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まだ、続いていく  作者: たべられて候
序章
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序章 第一章「何気ない日常」

朝靄がまだ谷間に沈んでいる時刻に、イレアは目を覚ます。


瞼の裏にまで届くほどの静けさだった。セローズの里は、いつもこうだ。鳥の声すら、まだ眠りの中にいる。イレアは寝台の上でゆっくりと身を起こし、木の窓枠の隙間から外を見た。谷を囲む山々の稜線が、夜明け前の青灰色の光の中に、輪郭だけをぼんやりと浮かび上がらせている。頂に近いところにはまだ雪が残っていて、その白さだけが、闇の中で微かに発光しているように見えた。


長年見慣れたはずの景色なのに、この里に来た当初は、こんなにも山が近いことに息苦しさを覚えたものだった。空が狭い。逃げ場がない。そう感じた夜が、何度もあった。今ではもう、この息苦しさこそが安心だと知っている。山が高ければ高いほど、外の目は届きにくくなる。谷を吹き抜ける風の匂いも、湿った土と針葉樹の樹脂が混ざったこの匂いも、今では体の一部のように馴染んでいた。


隣で眠るダリクの寝顔を、イレアはしばらく眺めた。頬に落ちた前髪の下で、彼の呼吸は規則正しく上下している。学者だった頃の彼は、いつも本と埃と、かすかな緊張の匂いをまとっていた。分厚い記録の束を抱えて、遺跡の奥で何日も出てこないこともあった。今は違う。木を削る手の匂いがする。乾いた木片と、蜜蝋を煮詰めたような匂い。それだけで、イレアは自分たちがここまで来たことの意味を、繰り返し確かめるような気持ちになる。


失ったものは多かった。彼の名誉も、彼の書斎に並んでいた古い記録も、彼女自身の一族との縁も。里の外では、二人の結びつきは口にするだけで顔をしかめられるようなものだった。冥人の血は不吉だと、誰もが当たり前のようにそう教えられて育つ。けれど、この谷の奥深くまで、そんな理屈を運んでくる者はほとんどいない。失わなかったものが、隣で静かに寝息を立てている。それだけで、イレアは今日も十分だと思えた。


「かあさま」


戸口から、小さな声がした。振り返らなくても分かる。セフィだ。まだ六つになったばかりの娘は、寝間着の裾を両手で握りしめて、少し困ったような顔でそこに立っている。柔らかな栗色の髪は寝癖で跳ねていて、右目の色だけが、朝の薄闇の中でもはっきりと分かるほど淡い金色をしていた。


「またなの?」


イレアが囁くように聞くと、セフィは小さく頷いた。素足のまま、板張りの床をそっと踏みしめてこちらへ歩いてくる。


「隅っこに、おじいさんがいるの。じっとこっちを見てる」


この子は、生まれたときから少し変わっていた。誰もいないはずの場所を見つめ、時折、誰にも聞こえない声に相槌を打つ。里の子どもたちの何人かは、それを見て怖がって離れていったし、大人の中には面と向かって「呪われている」と言った者もいた。イレアはその度に、笑って受け流してきた。娘を守れるのは、自分がまず怯えないことだと分かっていたから。


「おじいさんは、何か言ってた?」


「ううん。ただ、悲しそうだった」


セフィはそう言うと、イレアの布団の隙間に潜り込んできた。小さな体はまだ眠気に包まれていて、母の腕の中に落ち着くと、すぐにまた寝息を立て始める。イレアはその柔らかい頭を撫でながら、窓の外の白み始めた空を見た。稜線の向こうが、少しずつ橙色に染まりつつあった。


この子の目に映るものを、自分は一度も見たことがない。けれど、この子が抱えているものの重さだけは、痛いほどに分かる気がした。自分もまた、この里に来るまでは、誰かに理解されないものを抱えて生きてきたから。血が違う。目の色が違う。それだけで、世界の半分から拒まれる。セフィが背負っているものは、それとはまた違う種類の孤独だったが、根っこのところで、どこか似ている気がした。


窓の外が、少しずつ明るさを増していく。稜線の雪が橙に染まり、谷底に沈んでいた靄が、細く長い筋になってほどけていった。イレアは娘の寝顔をもう一度見てから、そっと寝台を抜け出した。板張りの床は冷たく、素足の裏にその冷たさが染み込んでくる。


竈に火を入れ、水瓶から水を汲む。里の水は山からの雪解け水で、真夏でも指がかじかむほど冷たかった。その冷たさに慣れるまで、ここに来て何年もかかったことを、イレアはふと思い出す。あの頃は何もかもが慣れなかった。土間の匂いも、隣人たちの視線も、遠くから聞こえる祭りの太鼓の音でさえ、自分を拒む響きに聞こえたものだった。


けれど今は違う。竈の炎が芋を煮る匂いに変わり、外では鶏が一羽、二羽と鳴き始める。里が一日の呼吸を始める、その音の連なりが、イレアには何より安堵をくれるものになっていた。


ダリクが起き出してきたのは、粥がちょうど煮えた頃だった。寝癖のついた髪のまま、彼は竈の前に立つイレアの背中に、そっと手を添える。


「今日は東の畑に行かないと。柵が緩んでいた」


「気をつけて。昨日、山羊が一頭、崖際まで行っていたでしょう」


「分かってる」


短いやり取りだったが、それだけで十分だった。二人の間には、多くを語らずとも通じ合うものが、長い年月の中で積み重なっていた。


*


朝食の匂いで、セフィは完全に目を覚ました。


竈で炊いた芋の粥の匂いが、狭い家の中いっぱいに広がっている。窓から差し込む朝日が、木の床の上に長い光の帯を作っていた。父の削った木の匙で、粥をかき混ぜる。木の器の縁は、何年も使われて丸く滑らかになっていた。


「よく眠れたか」


ダリクが向かいに座り、そう聞いてくる。彼の手には、いつも小さな傷がいくつもあった。木工の仕事を始めてまだそれほど経っていないからだと、セフィは思っていたが、本当のところは分からない。父は昔のことをあまり話さない人だった。


「うん。でも、隅っこにおじいさんがいたよ」


セフィが答えると、ダリクは一瞬だけ手を止め、それからいつもと変わらない調子で粥をすすった。


「そうか。今日は何か言っていたか」


「ううん、まだ何も」


窓から差し込む光の中を、小さな埃がゆっくりと舞っている。セフィはその粒を目で追いながら、ふと、部屋の隅にまだ誰かがいることに気づいた。


昨夜からいる老人だ。継ぎの当たった外套を纏い、しゃがみ込んで、ずっと同じ一点を見つめている。何も言わない。ただ、そこにいる。壁の木目がうっすらと透けて見えるほど、輪郭のはっきりしない姿だった。


「セフィ、ぼんやりしてると粥が冷めるよ」


母の声に、セフィは我に返った。


「うん」


短く答えて、粥を口に運ぶ。里の子どもたちの中には、セフィと一緒に遊びたがらない子もいた。目の色が少し違うから。それに、誰もいない場所を見つめる癖があるから。井戸端で洗濯をする女たちが、セフィが通り過ぎるときだけ声を潜めることも、セフィはとうに気づいていた。けれど父も母も、そのことでセフィを叱ったことは一度もなかった。


食事のあと、セフィは家の裏手に出た。谷を吹き抜ける朝の風が、頬を撫でていく。木々の葉が擦れる音、遠くの沢のせせらぎ、里のどこかで山羊の鳴く声。谷の向こうに広がる森は、今日も濃い緑を静かに揺らしていた。


道の先では、隣家のおばさんが薪を割っている。すれ違いざま、セフィに気づくと少しだけ会釈をしたが、目は合わせなかった。そういうことにも、セフィはもう慣れていた。慣れているだけで、痛くないわけではない。けれど、家に戻れば父がいて、母がいる。それだけで、セフィの世界は十分に温かかった。


坂を下りきったところに、小さな沢がある。セフィのお気に入りの場所だった。水は驚くほど澄んでいて、底の小石の一つひとつまで見える。しゃがみ込んで水面を覗くと、自分の顔の横に、ぼんやりとした人影が映り込むことがあった。今日は誰もいない。ただ自分の顔だけが、揺れる水面に歪んで映っている。


沢のほとりには、同じ年頃の子どもたちが二人、木の枝で何かを作って遊んでいた。セフィが近づくと、二人はちらりとこちらを見て、それから何も言わずに場所を移していった。声をかけられたわけでも、はっきり拒まれたわけでもない。ただ、静かに距離を置かれる。それだけのことに、セフィの胸の奥がきゅっと締めつけられる。けれど、泣くほどのことでもないと、セフィはもう知っていた。これは、いつものことだから。


水面に石を一つ投げ入れると、波紋が広がって、映っていた自分の顔が崩れた。それが少しだけ愉快で、セフィはもう一つ、また一つと石を投げた。


明日も、明後日も、こんな朝が続くのだと、セフィは何の疑いもなく思っていた。谷を囲む山々は、いつも通りそこにあり、里の暮らしはいつも通り静かに回り続けている。それが当たり前のことのように、六歳のセフィには思えていた。


裏手の木陰で、セフィはふと足を止めた。家の中にいたはずの老人が、いつの間にかそこに立っていた。輪郭の薄い体が、朝の光をわずかに透かしている。


その老人が、ふと顔を上げて、初めてセフィの方をまっすぐに見た。


その目に浮かんでいたものが何だったのか、セフィはまだ知らない。ただ、その視線がひどく悲しく、そしてどこか焦っているように見えたことだけを、セフィは覚えていた。


老人の唇が、微かに動いた気がした。声にはならない。それでもセフィには、何か伝えようとしているのだと分かった。耳を澄ませても、風の音と葉擦れの音しか聞こえない。今のセフィの力では、その言葉を掬い上げることはできなかった。


「セフィー、そろそろお昼にするよー」


家の方から、母の呼ぶ声が響いてきた。セフィが振り返り、また視線を戻したときには、老人の姿はもうどこにもなかった。木漏れ日が揺れる木陰があるだけで、そこに誰かがいた気配さえ、風にさらわれて消えてしまったようだった。


セフィは少しの間、その場に立ち尽くしていた。けれどすぐに、母の声にせかされるようにして、家へ向かって駆け出した。谷を渡る風が、その小さな背中を追いかけていく。


この日のことを、セフィが本当の意味で思い出すのは、ずっと後になってからのことだ。今はまだ、ただの何気ない朝の、何気ない一コマに過ぎなかった。


風が、少しだけ強くなった気がした。


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