序章 第十三章「ターニングポイント」
夜明け前。
地面が、揺れた。
最初は、微かに。まるで大きな獣が、地の底で寝返りを打ったような、鈍い振動。
「――っ!」
ダリクが飛び起きた。イレアも、ほぼ同時に目を覚ます。
「セフィ、起きろ!」
ダリクの声が、いつもと違う。鋭く、切迫していた。セフィは寝ぼけた頭のまま、体を起こされる。
窓の外が、赤い。
夜明け前の空が、燃えるような朱色に染まっている。いや――違う。あれは、朝日じゃない。
山脈の稜線から、光が、噴き上がっていた。
「来た」
ダリクが低く呟いた。学者だった頃の記憶が、一瞬で繋がる。古い記録に、確かに、こう書かれていた。空が裂け、大地が沈む――あの子守唄と、同じ言葉。
「イレア、セフィを連れて、谷の下へ! 早く!」
「あなたは!?」
「里の者たちに知らせる! すぐ追う、先に行け!」
有無を言わせぬ声だった。イレアはセフィの手を掴み、走り出す。
*
外は、もう戦場だった。
悲鳴。怒号。逃げ惑う人々。空は真っ赤に染まり、山脈の方角から、巨大な光の柱が、幾つも天へと突き上がっている。
地面が、また揺れた。今度は、さっきよりずっと強い。
「きゃあっ!」
近くの家の屋根が、崩れ落ちる。土煙が、視界を塞ぐ。
「セフィ、しっかり掴まって!」
イレアの声も、震えていた。それでも、娘の手を離さない。二人は、逃げ惑う人々の波に押されながら、谷の下り坂を目指した。
死者たちの姿が、いつもと違う。輪郭がぼやけ、悲鳴のような何かを発しながら、あちこちを彷徨っている。まるで、彼らもまた、何かに追われているかのように。
「母さま、みんな、逃げてる……!」
「大丈夫、大丈夫だから!」
そう言うイレアの声が、本当に大丈夫だとは、微塵も思えなかった。
*
坂を半分ほど下ったところで、それは起きた。
背後で、途方もない轟音。振り返る間もなく、爆風のようなものが、セフィとイレアを吹き飛ばした。
「――!」
声にならない悲鳴。セフィの体が、宙に浮く。
何かに、強く体を打ちつけられた。痛みを感じる暇もなかった。
視界が、暗転する。
*
――どれくらい、時間が経っただろう。
セフィが目を開けたとき、周りは、瓦礫と土埃に覆われていた。
耳鳴りがする。体中が痛い。それでも、セフィは必死に体を起こした。
「母さま……?」
声を出す。返事はない。
「母さま! 母さまっ!」
叫んでも、叫んでも、赤く濁った空の下、応える声はどこにもなかった。
里があった場所には、もう、何もなかった。
家々は崩れ、木々はなぎ倒され、地面のあちこちに、深い亀裂が走っている。空はまだ赤く、遠くで何かが崩れ落ちる音が、途切れ途切れに響いていた。
セフィは瓦礫の中に、母の姿を探した。何度も、何度も、名前を呼びながら。
けれど、見つからない。
父の姿も。
トビの姿も。
どこにも、見当たらなかった。
一人。
気づけば、セフィはたった一人で、変わり果てた谷の中に、立ち尽くしていた。
赤い空の下、無数の死者たちが、声もなく、セフィの周りに集まり始めていた。




