序章 第八章「帝国からの使者」
翌日の昼過ぎ、里の入り口に馬の蹄の音が響いた。滅多に聞かない音に、広場にいた者たちが一斉に顔を上げる。
「帝国の……」
誰かがそう呟く声が、セフィの耳にも届いた。三騎の兵士を引き連れた、身なりの整った役人が一人、里の広場へと入ってくる。年に一度か二度、税を取り立てにやってくるあの一団とは、明らかに様子が違っていた。鎧を纏った兵士たちの表情は硬く、腰に下げた剣の柄には、使い込まれた跡がはっきりと見えた。これは、単なる徴税の一団ではない。
イレアと共に広場にいたセフィは、その物々しい気配に、思わず母の裾を握りしめた。里の者たちの間にも、緊張がさざ波のように広がっていく。子どもたちは母親の背後に隠れ、大人たちは一様に頭を垂れて、視線を合わせないようにしていた。
「里の代表者は誰だ」
役人の声は、乾いていて、どこか高圧的だった。長老が慌てて進み出て、深々と頭を下げる。里の者たちも、次々とその場にひざまずくようにして、顔を伏せた。セフィは母の手を強く握りしめながら、その光景を見つめていた。
「この地域一帯で、不審な力の乱れが報告されている。原因究明のための調査だ。当面の間、この里にも兵を駐留させる」
役人は淡々とそう告げた。里の者たちの間に、静かなざわめきが広がる。イレアの手が、セフィの手を握り返す力を、わずかに強めた。*不審な力の乱れ――昨日からの、あの妙な空気と、何か関係があるのだろうか。*イレアの胸に、冷たい予感が差し込む。
兵士たちは早速、里のあちこちに天幕を張り始めた。広場の一角に、瞬く間に見慣れない駐屯地が出来上がっていく光景を、里の子どもたちは遠巻きに、不安げな目で眺めていた。
*
役人と兵士たちは、里のあちこちを歩き回り、住民一人ひとりに簡単な聞き取りを行っていった。順番が回ってくるまでの間、セフィはダリクの後ろに隠れるようにして立っていた。工房の前で待つ間、ダリクの手が、微かに震えていることに、セフィは気づいていた。
「お前が、この里の木工職人か」
役人がダリクの前で足を止め、値踏みするような目でこちらを見た。ダリクは静かに一礼する。
「はい。ダリクと申します」
「随分と、言葉遣いが丁寧だな。この辺境の木こりにしては」
役人の視線が、一瞬だけ鋭くなった。*まずい。*ダリクの背筋に、冷たいものが走る。学院にいた頃の名残が、こんなところで思わぬ形で目立ってしまったのかもしれない。長年かけて染み込ませてきた辺境の職人らしい振る舞いが、この役人の前では、なぜか薄皮一枚剥がれかけているような気がした。
「昔、少しばかり学問を齧っておりましたので。今はご覧の通り、ただの職人です」
ダリクは表情を変えず、努めて平静に答えた。役人はしばらくダリクを見つめていたが、やがて興味を失ったように視線を逸らした。
「ふん。まあいい。何か異常があれば、速やかに報告するように」
「はい、承知いたしました」
役人が離れていくのを見送りながら、ダリクは詰めていた息を、ゆっくりと吐き出した。*危なかった。あの目つきは、ただの巡回の兵士のものじゃない。何かを、明確に探っている目だった。*隣に立つイレアが、そっとダリクの腕に触れた。
「大丈夫?」
「ああ。少し、肝を冷やしたが」
小声でそう答えるダリクの手を、イレアはそっと握った。二人の間にだけ流れる、言葉にならない安堵が、その一瞬だけ交わされた。
*
セフィの番になると、役人は少し眉をひそめた。
「この娘は……」
役人の目が、セフィの右目に留まる。淡い金色の瞳。それが何を意味するか、役人もまた、知っているようだった。セフィは思わず俯き、母の背中に隠れるようにした。心臓が早鐘のように打っている。*見つかっちゃいけない。何を見つかってはいけないのか、自分でもよく分からないけど。*
「冥人の血が、混じっているようだな」
「はい」
イレアが、セフィを庇うように前へ出た。その声には、微かな震えがあったが、それを表に出さないよう、精一杯の平静を装っていた。役人はしばらく無言でセフィを観察していたが、やがて興味なさげに肩をすくめた。
「まあいい。混血程度で騒ぐほど、暇でもない」
そう言い残して、役人は次の家へと向かっていった。イレアは詰めていた息を吐き、セフィの肩をそっと抱き寄せる。*この子に、余計な目を向けられませんように。*その一心で、イレアはさっきまで役人の視線を全身で受け止めていた。
「大丈夫だった、セフィ?」
「うん……ちょっと、怖かった」
「よく頑張ったわね」
イレアはそう言って、娘の頭をそっと撫でた。広場の反対側では、他の里の者たちへの聞き取りがまだ続いている。兵士の一人が、ミラの家の前で何かを尋ね、ミラが困ったように首を振っている光景が見えた。
その日の午後は、里全体が息を潜めるようにして過ぎていった。子どもたちは家の中に留め置かれ、大人たちは必要最低限の言葉しか交わさなかった。いつもなら夕方に響く子どもたちの笑い声も、その日はどこからも聞こえてこなかった。
広場の一角に張られた天幕からは、夕暮れとともに焚き火の煙が立ち上り始めた。兵士たちの低い話し声が、風に乗って途切れ途切れに届いてくる。セフィは家の窓から、その様子をそっと窺っていた。
「あんな風に、里に人が留まるの、初めて見た」
「うん。父さまも母さまも、ちょっと変な感じ」
セフィが呟くと、隣に座っていたイレアが、娘の肩を優しく抱いた。
「大丈夫。あの人たちは、ただの調査に来ているだけだから」
イレアの声は努めて穏やかだったが、その言葉の裏に、隠しきれない緊張が滲んでいるのを、セフィは敏感に感じ取っていた。子どもというのは、大人が思う以上に、そういう機微に聡いものだった。
夕食の席でも、家族の会話はいつもより少なかった。ダリクは何度か口を開きかけては、また閉じることを繰り返していた。*今、この子に、余計な不安を植え付けるべきではない。*そう自分に言い聞かせながらも、頭の中では、役人の鋭い眼差しが何度も繰り返し蘇っていた。
*
その夜、家族三人は、いつもより早く床についた。里に駐留することになった兵士たちの気配が、どこか落ち着かない緊張を運んでくる。
「怖かった?」
寝室で、ダリクがセフィの頭を撫でながら尋ねた。
「ちょっとだけ。でも、父さまと母さまがいたから」
セフィがそう答えると、ダリクとイレアは顔を見合わせ、微笑み合った。*この子がいる限り、俺たちは何があっても、この暮らしを守り抜かなければならない。*ダリクは、そんな決意を胸の奥で新たにする。
「大丈夫よ。何があっても、わたしたちがついているから」
イレアがそう言って、セフィの額に口づけた。その温もりに包まれながら、セフィはゆっくりと瞼を閉じていく。けれど眠りに落ちる直前、部屋の隅に揺れる影が、いつもより多く、そしていつもより落ち着きなく揺れているのを、セフィは薄れゆく意識の端で感じていた。
セフィが寝入ったのを確認してから、ダリクとイレアは静かに寝室を出て、居間に移った。ランプの灯りを一つだけ灯し、二人は向かい合って座る。
「今日の役人の目、見た?」
イレアが小声で尋ねた。
「ああ。あれは、ただの巡回の目じゃない。何かを、明確に探している目だ」
「セフィのことも、じっと見ていたわ」
「気づいていた。だが、興味を失ったふりをしただけかもしれない」
ダリクの声には、隠しきれない緊張があった。イレアは夫の手をそっと握った。
「わたしたちに、何ができるかしら」
「今は、様子を見るしかない。だが……」
ダリクは言葉を切り、しばらく黙り込んだ。*動物たちの異変、この駐留、そして――セフィの力の変化。全部が、同じ何かに繋がっているのかもしれない。*その考えを、まだ口に出す勇気は持てなかった。
「何か分かったら、すぐに話すよ」
「ええ、待ってる」
イレアはそう言って、ダリクの肩にそっと頭を預けた。
「あなたが学院にいた頃のことを、あの役人が知っていたら――」
「その時は、その時だ。今は、余計なことを考えるのはよそう」
ダリクはそう言って、イレアの手を強く握り返した。*どんなことがあっても、この家族だけは、絶対に守り抜く。*その決意だけが、今の彼を支える唯一の拠り所だった。
窓の外では、駐留する兵士たちの焚き火の灯りが、いつもとは違う夜の色を、里に落としていた。二人はしばらくの間、身を寄せ合ったまま、その灯りを見つめ続けていた。




