序章 第六章「子守唄」
その夜、セフィはなかなか寝付けずにいた。理由は自分でもよく分からなかった。ただ、いつもより胸のあたりがざわついて、布団の中で何度も寝返りを打ってしまう。
「眠れないのか」
様子を見に来たダリクが、寝台の脇に腰を下ろした。ランプの灯りが、壁に父の影を大きく映し出している。
「うん……なんでか分かんないけど」
「そうか」
ダリクは少し考えるように黙り、それからイレアの方を振り返った。戸口に立っていたイレアが、微笑んでこちらに歩み寄ってくる。
「じゃあ、久しぶりに、あの話をしてあげようかしら」
イレアがそう言うと、ダリクは小さく頷いた。二人の間には、何か了解し合ったような空気があった。セフィは布団の中から顔だけ出して、二人を見上げた。
「あのお話って?」
「昔々のお話よ。この世界がどうやって今の形になったか、っていう話」
イレアはランプの灯りを少し落とし、寝台の端に腰掛けた。ダリクはその隣で、静かに目を閉じている。まるで自分自身も、その話に耳を傾けるかのように。
イレアは、歌うような調子で、ゆっくりと語り始めた。
*
――遠い遠い昔、まだこの世界に、人と人ならざるものの区別がなかった頃。
そこには、ただ人だけがいた。
人はやがて争い、争いはやがて、誰にも止められないほど大きくなった。
槍が剣になり、剣が炎になり、炎が、この世のものではない力になるまで。
人々は、勝つために、生き残るために、自分自身の姿かたちさえも作り変えていった。
獣の耳を持つ者、翼を持つ者、そして角を持つ者――
戦いの中から、それまで誰も見たことのない、新しい命の形が次々に生まれていった。
それと同じ頃、この世界に「魔法」という、不思議な力も生まれたのだと言われている。
けれど、その力はあまりに大きすぎた。
人の手には、あまりに重すぎた。
*
イレアの声は低く、静かで、まるで子守唄のような抑揚を持っていた。セフィは瞼を半分閉じながら、その声に身を委ねる。
「その力は、しまいには、誰にも止められなくなってしまったの」
イレアは続けた。
「暴れて、暴れて、世界そのものを壊してしまうくらいに、大きくなってしまった。空が裂けて、大地が沈んで、たくさんの街が、一夜にして消えてしまったのですって」
「こわい……」
セフィが小さく呟くと、イレアは娘の頭をそっと撫でた。
「怖い話よね。でも、これは本当にあった、昔のお話。それが、今から二千年も前のこと」
「二千年って、どれくらい?」
「数えきれないくらい、たくさんの人が生まれて、たくさんの人が死んでいくくらいの時間よ」
セフィには、その長さがどれほどのものか、まだうまく想像できなかった。ただ、気が遠くなるくらい昔のことなのだと、それだけは分かった。
「それでね」
イレアは声を少し落とした。
「その大きな壊れごとのあとから、獣の耳を持つ人や、角を持つ人――そう、母さまみたいな人たちが、この世界のあちこちで暮らすようになったの。壊れごとの前には、いなかった人たちがね」
「じゃあ、母さまも、その時に生まれた人なの?」
「母さまのご先祖様、ずっとずっと昔のご先祖様がね」
イレアは自分のこめかみに触れ、それから微笑んだ。
「壊れごとの中で生まれた人たちは、それぞれ違う力や、違う姿を持っていた。母さまの一族は、死んでしまった人たちの声が、少しだけ聞こえる一族だったの」
セフィは、はっと目を見開いた。
「セフィと、おんなじ?」
「ええ。セフィと、おんなじ」
イレアはそう言って、娘の右目に触れた。
*
ダリクが、静かに口を開いた。
「里の外の学者たちの間では、この壊れごとは、人間が力を求めすぎた罰なのだと言われている。空も、大地も、限度を超えて求めれば、いつか必ず応えを返す。それがあの戦争であり、あの崩壊だったのだと」
「罰、なの?」
「そう伝わっている、というだけだ。本当のところは、誰にも分からない」
ダリクの声は、いつもより少しだけ硬かった。イレアがその横顔をちらりと見たが、何も言わなかった。
「ただ、な」
ダリクは続けた。
「なぜあの時、あれほど大きな力が、あれほど都合よく、暴走したのか。それを、本当に人間だけの過ちだと言い切れるのか――昔、そういうことを、真剣に調べている者たちも、いたんだ」
「見つかったの? その答え」
セフィが尋ねると、ダリクは少し困ったように笑った。
「さあ、な。父さんが知っている頃には、まだ誰も、確かなことは言えていなかった」
*
イレアが、話を締めくくるように、また歌うような調子に戻った。
「壊れごとから二千年。世界は少しずつ、形を変えながら、今も続いている。人も、獣人も、翼を持つ人も、角を持つ人も、みんな同じ大地の上で、それぞれの暮らしを営んでいる」
「これからも、続いていくの?」
「ええ、きっと。セフィが大きくなっても、その先も、ずっと」
イレアはそう言って、娘の額に口づけた。
「だから、安心してお眠りなさい。この世界は、これからもずっと、こうして続いていくものだから」
その言葉に、セフィはようやく、瞼を完全に閉じることができた。眠りに落ちる直前、部屋の隅で、誰かがじっとこちらを見ている気配がした気がしたが、それを確かめる前に、セフィの意識は闇の中へと沈んでいった。
ランプの灯りを吹き消しながら、ダリクとイレアは、しばらく無言のまま、眠る娘の顔を見つめていた。二人の間にだけ流れる、言葉にならない緊張が、その静かな部屋の中に、確かに存在していた。




