隅にいるあの老人だけは、変わらずそこに佇み続けていた。
その日の夕暮れ、セフィは一人で裏庭に出ていた。西の空が、燃えるような橙色に染まっている。家の隅には、あの老人が、いつものように佇んでいる。継ぎの当たった外套、輪郭の薄い体。けれど今日は、いつもと様子が違った。老人は、じっとセフィの方を見つめたまま、動こうとしない。
その眼差しの強さに、セフィは思わず後ずさりしそうになった。今までの老人は、どこか虚ろで、遠くを見ているような目をしていた。けれど今日の目には、はっきりとした意志のようなものが宿っている。
「おじいさん」
セフィは思い切って、声をかけてみた。今までは、話しかけても返事がなかった。けれど今日は、老人の唇が、はっきりと動くのが見えた。
*聞こえる。*
セフィは息を呑んだ。今までとは違う。今日は、その声が、初めてはっきりと届いた。まるで耳のすぐそばで囁かれているような、それでいて、ずっと遠くから響いてくるような、不思議な感覚だった。
「――なさい」
途切れ途切れの言葉が、耳の奥に直接響いてくるような感覚だった。セフィは目を見開き、老人に一歩近づいた。
「なんて言ったの? もう一回」
老人は苦しそうに顔を歪め、それでも懸命に言葉を紡ごうとしていた。まるで、長い間閉ざされていた喉を、無理やりこじ開けるかのように。
「にげ……なさい」
「逃げる? どこから?」
セフィが問いかけると、老人の目に、深い悲しみと焦りが浮かんだ。彼は震える手を持ち上げ、山の方角――里の南側にそびえる山脈を指し示した。
「あそこから、何か来るの?」
老人は頷くように、頭を微かに動かした。それから、もう一度、声を絞り出す。
「わたしと、おなじ……ように……」
「おなじって?」
セフィが聞き返した瞬間、老人の輪郭が、夕闇に溶けるようにして薄くなっていった。
「待って、まだ聞こえない! ちゃんと教えて!」
セフィは必死に手を伸ばしたが、その手は虚しく空を切るだけだった。老人の姿は、完全に消えてしまった。あとには、橙色に染まる裏庭と、風に揺れる木々の影だけが残された。
セフィはしばらくの間、その場に立ち尽くしていた。心臓が、まだ早鐘のように打っている。*おなじように、って、どういうこと。*その言葉の意味を、幼いセフィの頭では、うまく組み立てることができなかった。ただ、老人の目に浮かんでいた、あの深い悲しみだけが、いつまでも胸の奥に残り続けていた。
*
「セフィ、ご飯よ」
母の呼ぶ声で、セフィは我に返った。振り返ると、戸口からイレアが心配そうな顔でこちらを見ていた。
「どうしたの、そんな怖い顔をして」
「母さま……おじいさんが、初めてちゃんと喋った」
イレアの表情が、瞬時に強張った。*ついに、そこまで力が育ったのか。*母としての誇らしさと、それを上回る不安が、同時にイレアの胸を締めつけた。イレアは急いでセフィのそばに駆け寄り、膝をついて娘と目線を合わせた。
「なんて言ってたの?」
「逃げなさい、って。あと、わたしとおなじように、って。それだけしか分からなかった」
セフィがそう言うと、イレアは娘を強く抱きしめた。*この子の力が、本格的に目覚めようとしている。*その予感に、イレアの背筋を冷たいものが伝った。腕の中の小さな体の温もりだけが、今のイレアにとって、確かな現実だった。
「怖かった?」
「ちょっとだけ。おじいさん、すごく悲しそうな顔してた」
「そう……教えてくれて、ありがとう」
イレアはセフィの頭を撫でながら、努めて優しい声を作った。娘を怖がらせたくない一心だった。けれど内心では、老人の言葉の意味を、必死に考えを巡らせていた。*逃げなさい、とは、何から? そして、わたしと同じように、とは――まさか。*
イレアの脳裏に、故郷アンブラシルで聞いた、ある古い言い伝えがよぎった。冥人の一族の中には、かつて、同じように死者の言葉を強く聞き取り、そしてその力ゆえに、若くして命を落とした者がいたという話。まさか、その話とこれが、何か関係しているのだろうか。イレアはその考えを、慌てて頭の隅に押しやった。*今は、そんなことを考えている場合じゃない。*
「母さま、大丈夫?」
セフィが心配そうに見上げてくる。イレアは、はっと我に返り、努めて笑顔を作った。
「大丈夫よ。さあ、手を洗って、ご飯にしましょう」
そう言って、イレアはセフィの手を引き、家の中へと戻っていった。けれどその足取りは、いつもより少しだけ、重く感じられた。
*
その夜、セフィが寝静まったあと、ダリクとイレアは居間で顔を突き合わせていた。ランプの灯りが、二人の疲れた表情を、ぼんやりと照らし出している。
「セフィが、初めて声を聞き取ったらしい」
イレアがそう告げると、ダリクの表情が険しくなった。
「何と言っていた」
「『逃げなさい』と。それから、『わたしと同じように』とも」
ダリクはしばらく黙り込み、それから低く呟いた。
「……あの老人が何者なのか、俺たちには分からない。だが、死者がわざわざそこまで言葉を紡ぐというのは、尋常なことじゃない」
「動物たちの異変、帝国の兵の駐留、そしてこの警告――全部、繋がっている気がするの」
イレアの声は、微かに震えていた。
「実は、アンブラシルに、古い言い伝えがあったの。死者の声を強く聞き取る力を持つ者は、時に、大きな災いの予兆を先に受け取ることがあるって。子どもの頃、祖母から聞いたことがある」
「それは……つまり」
「セフィが聞いたあの警告は、ただの気まぐれな言葉じゃない。本当に、何かが近づいてきているということかもしれない」
ダリクは妻の手を握り、静かに頷いた。二人の間に、重い沈黙が流れる。
「明日、念のため、山には絶対に近づかせないようにしよう。それと――」
ダリクは少し言い淀んでから、続けた。
「もしもの時のために、少しずつでいい。荷物をまとめておこう」
その言葉に、イレアは息を呑んだ。*もしもの時、か。*そんな日が本当に来るとは、まだ信じたくなかった。けれど夫の目の真剣さに、イレアもまた、頷くしかなかった。
「分かったわ。セフィには、心配をかけないように」
「ああ」
「でも、あの子に何も伝えないままでいいのかしら。あの子は、わたしたちよりずっと早く、何かに気づいているのかもしれない」
イレアの言葉に、ダリクはしばらく考え込んだ。
「……もう少しだけ、様子を見よう。あの子を怖がらせたくない。だが、何かあれば、すぐに動けるようにしておく」
「分かったわ」
二人は静かに手を握り合ったまま、しばらくの間、言葉もなく座り続けていた。窓の外では、いつもより強く、谷を渡る風が唸り続けていた。ランプの灯りが、二人の影を壁に長く映し出している。
「なあ、イレア」
「なに?」
「もし本当に、何か大きなことが起きるとしても……俺は、後悔しない。お前と、セフィと、この里で過ごせた時間だけは、誰にも奪えない」
その言葉に、イレアは静かに微笑み、夫の肩に頭をもたせかけた。
「わたしも、同じ気持ちよ」
そう囁いた声は、夜の静けさの中に、そっと溶けていった。ダリクはイレアの手を持ち上げ、その指先にそっと口づけた。
「明日からは、少しでも多く、こうしてお前と過ごす時間を大切にしたい」
「あら、今さら?」
イレアが微かに笑うと、ダリクも釣られて笑った。張り詰めていた空気が、その瞬間だけ、少し和らいだ気がした。
「今さらでも、いいだろう」
「ええ、いいわ」
イレアはダリクの胸に頬を寄せ、しばらくの間、そのまま動かなかった。二人の鼓動が、静かな部屋の中で、重なり合うように響いていた。




