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まだ、続いていく  作者: たべられて候
序章
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序章 第四章「父の過去」

工房の隅に積まれた木材の陰に、ダリクは古い革表紙の手帳をしまい込んでいる。今日、行商人が谷を上ってきて、里の広場でひとしきり世間話をしていった。その中に出た、ある一言――「帝都では、また古代遺跡の発掘が禁じられたそうだ」――が、ダリクの奥底に眠っていた何かを、静かに揺り動かしていた。


木工の仕事を終えたあと、ダリクは誰もいない工房に一人残り、その手帳を取り出した。表紙はすっかり色褪せ、綴じ紐もほつれかけている。中を開けば、若い頃の自分の筆跡が、几帳面な文字でびっしりと並んでいた。


*美しい人だった。*


手帳をめくる指が、ふと止まる。最初にイレアを見た瞬間のことを、ダリクは今でも鮮明に覚えていた。


*


かつてダリクは、帝都グラナヴェールにある学院で、古代の記録を研究する学者だった。まだ二十代の半ば、世界の成り立ちそのものに強い興味を抱いていた頃のことだ。二千年前の大戦争、そこから生まれた異人という存在、そして魔法という不可解な力――これらの起源を解き明かすことに、若きダリクは全てを注ぎ込んでいた。


学院の資料だけでは飽き足らず、彼は各地に残る遺跡の実地調査に加わるようになった。危険な地域も多かったが、それでも彼は、崩れた石壁の向こうに眠る真実に、抗いがたく惹かれていた。


そんな調査旅行のひとつで、ダリクはアンブラシル――冥人の郷と呼ばれる辺境の地を訪れることになった。表向きの目的は、その地に伝わる古い伝承の記録調査だった。


祠の奥、崩れかけた石碑の文字を写し取っていたダリクの前に、一人の女が音もなく現れた。長い黒髪が風になびき、夕暮れの光の中で、その輪郭だけが輝いて見えた。


*きれいだ。*


真っ先に浮かんだのは、学者らしからぬ、その一言だった。ダリクは自分でも驚くほど動揺し、手にしていた筆を取り落としそうになった。


「そこは、あなたたちが土足で踏み入れていい場所じゃない」


女――イレアの声は、静かだが揺るぎない芯を持っていた。ダリクは慌てて謝罪し、しどろもどろになりながら、自分がここへ来た理由を説明した。


「申し訳ない。私はただ、この石碑に刻まれた文字を……いや、それよりもまず、無断で立ち入ったことを謝らせてほしい」


イレアは警戒したまま、しばらくダリクを見つめていた。その視線に射抜かれるようにして、ダリクは*この人に、下手なことは言えない*と、妙な緊張を覚えたのを覚えている。


*


以降もダリクは、理由をつけてはアンブラシルへ通い続けた。イレアは最初こそ距離を置いていたが、ダリクの態度に嘘偽りがないと分かると、少しずつ言葉を交わすようになっていった。


「またあなたなの」


三度目に訪れたとき、イレアは呆れたような、けれど少し柔らかい声でそう言った。


「今度は何を調べに?」


「実は、前回教えていただいた祠の伝承について、もう少し詳しく伺いたくて」


「学者様は、随分と物好きね」


「物好きで結構です。おかげで、こうしてまたあなたに会えた」


その言葉に、イレアは一瞬だけ目を見開き、それからふいと視線を逸らした。頬がわずかに赤らんでいたのを、ダリクは見逃さなかった。*しめた*、と思う自分がいて、同時に、そんなことを考えている自分自身に驚いてもいた。


祠に伝わる伝承、冥人という一族に受け継がれてきた、死者の声を聞く力の由来――そうした話をイレアの口から聞くたび、ダリクは学術的な興味だけでは片付けられない何かを、彼女という人物そのものに感じ始めていた。


「あなたは、恐ろしくないのか」


ある日、イレアがぽつりと尋ねたことがある。


「何がです」


「わたしたちの血が。死者を呼ぶと、忌み嫌う者も多い」


ダリクはしばらく考え、それから正直に答えた。


「正直に言えば、最初は好奇心の方が勝っていた。だが今は――あなたが誰かを傷つけるところなど、想像もつかない。それだけです」


イレアは何も言わなかったが、その沈黙は、拒絶の色をしていなかった。


*


滞在期間は本来ひと月の予定だったが、ダリクはその後も理由をつけては、アンブラシルへ足を運ぶようになった。二人の関係が周囲に知られたとき、学院の反応は迅速だった。獣人や翼人との婚姻であれば、眉をひそめられこそすれ、致命的な問題にはならなかっただろう。しかし冥人だけは違った。「死者を呼び寄せる不吉な血」という古くからの迷信は、学院の権威ある学者たちの間にさえ、根深く残っていた。


ダリクは選択を迫られた。学院に残り、研究者としての道を歩み続けるか。あるいはイレアと共に生きる道を選ぶか。


彼にとって、その答えは驚くほど早く出た。*積み上げてきたものは大きい。だが、それを失っても構わないと思えるものに、自分は初めて出会ったのだ。*


学院を追われるようにして去り、研究資料の多くも手放さざるを得なかった。それでも、あの手帳だけは、どうしても捨てることができなかった。


*


木工の道具を片付ける手を止め、ダリクは手帳の最後のページを開いた。そこには、彼が学院を去る直前まで調べていた、ある疑問についての走り書きが残されていた。


《二千年前の崩壊――本当に、人間の力の暴走だけが原因だったのか。当時の記録には、不自然に欠落した箇所が多すぎる。まるで、誰かが意図的に何かを隠しているかのように》


その先の答えを、ダリクはまだ見つけられていない。学院を離れた今となっては、調べを進める手立てもほとんどなかった。*それでも、この違和感だけは、二十年近く経った今でも、消えてくれない。*


ダリクは手帳を閉じ、それを再び木材の陰に隠した。工房を出て母屋へ戻ると、竈の火を落としたばかりのイレアが、洗い物を終えて一息ついているところだった。


「今日は遅かったのね」


「少し、片付けに手間取ってしまって」


イレアの隣に腰を下ろすと、彼女の髪から、いつもの石鹸の香りがした。*何年経っても、この匂いを嗅ぐと落ち着く*、とダリクは思う。


「行商人の話、聞いた? 帝都でまた発掘が禁じられたって」


イレアが何気なく尋ねた。ダリクは一瞬だけ言葉に詰まったが、すぐに穏やかな表情を作った。


「ああ、聞いたよ。もう自分には関係のない世界の話だ」


「本当に、そう思ってる?」


イレアの問いには、長年連れ添った者だけが持つ、鋭さがあった。ダリクは苦笑した。


「……時々、忘れられないことはある。だが後悔はしていない。今の暮らしを、他の何かと引き換えにする気はないよ」


「セフィのことも、まだ言ってなかったわね」


「ん?」


「今日、隅っこにおじいさんが見えるって、また言っていたの」


ダリクは頷いた。*あの子の力は、俺たちの想像より、ずっと大きなものになっていくのかもしれない。* そんな予感が、胸の奥をかすめる。だが今夜は、それを口に出すのはやめておいた。


「明日も、いつも通りの一日になるといいな」


ダリクがそう呟くと、イレアは小さく笑った。


「ええ、きっとそうよ」


ダリクはイレアの肩を抱き寄せ、こめかみのあたりにそっと口づけた。二十年近く連れ添っても、こうして触れるたびに、胸の奥がじんわりと温かくなるのを、ダリクは飽きることなく感じていた。


「なに、急に」


イレアが少し驚いたように、けれど嬉しそうに笑う。


「いや……あなたと出会えたことは、俺の人生で一番の幸運だったと、ふと思っただけだ」


「大袈裟な人。木工職人が、そんな学者みたいな台詞を言うものじゃないわ」


からかうように言いながらも、イレアはダリクの胸に頭をもたせかけた。*からかわれても構わない。この人がこうして笑ってくれるなら、それだけで十分だ。*ダリクはそう思いながら、しばらくの間、ただ静かに妻の温もりを感じていた。


窓の外では、谷を渡る風が、変わらぬ音を立てて木々を揺らしていた。その音に耳を澄ませながら、ダリクは*どうか、この穏やかさが、もう少しだけ長く続いてくれますように*と、柄にもなく祈るような気持ちになっていた。


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