序章 第十一章「束の間の温かさ」
その日は、朝から珍しく穏やかな空気が里を包んでいた。兵士たちの駐留も、動物たちの異変も、まるで嘘のように鳴りを潜めていた。空は雲一つない青空で、朝日が窓辺に柔らかく差し込んでいた。
「今日は、久しぶりに家族三人で、ゆっくり過ごそうか」
朝食の席で、ダリクがそう切り出した。イレアは少し驚いた顔をしたが、すぐに嬉しそうに微笑んだ。
「あら、珍しい。仕事はいいの?」
「たまには、な。最近、色々と気を張り詰めてばかりだった。今日くらいは、何も考えずに過ごしたい」
ダリクの言葉に、イレアは深く頷いた。*この人も、ずっと気を張っていたのね。*イレアはそっとダリクの手に自分の手を重ねた。その手の温もりに、ダリクは少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
「セフィも、いいわよね?」
「うん! 一緒に何するの?」
セフィが目を輝かせて尋ねると、ダリクは笑いながら答えた。
「そうだな……久しぶりに、谷の下の泉まで、三人で行ってみようか」
「泉! 行きたい!」
セフィは椅子から飛び跳ねるようにして喜んだ。その様子に、ダリクとイレアは顔を見合わせて笑った。*こんな些細なことで、こんなにも喜んでくれる。*ダリクは、娘のその素直さを、改めて愛おしく思った。
*
谷の下にある小さな泉は、里から少し離れた場所にあった。普段は水汲みのために大人が訪れるくらいで、家族で遊びに行くような場所ではなかったが、この日ばかりは特別だった。
道中、セフィはダリクとイレアの手を両方とも握り、飛び跳ねるようにして歩いた。谷を渡る風は柔らかく、木々の緑が眩しいほどに輝いていた。*こんなに晴れやかな日は、久しぶりだ。*ダリクは空を見上げながら、そんなことを思っていた。
泉の水は驚くほど澄んでいて、日差しを受けてきらきらと輝いていた。セフィは裾をまくり上げ、水辺で小石を拾っては、水面に投げて遊んだ。
「見て見て、母さま! 三回跳ねた!」
「本当ね、上手だわ」
イレアは岩に腰掛け、娘の様子を微笑ましく見つめていた。その隣で、ダリクも珍しく肩の力を抜いた様子で、水面を眺めている。*こうして三人で過ごす時間が、こんなにも尊いものだったなんて。*ダリクは静かにそう思いながら、妻と娘の笑顔を、目に焼き付けるようにして眺めていた。
「父さまも、やってみて!」
セフィにせがまれ、ダリクは苦笑しながら小石を拾い、水面に向かって投げた。石は不格好に一回跳ねただけで沈んでしまう。
「あはは、父さま下手!」
「これは水切りの才能がないな」
ダリクが真顔でそう言うので、セフィとイレアは声を上げて笑った。その笑い声が、谷にこだましていく。
「母さまは、上手なの?」
「すごい! 母さま、すごい!」
セフィが目を輝かせて拍手すると、イレアは得意げに微笑んだ。
「アンブラシルにいた頃、よくやっていたの。負けないわよ、ダリク」
「これは一本取られたな」
ダリクは苦笑しながらも、妻の意外な一面を見られたことが、素直に嬉しかった。*まだ知らないことが、こんなにもあるんだな。*長年連れ添っても、こうして新しい一面を見せてくれる妻を、ダリクは改めて愛おしく思った。
セフィが再び水辺で夢中になって小石を集め始めると、ダリクとイレアは少し離れた岩陰に並んで腰掛けた。
「こうして二人だけで座るのも、久しぶりね」
イレアがそう言って、ダリクの肩に頭を預けた。
「ああ。所帯を持ってからは、なかなかこういう時間も取れないものだな」
「後悔してる?」
イレアが冗談めかして尋ねると、ダリクは真顔で首を振った。
「まさか。お前と、セフィと過ごす毎日は、俺の人生で一番の宝物だ」
その言葉に、イレアは頬を緩め、ダリクの手をそっと握った。
「大袈裟な人。でも、そう言ってもらえると、嬉しいものね」
二人はしばらく、無言のまま、水辺で遊ぶ娘の姿を見つめていた。セフィの弾けるような笑い声が、谷いっぱいに響いている。*この光景が、これからもずっと続いていきますように。*ダリクとイレア、二人の胸に、同じ願いが静かに宿っていた。
*
昼食は、イレアが用意してきた握り飯と干し肉を、泉のほとりで広げて食べた。何の変哲もない食事だったが、この日ばかりは、ひどく特別なものに感じられた。
「この干し肉、いつもより美味しい気がする」
セフィが頬張りながら言うと、イレアは笑った。
「気のせいよ。いつもと同じ作り方だもの」
「ううん、絶対美味しい。今日だから、かな」
セフィの無邪気な言葉に、ダリクとイレアは顔を見合わせて微笑んだ。*きっと、この子には、今日という日が、特別な一日として伝わっているんだろう。*ダリクはそう思いながら、握り飯を頬張る娘の様子を眺めていた。
「ねえ、父さま、母さま」
食事を終えたセフィが、ふと尋ねた。
「二人は、どうやって出会ったの?」
ダリクとイレアは顔を見合わせ、どちらからともなく笑った。
「それは、また今度、ゆっくり話してあげる」
イレアがそう言うと、セフィは少し不満げに口を尖らせたが、それ以上はせがまなかった。代わりに、母の膝に頭を預けて、青空を見上げた。
「今日、すごく楽しい」
セフィがぽつりと呟いた言葉に、ダリクとイレアは、また顔を見合わせて微笑んだ。*この子がこうして笑ってくれるなら、他に何も要らない。*二人の想いは、言葉にせずとも、その瞬間、確かに重なり合っていた。
しばらくの間、三人はただ黙って、流れる雲を眺めていた。イレアの膝の上で、セフィは次第にうとうととし始める。ダリクはそんな二人の様子を、少し離れた場所から静かに見守っていた。*この光景を、ずっと覚えていたい。*そんな思いが、ふと胸をよぎった。理由もなく、そう強く感じた自分に、ダリクは少しだけ戸惑いを覚えた。
*
夕暮れ時、三人は手を繋いで家路についた。ダリクとイレア、そしてその間でセフィが両手を繋がれ、時折足を浮かせては、二人にぶら下がるようにして笑っていた。
「せーの、で持ち上げて!」
「よし、いくぞ」
ダリクとイレアが息を合わせて手を引き上げると、セフィの体がふわりと宙に浮いた。楽しそうな笑い声が、夕暮れの谷いっぱいに響き渡る。
「もう一回! もう一回!」
セフィがせがむので、三人は何度もそれを繰り返した。ダリクの腕が少し疲れてきても、娘の笑顔を見ていると、疲れなど気にならなかった。イレアもまた、夫と娘のやり取りを見ながら、自然と頬が緩んでいくのを感じていた。
家に着く頃には、空はすっかり群青色に染まっていた。今日という一日が、これほどまでに満ち足りたものだったことに、ダリクもイレアも、そしてセフィ自身も、深い安らぎを覚えていた。
夕食の後片付けを終え、セフィを寝かしつける段になっても、その日の余韻はまだ家の中に残っていた。
「今日は、本当に楽しかったな」
ダリクが、セフィの布団を整えながら呟いた。
「ええ、久しぶりに、何も考えずに笑った気がするわ」
イレアがそう答え、二人は顔を見合わせて微笑んだ。
その夜、床につく前、セフィは布団の中でぽつりと呟いた。
「今日みたいな日が、ずっと続けばいいのに」
その言葉を、隣で娘を見守っていたイレアは、静かに、けれど深く胸に刻み込んだ。*ええ、本当に。ずっと、こんな日々が続きますように。*
ダリクもまた、娘のその言葉に、胸の奥が締めつけられるような感覚を覚えた。*なぜだろう、今日という日が、やけに眩しく、そしてどこか儚く感じられるのは。*理由の分からない感傷を振り払うように、ダリクは娘の額にそっと口づけ、それからイレアの肩をそっと抱き寄せた。
その願いが、どれほど儚いものだったか――この夜のイレアには、まだ知る由もなかった。




