序章 第七章「小さな異変」
その日の朝、セフィは妙な胸騒ぎで目を覚ました。
理由は分からない。ただ、いつもよりも部屋の隅に「誰か」がいる気配が濃い気がした。目を凝らしてみても、そこには何もいない。けれど、いないはずの気配だけが、確かにそこにあった。窓の外はまだ薄暗く、鳥の声すら聞こえてこない。いつもなら、この時間には遠くで鶏が鳴き始めているはずだった。
「どうしたの、セフィ」
隣で身支度をしていたイレアが、娘の様子に気づいて声をかけた。
「なんか……今日、へん」
「へん?」
「隅っこだけじゃなくて、あっちにも、こっちにも、いっぱいいる気がするの」
セフィは部屋のあちこちを指差した。イレアは眉をひそめ、娘の視線の先を追ったが、そこには何も見えない。*この子の力が、また少し変わったのかもしれない。*イレアの胸の奥に、小さな不安が芽生えた。
「怖い?」
「怖くはない……けど、なんか、みんな慌ててるみたいで」
セフィはそう言って、自分の腕をさすった。慌てている――それがどういう感覚なのか、セフィ自身、うまく言葉にできなかった。ただ、いつもは静かに佇んでいるだけの死者たちが、今日は落ち着きなく揺れ動いているように見えた。まるで、何かから逃げ惑っているかのように。
イレアはセフィの隣に座り、娘の背中をゆっくりと撫でた。*何が起きているのか分からない以上、この子を怖がらせないことが、今できる精一杯だ。*そう思いながら、努めて穏やかな声を作る。
「大丈夫。何があっても、母さまと父さまがついているからね」
セフィはその言葉に、こくりと頷いた。けれど胸の奥のざわめきは、まだ完全には収まっていなかった。
*
朝食のあと、セフィは家の裏手に出た。いつもなら、鶏が餌をついばみ、山羊がのんびりと草を食んでいる時間だ。けれど今日は違った。
鶏たちが、理由もなく一斉に鳴き騒いでいる。山羊は柵の隅に固まって、こちらを警戒するような目でこちらを見ていた。犬のロクが、何もない方角に向かって、低い声でうなり続けている。
「ロク、どうしたの」
セフィが近づいても、ロクは尻尾を丸め、耳を伏せたまま、視線を谷の奥――アシュカラスに続くとされる山脈の方角に固定していた。普段なら尻尾を振って駆け寄ってくるはずのロクが、今日は微動だにしない。
その光景に、セフィは言いようのない不安を覚えた。*ロクは、いつも私と一緒に遊んでくれる子なのに。*その犬が、今は自分のことなど目に入らない様子で、ただ一点を睨み続けている。
里の中を少し歩いてみると、異変はセフィの家の周りだけではないようだった。隣家の羊たちも、いつになく落ち着きなく柵の中を歩き回っている。井戸端では、洗濯をしていた女たちが、珍しく顔を寄せ合って何かを話し込んでいた。
「うちの鶏も、今朝は卵を産まなかったよ」
「うちも山羊の乳が出が悪くて」
そんな声が、セフィの耳にも切れ切れに届いてくる。里の大人たちの間にも、いつもとは違う、落ち着かない空気が広がりつつあった。
「父さま」
工房に向かい、セフィはダリクを呼んだ。木材を削っていたダリクが、手を止めて振り返る。
「どうした」
「動物たちが、みんな変なの。ロクも、鶏も、山羊も。他の家のも、みんな」
ダリクは眉根を寄せ、道具を置いて外へ出た。裏庭の様子を一通り確かめてから、しばらく黙り込む。*動物が、これほど揃って怯えるのは、ただごとではない。*学者だった頃の記憶が、彼の中で微かに疼いた。かつて調べた古い記録の中に、似たような記述があった気がする。だが、それが何だったのか、すぐには思い出せなかった。
「父さま、何か知ってるの?」
「……いや。分からない。だが、念のため、しばらく山には近づかない方がいい」
ダリクの声には、いつもの穏やかさの中に、微かな緊張が混じっていた。セフィはその声色を敏感に感じ取り、頷いた。
*
その日の昼、セフィはトビの家を訪ねた。トビもまた、いつもと違う様子だった。
「今日、猟には行かないんだ」
「どうして?」
「父さんが、獣たちの様子がおかしいって。罠にかかる獲物も、今朝は一匹もいなかったらしい」
トビは腕を組んで、少し不満そうな顔をした。
「せっかく新しい罠を仕掛けたのに」
「みんな、隠れちゃったのかな」
「かもな。動物って、俺たちよりずっと早く、何かに気づくって、父さんが言ってた」
その言葉に、セフィの胸の奥が、ちくりと痛んだ。*動物たちが気づいているものと、わたしが見ているものは、同じなのかもしれない。*そう思ったが、それが何を意味するのか、六歳のセフィにはまだ分からなかった。
「なあ、セフィ。今日は、いつもの場所には行かない方がいいかもな」
トビが珍しく真面目な顔でそう言った。
「どうして?」
「なんとなく、だよ。父さんが、山の方には近づくなって、今朝もしつこく言ってたし」
「うちの父さまも、同じこと言ってた」
二人は顔を見合わせ、どちらからともなく黙り込んだ。いつもなら他愛のない話で笑い合う時間が、今日はどこか重たい沈黙に変わっていた。
「じゃあ、今日は家の近くで遊ぶか」
トビがそう言って、無理に明るい声を作った。セフィも頷き、二人は里の広場の近くで、木の枝を使った他愛のない遊びをして過ごした。けれどセフィの意識の隅には、ずっとあの落ち着きのない気配が、消えずに残り続けていた。
夕方近く、家へ戻る途中、セフィは里の外れにある古い墓地の脇を通りかかった。普段なら、そこには一人か二人、ぼんやりと佇む死者の姿があるだけだった。けれど今日は違った。墓地の周り、木々の間、道端のあちこちに、輪郭の薄い人影が幾つも浮かんでいる。数えきれないほどの数だった。
セフィは思わず足を止めた。死者たちは、皆一様に同じ方角――谷の南側にそびえる山脈の方を見つめていた。誰も声を発さない。ただ、じっとその方角を見つめ続けている。その静けさが、かえってセフィの背筋を冷たくさせた。
「……なんで、こんなに」
呟いた声は、誰にも届かなかった。セフィは踵を返し、逃げるようにして家路を急いだ。走りながら、何度も後ろを振り返ったが、死者たちは誰一人として動かず、ただ山の方角を見つめ続けていた。
*
その夜、家族三人で囲む食卓は、いつもより口数が少なかった。イレアが作ったスープの湯気だけが、静かに立ち上っている。
「今日は、なんだか静かね」
イレアがそう言って、セフィとダリクの顔を交互に見た。
「動物たちの様子が気になって」
ダリクが答えると、イレアは小さく頷いた。*この人がこう言うということは、本当に何かあるのかもしれない。*イレアもまた、夫の勘の鋭さを、長年の間に知っていた。
「セフィ、今日見えたものたちは、まだそこにいる?」
イレアが尋ねると、セフィは部屋の隅にちらりと目をやった。
「うん。でも、さっきよりは、落ち着いてきたみたい」
「そう。それならよかった」
イレアはそう言って、娘の頭を優しく撫でた。その手のひらの温かさに、セフィは少しだけ安堵する。ダリクもまた、二人の様子を見つめながら、*どうか、何もないただの気のせいであってほしい*と、胸の内で静かに願っていた。
食事のあと、ダリクはいつもより長く、セフィと一緒に過ごした。木彫りの練習を教えてやりながら、努めて普段通りの空気を作ろうとする。*不安を顔に出せば、この子にも伝わってしまう。*そう自分に言い聞かせながら、ダリクは娘の小さな手に、鑿の持ち方を教え続けた。
「父さま、これでいい?」
セフィが不格好な木片を掲げて見せると、ダリクは目を細めて笑った。
「上手だ。筋がいいな」
「本当に?」
「ああ、本当に」
その笑顔に、セフィの胸のざわめきが、少しだけ和らいだ気がした。*父さまが笑ってくれるなら、きっと大丈夫。*そう思おうとする自分がいた。けれど同時に、墓地で見た無数の死者たちの姿が、瞼の裏にちらついて離れなかった。
寝る前、イレアがセフィの布団をかけ直しながら、そっと囁いた。
「今夜は、隅っこのおじいさんは?」
「まだ、いる。でも、静かにしてる」
「そう。何かあったら、すぐに教えてね」
「うん」
イレアは娘の額に口づけ、それからダリクと目を合わせた。二人の間には、言葉にせずとも通じ合う、静かな緊張が流れていた。*何かが、近づいてきている。*その予感を、二人とも、まだ確信には変えられずにいた。
窓の外では、いつもより強い風が、谷を吹き抜けていく音がしていた。その音に、セフィはなぜか、耳を塞ぎたくなるような気持ちになった。遠くの山脈の稜線が、月明かりの下で、いつもよりも黒く、大きく見える夜だった。




