序章 第十章「友と過ごす、最後の午後」
兵士たちが里に留まるようになってから、三日が過ぎていた。相変わらず張り詰めた空気は消えなかったが、子どもたちにとっては、それでも遊ぶ時間が完全になくなるわけではなかった。
「セフィ、今日は久しぶりに、うろに行こうぜ」
トビがそう誘ってきたのは、昼過ぎのことだった。ここ数日は互いに家の近くで過ごすことが多かったから、山の斜面まで行くのは久しぶりだった。
「行っていいの? 父さまが山には近づくなって」
「うろのある場所くらいなら平気だろ。ちゃんと里からも見える距離だし」
トビの言葉に、セフィは少し迷ったが、結局は頷いた。*少しくらいなら、大丈夫だよね。*そう自分に言い聞かせながら、セフィはトビの後についていった。
ダリクとイレアには、「トビの家の近くで遊ぶ」とだけ伝えて、家を出た。嘘ではなかったが、全部を話したわけでもない。そのことに少しだけ後ろめたさを感じながらも、セフィの足取りは自然と軽くなっていた。
*
斜面を登る道中、二人はいつものように他愛のない話をした。今日獲れた魚の話、里の誰それが喧嘩をした話、駐留している兵士たちのこと。トビは兵士の一人が持っていた剣を間近で見たと、自慢げに話した。
「すげえ長さだったんだぜ。俺の背丈より高いんじゃないかってくらい」
「大袈裟だよ、それ」
「本当だって。今度見せてもらえないか、頼んでみようかな」
そんな軽口を叩きながら歩くうちに、いつもより早く倒木のうろに辿り着いた気がした。けれどセフィは、ふと気づいた。木々の間を飛び交うはずの小鳥の姿が、今日はほとんど見えない。いつもなら賑やかに響く虫の声も、心なしか少ない気がした。
「なんか、静かだね」
「ああ、そういえば」
トビも同じことに気づいていたらしく、少し眉をひそめた。けれどそれ以上は何も言わず、二人は倒木のうろへと辿り着いた。
中に入ると、いつもと変わらない、乾いた土と苔の匂いがした。この場所だけは、外の異変から切り離された、特別な空間のように感じられた。
「なあ、セフィ。最近、里の様子おかしいと思わないか」
トビが人形を並べながら、ふと真面目な声で尋ねた。
「思う。動物も変だし、兵隊さんも来たし……あと」
セフィは少し言い淀んだ。老人が「逃げなさい」と言ったことを、トビに話すべきかどうか、迷っていた。
「あと、なんだ?」
「ううん、なんでもない」
セフィは首を振った。*トビを、余計に心配させたくない。*そう思っての判断だった。トビはそれ以上追及せず、肩をすくめた。
「まあ、俺の父さんも、最近ずっと難しい顔してるよ。猟に出ても、獲物が全然いないんだと」
「みんな、隠れちゃったのかな」
「かもな。でも、俺たちがこうして遊べてるうちは、まだ大丈夫ってことだろ」
トビはそう言って、明るく笑ってみせた。その笑顔に、セフィも少しだけ、心が軽くなるのを感じた。
「なあ、セフィ」
木彫りの人形を並べながら、トビがふと切り出した。
「なに?」
「前に言った約束、覚えてるか。俺たちで、里の外に出るって話」
「うん、覚えてる。指切りしたもん」
セフィが自分の小指を掲げて見せると、トビは笑った。
「あれ、本気だからな。俺、もう少し大きくなったら、本当に出るつもりだから」
「セフィも、一緒に行く」
「よし、約束な」
二人はもう一度、小指を絡めた。子どもの他愛のない約束を、二人とも、まだ本気で信じていた。
「なあ、外に出たら、まず何が見たい?」
トビが人形を弄びながら尋ねた。
「大きな街! 父さまが話してくれた、馬車がいっぱい走ってる街」
「俺は、海ってやつを見てみたいな。爺さんが昔、一度だけ見たことあるって言ってた」
「海って、水がずっと向こうまで続いてるやつ?」
「そう。この谷よりも、もっともっと広いんだと」
セフィは目を輝かせて、その光景を想像しようとした。けれど谷しか知らない六歳の頭では、うまく思い描くことができなかった。
「早く大きくなりたいな」
セフィが呟くと、トビは頷いた。
「俺も。そうしたら、二人でどこへだって行ける」
その言葉に、セフィの胸が温かくなった。この先ずっと、こんな未来が当たり前に続いていくのだと、疑うことなくそう信じていた。
*
ひとしきり遊んだあと、二人は倒木の外に出て、谷を見下ろす岩の上に並んで座った。夕暮れの光が、里全体をオレンジ色に染めている。
「なあ、セフィ」
トビが、珍しく神妙な声で言った。
「なに」
「お前のこと、里のやつら、色々言うだろ。でも、俺は絶対、お前の味方だから」
セフィは驚いてトビを見た。トビは少し照れくさそうに、視線を谷の方へ逸らした。
「なんでいきなり、そんなこと言うの」
「いや……なんとなく、な。最近、なんか色々物騒だし。伝えとかなきゃって、思っただけ」
セフィの胸の奥に、温かいものがじんわりと広がった。*トビがいてくれるなら、きっと大丈夫。*そう思える自分がいた。
「ありがとう、トビ」
「別に、礼を言われるようなことじゃねえよ」
トビは照れ隠しのように、そっぽを向いた。その横顔を見ながら、セフィは小さく笑った。
しばらく二人は無言のまま、茜色に染まる谷を見下ろしていた。遠くで、里の煙突から立ち上る夕餉の煙が、いくつも空へと昇っていくのが見えた。
「なあ、セフィ」
「なに」
「もし、俺たちが離れ離れになるようなことがあっても……その、また絶対会おうな」
トビの言葉は、いつになく真剣だった。セフィは少し首をかしげたが、素直に頷いた。
「離れ離れになんて、ならないよ。だって、ずっと隣にいるじゃない」
「まあ、そうだよな」
トビは少し笑って、それ以上は何も言わなかった。ただ、その横顔には、セフィにはまだ理解できない、複雑な色が浮かんでいた。
立ち上がる前に、トビは懐から、もう一つ小さな木彫りを取り出した。今度は小さな鳥の形をしていた。
「これ、やるよ。父さんが暇な時に彫ったやつ。俺には二つあるから」
「いいの? ありがとう」
セフィは両手でそれを受け取り、大事そうに握りしめた。木の温もりが、手のひらにじんわりと伝わってくる。
「その鳥、いつか本物の空を飛ぶところ、一緒に見に行こうな」
「うん、約束」
二人は立ち上がり、斜面を下り始めた。
*
家路につく頃、空は茜色から紫色へと変わりつつあった。トビは里の分かれ道まで、セフィを送ってくれた。
「また明日な」
「うん、また明日」
いつもと変わらない別れの挨拶を交わし、セフィは家へと駆けていった。トビはその小さな背中が見えなくなるまで、ずっとその場に立って見送っていた。
途中、セフィは何度か振り返った。その度に、トビはまだ同じ場所に立って、片手を挙げていた。最後に振り返ったとき、夕闇の中に浮かぶトビの輪郭は、いつもより少しだけ、小さく見えた気がした。
家に着くと、イレアが夕食の支度をしながら、セフィを迎えた。
「おかえりなさい。今日はどこまで行ってたの?」
「トビと、いつもの場所。もう暗くなるから、帰ってきた」
「そう。気をつけてね」
イレアはそう言いながら、娘の髪についた木の葉を、そっと取ってやった。
「山の近くまで行ったんじゃないでしょうね」
イレアが少し心配そうに尋ねると、セフィは一瞬言葉に詰まった。
「うろのところだけ……ごめんなさい」
「今度からは、本当に気をつけてね。母さまも父さまも、心配しているんだから」
イレアの声には、叱る響きよりも、案じる響きの方が強く滲んでいた。セフィは素直に頷いた。
「うん、ごめんなさい」
「分かってくれたなら、いいのよ」
イレアはそう言って、娘の頭を優しく撫でた。夕食の匂いが、家の中いっぱいに広がっている。竈の火に照らされたイレアの横顔を見つめながら、セフィはふと、今日トビと交わした約束のことを思い出していた。
*いつか、この里の外に出て、色んな景色を見るんだ。*
その未来が、当たり前のように、これからもずっと続いていくものだと、セフィは信じて疑わなかった。何気ない夕暮れの一コマ。けれどこの日が、トビと過ごす、当たり前の午後の、最後の日になるとは、この時のセフィには、知る由もなかった。




