序章 第三章「里の人々」
セローズは、ヴァエロリア帝国の版図の中でも、最も北東の端に位置する里だった。帝国の中心地である帝都グラナヴェールからは、馬車を乗り継いでも半月はかかる。地図の上では帝国領に色分けされていても、実際にこの地を治める者の姿を、里の者たちはほとんど見たことがない。年に一度か二度、税を取り立てる役人が谷を登ってくる。それが、里の人間が「帝国」というものを実感する、ほぼ唯一の機会だった。
谷へ通じる道は一本しかなく、山の隘路を縫うように続いている。荷馬車がすれ違うのもやっとの幅で、雪深い季節にはこの道さえ閉ざされ、里は数ヶ月の間、外界からほとんど切り離されてしまう。そんな土地であるからこそ、帝国の統治というものが、この里ではどこか遠い物語のように感じられていた。税を納めれば、それ以上干渉されることはない。里の揉め事は里の中で解決し、里の掟は里の中で守られる。それが何代も続いてきた、セローズという場所の在り方だった。
谷の南側には険しい山脈が連なり、その向こうには、かつて大戦争の傷跡が今も残ると噂される荒野――アシュカラスへと続いていると、年寄りたちは語る。誰も実際にそこまで足を運んだ者はいない。里の子どもにとって、アシュカラスは、悪い子を攫いに来る何かが棲む場所として、寝物語に登場する程度のものでしかなかった。冬の夜、囲炉裏端で年寄りが語る昔話には、決まってこの荒野から現れる恐ろしい何かが登場し、子どもたちは震え上がりながらもその話をせがんだ。
そんな辺境の谷に、セローズという里はあった。人口は百人にも満たない。木こり、猟師、羊飼い、薬草を摘む者。誰もが顔見知りで、誰の家に何人子どもがいるかまで、里中が知っている。そういう小さな世界だった。里の中央には小さな祠があり、谷の恵みに感謝を捧げる祭りが年に一度開かれる。それ以外に、目立った出来事などほとんど起こらない土地だった。
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市場と呼ぶにはささやかすぎる、里の広場。週に一度、この場所に簡単な露店が並び、里の人々が野菜や毛皮、木工品などを持ち寄って交換をする。セフィは母に頼まれた干し草の束を抱えて、その広場を歩いていた。籠いっぱいの干し草は見た目より軽かったが、腕に食い込む縄の感触が、少しだけ痛かった。
広場には、いつもと変わらない喧騒があった。誰かが値切る声、荷車の軋む音、遠くで犬が吠える声。空気には、干した薬草と、家畜の匂いと、焼きたてのパンの匂いが入り混じっていた。
広場の隅で、年配の女が三人、井戸端で洗濯物を絞りながら話し込んでいる。里の長老格である女で、白髪を後ろでひとつに束ね、深く刻まれた皺の奥から、覗くようにこちらを見た。セフィと目が合うと、女はふいと視線を逸らし、隣の女に何かを耳打ちした。何を言われているのか、セフィにはおおよそ見当がついた。声には出さずとも、視線と、微かな身のこなしの変化だけで、多くのことが伝わってくる。それを読み取る術だけは、セフィはこの里で誰よりも早く覚えてしまっていた。
広場の中央では、同い年くらいの子どもたちが数人、輪になって鬼ごっこをしていた。楽しそうな笑い声が響く中、セフィはその輪から少し離れた場所を歩いた。近づかない方がいいことは、経験でよく分かっていた。それでも一瞬、輪の中の一人と目が合った。セフィよりひとつ下の女の子で、名前はネッサといった。ネッサは一瞬だけこちらを見て、それからすぐに、隣にいた別の子の袖を引いて、輪の向きを変えるようにして視線を逸らした。悪意があるわけではないのだろうと、セフィは思う。ただ、大人たちの視線や態度を真似ているだけなのだ。子どもというのは、そういうものを驚くほど正確に写し取ってしまう。
セフィはその輪を横目に見ながら、何事もなかったかのように歩き続けた。傷つかないわけではなかったが、傷ついた顔をすることさえ、この里ではどこか許されていないような気がしていた。
セフィ自身の姿は、里の子どもたちと比べると、いくつかの点で異なっていた。髪は柔らかな栗色で、これは父譲りのものだ。けれど瞳は左右で色が違う。左目は父と同じ、穏やかな灰褐色。右目だけが、淡い金色をしていた。母イレアの瞳と同じ色だ。里の者たちが「不吉」と囁く理由の多くは、この右目のせいだった。肌はやや浅黒く、背丈は同い年の子どもたちよりも少し低い。
父ダリクは、四十をいくつか過ぎた男で、若い頃の学者らしい線の細さはもう残っていない。日々の木工仕事で節くれ立った手と、日に焼けた腕。けれど眼鏡越しに何かを見つめるときの目つきだけは、今でもどこか学者めいた鋭さを残していた。髪には白いものが混じり始め、無精髭を伸ばしたままにしていることが多い。里の男たちの中では長身の部類に入るが、猟師たちのような筋骨隆々とした体つきではなく、どちらかといえば細長い印象を与える体格だった。
母イレアは、里の女たちの中では際立って肌が白く、髪は艶のある黒だった。目の色は、セフィの右目と同じ淡い金色。そして、髪で隠すように結い上げたその生え際の少し上、左右のこめかみのあたりに、小さな瘤のような膨らみが二つある。冥人の血を引く者に現れる、角の名残だと言われていた。イレアはいつも髪をその部分にかぶせるように結い、目立たないようにしていたが、それでも里の者たちの目から完全に隠すことはできていなかった。細い指先はいつも忙しなく動いていて、針仕事や機織りの手を止めることがほとんどない。そうしていないと落ち着かないのだと、イレアは以前セフィに笑いながら話したことがあった。
「セフィちゃん」
声をかけてきたのは、隣家に住むミラという女だった。四十絡みの、丸顔で気のいい人物で、里の中では数少ない、セフィに普通に話しかけてくれる大人の一人だった。頬に赤みが差した、いつも笑っているような顔立ちで、両手はパン生地をこねる仕事でいつも粉まみれになっている。
「これ、余ったから持って行きなさいな」
ミラは焼いたパンの欠片を差し出した。セフィが礼を言って受け取ると、ミラは目を細めて笑った。
「お母さんは元気にしてる?」
「うん、元気だよ」
「そう。よかった」
ミラは少しの間セフィの顔を覗き込んでから、干し草の籠に目を移した。
「一人で運ぶの、大変でしょう。ちょっとだけ持ってあげようか」
「ううん、大丈夫。もう慣れてるから」
セフィがそう答えると、ミラは「そう、頑張り屋さんね」と言って、優しく頭を撫でてくれた。その手のひらの温かさに、セフィはほんの少しだけ、肩の力が抜けるのを感じた。
ミラのような人間は、里の中でも決して多くはなかった。多くの者は、イレアやセフィに対して、あからさまな敵意こそ見せないものの、どこか距離を置いた態度を崩さなかった。冥人の血が「不吉を呼ぶ」という迷信は、この辺境の里にも、確かに根を張っていた。子どもの頃からそう教え込まれて育った大人たちにとって、それを疑うことの方が、むしろ難しいのかもしれなかった。
広場の反対側では、猟師たちが数人集まって、獲物の毛皮を検分していた。冬眠前の熊の毛皮らしく、大人たちが感心したような声を上げている。その中に、トビの父の姿もあった。がっしりとした体格で、日焼けした顔には深い皺が刻まれている。太い前腕には古い傷跡がいくつも残っていて、それがこれまでの猟の年月を物語っていた。トビは、この父親によく似た体つきになりつつあった。声を張り上げて何かを笑い合う猟師たちの輪の中に、トビの父が混じっているのを見て、セフィはふと、いつかトビもあの輪の中に加わる日が来るのだろうかと考えた。
セフィは干し草を抱え直し、広場を後にした。里の人々の視線の中を歩くとき、セフィはいつも、少しだけ体を縮めるような癖がついていた。それでも、家に帰れば父がいて、母がいる。そしてもう少し歩けば、トビの家がある。
道を歩きながら、セフィはミラにもらったパンの欠片を少しだけ齧った。まだ温かさの残る、素朴な味だった。広場から漏れ聞こえる人々の話し声が、少しずつ遠ざかっていく。谷を渡る風が、髪をそっと撫でていった。
セローズという小さな世界は、優しさと排斥の両方を、いつも同じ重さでセフィに向けていた。そのどちらもが、この里で生きるということの、当たり前の一部だった。
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年に数度、谷の道を上ってくる行商人たちが、外の世界の噂を運んでくることがあった。帝都グラナヴェールでは、また新しい税が課されたらしい。南の方では、教団とかいう不思議な宗派が勢力を増しているという。西の共和国とやらでは、身分に関係なく誰でも役人になれるらしい――そんな話は、里の大人たちにとって、遠い異国のおとぎ話のようなものだった。
ダリクだけは、そうした噂話に、少しだけ違う反応を見せることがあった。行商人の話を聞きながら、時折、何かを確かめるように眉をひそめる。そのたびにイレアは、夫の横顔をそっと窺うのだった。かつて学者だった頃の彼が、何を知り、何を恐れているのか。イレアにも、はっきりとは分からなかった。
セフィもまた、そんな父の様子に、時折気づくことがあった。行商人が帰った後の晩、父は書物を持たない代わりに、木片に何かの図形を刻みつけていることがあった。それが何を意味するのか、幼いセフィには分からなかったが、いつもより静かで、いつもより遠い目をした父の横顔だけは、なぜかよく覚えていた。




