序章 第五章「母の記憶」
イレアが竈の火を落とし、洗い物を終えたのは、夜もすっかり更けた頃だった。ダリクとセフィは、もう寝室で寝息を立てている――と思っていたが、工房の方からまだ物音がしていた。あの人は、今夜も何かを考え込んでいるらしい。
一人になった居間で、イレアは窓辺に腰掛け、月明かりに照らされた谷の稜線を眺めていた。こういう夜は、決まって故郷のことと、あの人と出会った日のことを思い出す。
*
イレアが生まれ育ったアンブラシルは、山と森に囲まれた、人目につきにくい土地だった。そこに暮らす冥人たちは、他の異人たちとも、人間とも距離を置き、独自の掟と伝承を守りながら、静かに世代を重ねてきた一族だった。
冥人には、死者の魂を正しく送り届ける役目があるのだと、幼い頃からそう教えられて育った。事実、集落の年長者たちの中には、死者の声を聞き、その言葉を代わりに語る者が何人もいた。イレア自身にも、その力はわずかに宿っていたが、一族の中でも特に強い者たちに比べれば、ごくささやかなものでしかなかった。
そのことに、幼いイレアはずっとコンプレックスを抱いていた。力の強さで測られがちなこの一族の中で、それは地味だが確かな引け目だった。
*
その日、イレアは祠の周りで、無断で立ち入っていた人間の男を見つけた。
初めて見る顔だった。粗末な旅装に身を包み、石碑の文字を必死に写し取っている、痩せ気味の男。人間が冥人の伝承を調べに来るなど、碌なことにならないと、集落では語り継がれていた。だから、イレアはできるだけ厳しい声を出したつもりだった。
「そこは、あなたたちが土足で踏み入れていい場所じゃない」
男は跳ねるように振り返り、明らかに動揺した様子で謝罪を始めた。その狼狽ぶりが、あまりに正直で、あまりに不器用で――*ああ、この人は、悪意でここへ来たわけではないのだ*と、イレアは直感した。
「申し訳ない。私はただ、この石碑に刻まれた文字を……いや、それよりもまず、無断で立ち入ったことを謝らせてほしい」
必死に言葉を選ぶ男――ダリクの様子を見ながら、イレアは自分でも意外なほど、警戒心が緩んでいくのを感じていた。学者だという割に、どこか頼りなく、それでいて瞳の奥には、何か真剣な光が宿っている。*変わった人。*それが、イレアの最初の印象だった。
*
以降もダリクは、理由をつけてはアンブラシルへ通い続けた。三度目に姿を見せたとき、イレアは呆れながらも、どこかその律儀さに、微かな好感を抱き始めていた。
「またあなたなの」
「今度は何を調べに?」
「実は、前回教えていただいた祠の伝承について、もう少し詳しく伺いたくて」
「学者様は、随分と物好きね」
「物好きで結構です。おかげで、こうしてまたあなたに会えた」
その言葉に、イレアは思わず目を見開いた。心臓が小さく跳ねるのを感じ、慌てて視線を逸らす。*何を、この人は。学者のくせに、こういう言葉だけは妙に真っ直ぐだ。*頬が熱くなるのを、イレアは誤魔化すように咳払いでやり過ごした。
「あなたは、恐ろしくないのか」
ある日、イレアは思い切って尋ねてみた。
「何がです」
「わたしたちの血が。死者を呼ぶと、忌み嫌う者も多い」
ダリクはしばらく考え、それから正直に答えた。
「正直に言えば、最初は好奇心の方が勝っていた。だが今は――あなたが誰かを傷つけるところなど、想像もつかない。それだけです」
その答えに、イレアは何も言い返せなかった。ただ、胸の奥に、これまで感じたことのない温かいものが広がっていくのを感じていた。*この人になら、話してもいいかもしれない。*そう思ったのは、集落を出て以来、初めてのことだった。
*
「お前は、力ではなく、心で聞く子なのだろう」
亡くなった祖母は、よくそう言って慰めてくれた。けれど祖母が亡くなり、一族の中心的な立場にいた者たちの世代交代が進むにつれて、アンブラシルの空気は少しずつ変わっていった。力の強い者が敬われ、そうでない者は静かに序列の外へと追いやられていく。イレアはやがて、自分がその共同体の中で、居場所を失いつつあることに気づき始めていた。
ダリクとの関係が知られたとき、集落の反応は冷ややかだった。イレアが集落を出ると告げたとき、引き止める者はほとんどいなかった。それどころか、どこか安堵したような空気さえ感じられた。
自分の居場所は、もうここにはないのだと、イレアはその時はっきりと理解した。それでも、隣にダリクがいてくれるなら、どこであっても構わないと思えた。力の強さで測られることのない関係――それが、イレアにとってどれほど得難いものだったか、言葉にするのは今でも難しい。
*
セローズに落ち着いてからの日々は、決して平坦ではなかった。それでもイレアは、ダリクと共に築いたこの暮らしを、後悔したことは一度もなかった。
洗い物を終えたイレアが物思いにふけっていると、工房の方から足音が聞こえてきた。ダリクが戻ってきたのだ。
「今日は遅かったのね」
「少し、片付けに手間取ってしまって」
隣に腰を下ろした彼の髪から、木の削り屑と、微かな緊張の匂いがした。*また、何か考え込んでいるのね。*長年連れ添っていれば、そのくらいのことは、聞かずとも分かってしまう。
「行商人の話、聞いた? 帝都でまた発掘が禁じられたって」
イレアが何気なく尋ねると、ダリクは一瞬だけ言葉に詰まり、それからいつもの穏やかな表情を作った。
「ああ、聞いたよ。もう自分には関係のない世界の話だ」
「本当に、そう思ってる?」
イレアは、あえてそう聞き返した。ダリクの中に、まだ何かがくすぶっていることを、イレアは知っていた。それでも、無理に暴くつもりはなかった。彼が話したくなるまで、待つことも、また一つの寄り添い方だと思っていたから。
「……時々、忘れられないことはある。だが後悔はしていない。今の暮らしを、他の何かと引き換えにする気はないよ」
その言葉だけで、イレアには十分だった。
「セフィのことも、まだ言ってなかったわね」
「ん?」
「今日、隅っこにおじいさんが見えるって、また言っていたの」
ダリクは静かに頷いた。イレアはその横顔を見つめながら、*この人も、わたしと同じくらい、あの子の力を案じているのだろう*と思う。けれど今夜は、互いにそれ以上、深くは踏み込まなかった。
「明日も、いつも通りの一日になるといいな」
ダリクがそう呟くと、イレアは小さく笑った。
「ええ、きっとそうよ」
不意に、ダリクの腕がイレアの肩を抱き寄せ、こめかみにそっと口づけが落とされた。イレアは驚いて、けれどすぐに頬が緩むのを感じた。
「なに、急に」
「いや……あなたと出会えたことは、俺の人生で一番の幸運だったと、ふと思っただけだ」
「大袈裟な人。木工職人が、そんな学者みたいな台詞を言うものじゃないわ」
からかうように言いながらも、イレアはダリクの胸に頭をもたせかけた。*本当は、いつまでもこうしていたいくらいなのに。*そんな気持ちを隠すように、あえて軽口を叩いてしまう自分を、イレアは少しおかしく思う。
夫の鼓動を聞きながら、イレアは目を閉じた。窓の外では、谷を渡る風が、変わらぬ音を立てて木々を揺らしていた。その音に耳を澄ませながら、イレアは夫の肩にそっと頭を預けた。*このまま、何も変わらない夜が、これからも続いていきますように。*そう願う自分の声が、静かな部屋の中に、誰にも聞こえないまま溶けていった。




