序章 第二章「友との戯れ」
「セフィ、こっちだ」
木々の間から、トビの声が降ってくる。声のした方を見上げると、彼は古い樫の木の枝に腰掛けて、得意げに手を振っていた。九つになるトビは、里の猟師の息子で、セフィより頭ひとつ半は背が高い。日に焼けた腕には、木登りでできた擦り傷がいくつも重なっていた。
「待って、待ってよ」
セフィは息を切らしながら、木の根に足を取られないよう気をつけて斜面を登る。斜面には昨夜の雨でぬかるんだ場所もあり、一歩ごとに靴の裏が滑りそうになる。膝を土につきながら、それでもセフィは登るのをやめなかった。木漏れ日が斑になって、地面のあちこちに落ちている。頭上では、名も知らない鳥が甲高く鳴きながら、枝から枝へと渡っていった。
トビは笑いながら、するすると枝を伝って降りてきた。着地の拍子に舞い上がった土埃が、セフィの鼻先をくすぐる。
「遅い。もう昼になっちまう」
「だって、母さまに手伝いを頼まれてたんだもん」
「言い訳ばっかりだな」
そう言いながらも、トビはセフィの手を引いて、歩きやすい道を選んで進んでくれる。彼の手のひらは、セフィよりもずっと大きくて、いつも少しだけ木の匂いがした。父親の猟の仕事を手伝ううちに身についた匂いなのだと、トビは前に得意げに話していたことがある。
里の外れ、山の斜面の途中にある古い倒木——それが二人だけの秘密の場所だった。何十年も前に雷に打たれて倒れたという大木は、根元のあたりが大きく朽ちてうろになっており、大人ならかがんでようやく入れるほどの空洞ができている。中は乾いた土と、苔と、木の匂いがした。夏でもひんやりとしていて、うろの奥から時折、小さな虫が這い出てくることもあったが、セフィもトビも、もうそんなことは気にならなくなっていた。
トビがここを見つけたのは去年の夏だった。最初は一人だけの秘密基地にするつもりだったらしいが、ある日、セフィが泣いているところに偶然出くわし、「ここなら誰にも見られない」と連れてきたのが始まりだった。里の子どもたちの何人かが、セフィのことを「不気味な子」と囃し立てた日のことだった。
あの日、セフィは沢のほとりで一人うずくまって泣いていた。理由は些細なことだった。井戸端で遊んでいた子どもたちの輪に入ろうとしたら、誰かが「あっちに行って」と言い、それに続いて他の子たちも次々と離れていった。何を言われたわけでもない。ただ、輪の中から静かに押し出されただけだった。
そこへ通りかかったのが、狩りの手伝いから帰る途中のトビだった。彼はしばらく黙ってセフィの隣に座っていたが、やがて「腹減ったな」とだけ言って、懐から干し肉を取り出し、半分をセフィに押し付けた。理由も聞かず、慰めの言葉もなく、ただそこにいてくれた。それだけで、セフィの涙は少しずつ止まっていった。
「他の連中がお前のことなんて言おうと、関係ねえよ」
あの日、トビはそう言って、拾ってきた木の実をセフィに押し付けた。理由なんて、それだけで十分だった。子どもの理屈というのは、時に大人よりもずっと単純で、そしてずっと強い。
それから一年近く経った今でも、二人だけの秘密の場所は変わらずここにあり、二人だけの約束事も変わらず続いていた。
うろの中に潜り込むと、トビは懐から取り出した小さな木彫りの人形を二つ、地面に並べた。父親が仕事の合間に彫ってくれたものだという、粗削りだが味のある人形だった。一つは剣を持った騎士、もう一つは杖を持った魔法使い。表面はところどころ丸く磨り減っていて、何度も二人の手を渡ってきたことがうかがえた。
「今日はこっちが騎士な。俺がやる」
「じゃあセフィは魔法使い」
いつもの遊びだった。二人で交互に声色を変えて人形を動かし、即興で物語を作っていく。今日の魔法使いは、呪われた森を旅する設定らしい。トビが唸るような声で「魔物」の役までこなすので、セフィはいつも笑ってしまい、物語はすぐに脱線する。
「うわあ、魔物だ! 騎士様、助けて!」
セフィが甲高い声で魔法使いの台詞を言うと、トビは騎士の人形を大きく振り回した。
「まかせろ! この剣で一刀両断だ!」
「でも魔物、めちゃくちゃ強いよ。三つ首があるの」
「三つ首? 聞いてないぞ、そんなの」
トビが不満げに言うので、セフィはますますおかしくなって笑い転げた。うろの中に、二人分の笑い声が反響する。外の光が届かない分、声だけがやけに大きく聞こえた。
ひとしきり遊んで人形が地面に転がったころ、トビはふと真面目な顔になって、剣を持った人形をつまみ上げた。
「本当に魔物とか出たら、俺が守ってやるからな」
「大袈裟だなあ」
「大袈裟じゃない。約束だ」
セフィは笑いながらも、その言葉を少しだけ、心の奥にしまい込んだ。
「ねえ、トビ」
ひとしきり遊んだあと、セフィがふと聞いた。
「なに」
「トビは、隅っこに誰かいたりする?」
トビは少し考えるように黙り、それから首を振った。
「いや、全然。お前だけだよ、そういうの見えるの」
「そっか」
セフィは膝を抱えて、うろの壁に寄りかかった。乾いた土の感触が、背中越しに伝わってくる。
「怖くないの? わたしが、変なものばっかり見てるって」
「怖い? なんで」
トビは本当に不思議そうな顔をした。
「だって、みんな……」
「みんなが何て言おうと知らねえって、さっきも言っただろ」
トビは腕を組んで、少し偉そうに胸を張った。
「それに、お前が見てるのは、悪いものなのか?」
「分かんない。ただ、そこにいるだけ。悲しそうにしてることが多いかな」
「じゃあ、怖くねえじゃん。悲しんでるだけなら」
トビの理屈は単純だった。けれどその単純さが、セフィにはいつも救いになっていた。里の大人たちが、複雑な理由をつけてセフィを遠ざけるのに対して、トビの言葉には、余計なものが何もついていなかった。
「気味悪いとは思わないぞ、俺は」
トビはそう言うと、木彫りの騎士をセフィの手のひらの上にぽんと置いた。
「お前が見てるもの、俺には見えないけど。でも、お前が嘘つきだなんて、一度も思ったことない」
セフィは何も言わず、ただ小さな木彫りの騎士を握りしめた。木のざらついた感触が、掌にじんわりと伝わってくる。
うろの隙間から差し込む光の筋の中に、埃が静かに舞っていた。外では、風が木々の梢を揺らす音が、絶え間なく続いている。谷を渡る風は、この秘密の場所にまで、微かに冷たい匂いを運んでくる。まだ夏には少し早い、そんな季節の匂いだった。
「なあ、大人になったら、俺、この里を出て遠くまで狩りに行くつもりなんだ」
トビが不意にそんなことを言い出した。
「遠くって、どこまで?」
「分かんねえ。でも、この谷の外側がどうなってるのか、見てみたいんだ」
セフィは少し驚いた顔でトビを見た。里の外に出たいなどと言う子を、セフィは今まで見たことがなかった。皆、この谷の中で生まれ、この谷の中で一生を終えるものだと、当たり前のように思っていたから。
「父さんは、若い頃に一度だけ、里の外まで行ったことがあるんだって」
トビは膝を抱えて、うろの入り口から見える空の切れ端を見つめながら続けた。
「大きな街があって、馬車がいっぱい走ってて、見たこともないものが山ほどあったって言ってた。俺、それを聞いてから、ずっと気になってて」
「怖くないの? 知らないところに行くの」
「怖いさ。でも、ここにずっといるのも、なんか違う気がするんだ。うまく言えねえけど」
トビは頭の後ろで手を組んで、少し照れくさそうに笑った。九歳の少年の言葉にしては、妙に大人びて聞こえた。
「セフィも、来るか?」
からかうような口調だったが、その目はどこか真剣だった。セフィは少し考えて、それから頷いた。
「うん。行く」
「よし、約束な」
トビは小指を差し出した。セフィもそれに自分の小指を絡めた。子ども同士の、他愛のない約束。けれどその瞬間だけは、セフィの胸の中に、どこまでも遠くへ広がっていけるような、そんな不思議な軽やかさがあった。
「でも、行くならちゃんと準備しないとな。俺、父さんの猟について行って、罠の仕掛け方も覚えてるんだ。セフィは何ができる?」
「セフィは……」
言いかけて、セフィは口ごもった。自分にできることといえば、誰にも見えないものを見る、それくらいしかない。それが旅の役に立つとは、とても思えなかった。
「なんだよ、考え込むなって。何でもいいんだよ、そんなの後からゆっくり見つければ」
トビはあっさりとそう言って、うろの外の光の方を見やった。木漏れ日が、彼の横顔をまだらに照らしている。
「俺たちにはまだ時間があるだろ。慌てることねえよ」
その言い方が、いつもよりずっと大人びて聞こえて、セフィは少しだけ照れくさくなった。
うろの外で、遠くから母の呼ぶ声がかすかに聞こえた気がした。セフィは名残惜しそうに立ち上がり、木彫りの騎士をトビに返そうとしたが、トビはそれを押し返した。
「やるよ。持っとけ」
「いいの?」
「ああ。また明日、遊ぼうぜ」
セフィは頷き、うろから這い出て、斜面を駆け下りていった。木彫りの騎士を握りしめた小さな手の中で、その温もりだけが、いつまでも消えずに残っていた。振り返ると、トビはまだ倒木の上に座って、片手を挙げてこちらを見送っていた。
坂を下りながら、セフィは何度も後ろを振り返った。その度に、トビの姿は小さくなっていったが、彼はずっと同じ場所に座って、見送ってくれていた。
その姿を、セフィはこの先、何度も思い出すことになる。




