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まだ、続いていく  作者: たべられて候
序章
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序章 第十二章「強まる予兆」

翌朝、セフィは息苦しさで目を覚ました。


空気が、いつもと違う。重く、湿っていて、まるで嵐の前のような、肌にまとわりつく気配があった。窓の外を見ると、空は分厚い雲に覆われ、朝だというのに薄暗い。昨日の晴れ渡った青空が、まるで嘘だったかのようだった。


「父さま、母さま、なんか空が変」


セフィが不安げに言うと、既に起きていたダリクが、険しい顔で窓の外を見ていた。


「ああ……俺も、朝からずっと妙な胸騒ぎがしている」


普段なら軽く受け流すはずの言葉に、今日はダリクも同調した。それが、セフィの不安をさらに強くした。*父さまも、感じてるんだ。*昨日のあの穏やかな一日が、まるで遠い夢だったかのように思えてくる。


イレアが二人の様子を見て、静かに近づいてきた。その顔は、いつもより青白く見えた。


「わたしも、朝からずっと、肌がざわざわしているの」


三人は顔を見合わせ、それ以上は言葉を交わさなかった。けれど、それぞれの胸の内には、同じ予感が、静かに、しかし確かに広がりつつあった。


朝食も、いつもよりずっと静かなものになった。誰も、多くを語ろうとしなかった。ただ、時折視線を交わし、無言のうちに互いの不安を確かめ合うだけだった。


*


朝食のあと、セフィは家の裏手に出てみた。空気は相変わらず重苦しく、遠くの山脈の稜線が、いつもより黒々と、そして近く感じられた。


犬のロクは、昨日とは比べ物にならないほど怯えた様子で、小屋の奥に潜り込んだまま出てこようとしなかった。鶏たちは、朝だというのに鳴き声一つ上げず、じっと身を寄せ合っている。山羊たちも柵の隅に固まり、時折体を震わせていた。


里全体を見渡しても、同じような光景が広がっていた。誰もが、言葉少なに空を見上げ、そわそわと落ち着かない様子で家の周りを行き来している。井戸端に集まっていた女たちも、今日は洗濯の手を止めて、ただ黙って空を見上げていた。


「なんだか、みんな怖がってる」


セフィが呟くと、隣に立っていたダリクが、娘の肩に手を置いた。


「大丈夫だ。何があっても、父さまと母さまが、お前を守る」


その言葉に、セフィは頷いた。けれど胸の奥のざわめきは、少しも収まらなかった。ふと視線を巡らせると、里の家々の窓から、住民たちが同じように不安げな顔で外を窺っているのが見えた。誰もが、同じ重苦しい予感に、息を潜めているようだった。


トビの家の方角を見やると、トビもまた、家の前で不安げに空を見上げているのが遠目に見えた。目が合うことはなかったが、その様子だけで、彼もまた同じ胸騒ぎを抱えているのだと、セフィには分かった。*トビも、怖いんだ。*そう思うと、少しだけ、自分だけではないという安堵が、胸の奥に芽生えた。


*


昼過ぎ、駐留していた兵士たちの間にも、明らかな動揺が広がり始めた。役人が険しい顔で何かを兵士たちに指示し、数名がすぐさま馬に乗って、谷の外へと駆けていくのが見えた。慌ただしく天幕を片付け始める兵士たちの姿もあり、里の空気はさらに張り詰めていった。


「何かあったのかしら」


イレアが不安げに呟いた。ダリクは兵士たちの様子を注視しながら、低い声で答えた。


「分からない。だが、あれは……何かを本部に報告しに行った動きだ」


その言葉が意味するものを、二人とも、あえて口には出さなかった。


セフィは、里の墓地の方角をちらりと見た。あの日以来、近づく勇気が出なかった場所だったが、遠目にも分かるほど、そこには無数の人影が揺れ動いているのが見えた。今日は、それが墓地だけに留まらず、里の至るところに広がっているようだった。家の軒先、井戸の脇、道端の木の陰――至るところに、輪郭の薄い人影が佇み、皆一様に、あの山脈の方角を見つめている。


「セフィ、家に入りましょう」


イレアが、娘の手を引いた。セフィは頷きながらも、視線だけは、揺れ動く死者たちの姿から離せずにいた。彼らは皆、一様に、あの山脈の方角を見つめていた。まるで、何かの到来を、共に待ち構えているかのように。


家の中に戻ると、ダリクは静かに戸締りを確認していた。普段はしないような行動に、セフィは余計に不安を掻き立てられた。


「父さま、何をしてるの」


「念のためだ。心配することはない」


ダリクの声は努めて穏やかだったが、その手の動きは、いつもより速く、そして硬かった。


*


夕方、雲はさらに厚みを増し、里全体が薄暗い影に包まれていった。風は不気味なほど凪いでおり、木々の葉一枚さえ動かない、奇妙な静けさが辺りを支配していた。


その静けさの中、イレアは黙々と夕食の支度を進めていた。竈の火を熾しながら、ふと手を止め、窓の外を見やる。*こんな空気は、初めてだわ。*長年この里で暮らしてきたイレアにも、今日のこの重苦しさは、経験したことのないものだった。


ダリクは、家の中の荷物を、それとなく確認して回っていた。非常時に持ち出せるものを、頭の中で整理する。学者だった頃に培った冷静な思考が、こんな形で役立つとは、皮肉なものだと自嘲気味に思いながらも、その手は止まらなかった。


「父さま、それ何してるの」


セフィが不思議そうに尋ねると、ダリクは笑顔を作った。


「ちょっとした片付けだよ。心配いらない」


その笑顔が、いつもより少しだけぎこちないことに、セフィは気づいていた。けれど、それを指摘するのは、なんとなく躊躇われた。


家の中で、家族三人は身を寄せ合うようにして座っていた。


「今夜は、皆で一緒の部屋で眠ろう」


ダリクがそう提案すると、イレアもセフィも、迷わず頷いた。三人分の布団を一つの部屋に並べ、川の字になって横になる。ランプの灯りを一つだけ残し、家の中は静かな闇に包まれていった。


「父さま、母さま」


セフィが、暗闇の中で小さく呼びかけた。


「なあに」


「なんか、こわい」


その一言に、ダリクとイレアは、それぞれセフィの手を握った。


「大丈夫。何があっても、俺たちは一緒だ」


「そうよ。何も心配いらないわ」


二人の声に、セフィは少しだけ安堵し、目を閉じた。けれど、瞼の裏には、山脈を見つめ続ける無数の死者たちの姿が、いつまでも焼き付いて離れなかった。


「ねえ、父さま」


「なんだ」


「明日は、いつも通りの朝になる?」


セフィの問いに、ダリクは一瞬言葉に詰まった。けれどすぐに、努めて優しい声で答えた。


「ああ、きっとなる。だから、安心して眠りなさい」


その言葉が、どこまで本当なのか、ダリク自身にも分からなかった。それでも、娘を安心させるためだけに、彼はその言葉を、確信を持って口にした。


外では、いつの間にか、地の底から響くような、低い唸りが聞こえ始めていた。それは風の音でも、獣の声でもない、この世のものではない何かの気配だった。


ダリクとイレアは、その音に気づき、暗闇の中で静かに視線を交わした。二人の間に、言葉にならない覚悟のようなものが、静かに満ちていった。


イレアはセフィの手をより強く握りしめながら、心の中で静かに祈った。*どうか、この子だけは。この子だけは、何があっても。*その祈りが、誰に向けられたものなのか、イレア自身にも分からなかった。ただ、その一心だけが、今の彼女を支えていた。


ダリクもまた、暗闇の中で、妻と娘の寝息に耳を澄ませながら、静かに目を開けたまま、夜が明けるのを待ち続けていた。


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