序章 第十四章「瓦礫の中で」
赤い空は、いつの間にか、鈍い灰色に変わっていた。
立ち込める土埃の向こうに、セフィが知っていたセローズの姿は、もうどこにもなかった。
家々があった場所には、瓦礫の山だけが続いている。木の柱が、折れた骨のように突き出し、崩れた土壁の破片が、あたり一面に散らばっていた。井戸のあった広場も、地面ごと大きく陥没し、縁だけが辛うじて残っている。
谷を見渡しても、無事な建物は一つも見当たらなかった。里の入り口から、家々の連なりから、そして山の斜面にあったはずのあの倒木さえも――何もかもが、押し潰され、なぎ倒され、原形をとどめていなかった。空気には、土埃と、焦げた木の匂いと、それ以外の何か――嗅いだことのない、鉄と土の混じったような匂いが、重く立ち込めていた。
*これが、全部……*
セフィの頭は、まだうまく現実を受け止められずにいた。ほんの数刻前まで、そこにあったはずの日常。竈の煙、鶏の声、井戸端の笑い声。それらすべてが、今は瓦礫と静寂の下に、押し潰されている。
裸足の足の裏に、割れた木片や、鋭い石の破片が食い込んだ。痛みを感じているはずなのに、その感覚さえ、どこか遠くのことのように思えた。
耳鳴りが、まだ止まらない。遠くで、何かが崩れ落ちる音、瓦礫がずり落ちる音が、途切れ途切れに響いてくる。空気の中に漂う塵が、朝の弱い光を遮り、視界全体を薄灰色に染めていた。まるで、世界そのものが、色を失ってしまったかのようだった。
*
「……たすけ……」
かすかな声が、どこかから聞こえた。セフィは弾かれたように、そちらへ駆け寄った。
崩れた壁の下、老人が一人、下半身を瓦礫に埋もれさせたまま、荒い息をしていた。里の長老だった。あの、いつもセフィを遠巻きに見ていた女だ。
「今、今、助けを――」
セフィは瓦礫を退けようとしたが、幼い体では、大きな石一つ動かすことすらできなかった。
「いい……もう、いい……」
老女はかすれた声でそう言うと、それきり動かなくなった。
セフィは、その手を握ったまま、しばらく声も出せずにいた。
*
歩を進めるたびに、似たような声が、あちこちから聞こえてきた。
呻き声。助けを求める掠れた声。名前を呼び合う、途切れがちな叫び。けれどその声は、セフィが近づく前に、あるいは近づいた直後に、次々と静かになっていった。
「だれか……だれか、いないか……」
崩れた家の下から響く男の声。セフィが駆け寄ったときには、その声はもう、譫言のように意味を失いかけていた。
「子どもが……うちの子が、まだ下に……」
瓦礫の隙間から手だけを伸ばした女が、虚ろな目でそう繰り返していた。セフィがその手を握っても、女の視線は、どこか遠く、セフィのいない場所を見つめたままだった。
動いているものの方が、少なかった。
里にいたはずの人々の多くが、瓦礫の下敷きになったまま、あるいはその近くで、すでに動かなくなっていた。子どもも、大人も、老人も。誰が、とか、どの家族が、とか、そういう区別すら、もう瓦礫の下では意味をなさなかった。井戸端でいつも笑っていたミラの姿も、崩れた家の前で、静かに横たわっていた。声をかけても、答えは返ってこなかった。
セフィは、何度も名前を呼んだ。
「トビ……! トビ、どこ!」
答えはなかった。トビの家があった場所も、他のどの家と同じように、跡形もなく潰れていた。木彫りの鳥を握りしめた手が、震えていた。*まだ、生きてる。きっと、どこかで生きてる。*そう思おうとする自分と、それを許さない現実の重さが、胸の中でせめぎ合っていた。
*
谷の下り坂――イレアと共に走っていたはずの道は、大きく抉れて、深い亀裂となっていた。セフィは、その縁に沿うようにして、瓦礫をかき分けながら進んだ。
そして、見つけた。
道の端、崩れた岩の隙間に、母の姿があった。
「母さま!」
セフィは駆け寄り、母の体を揺すった。
「母さま、起きて。ねえ、起きてよ」
返事はない。
「母さま……母さま、目を開けて。セフィ、ここにいるよ」
セフィは母の頬に触れた。冷たかった。いつも竈の前で温かかった手も、いつも自分を抱きしめてくれた腕も、今はもう、何の温もりも返してくれない。
「うそ……うそだよね。母さま、いつも朝になったら起こしてくれるじゃない。ねえ、起きて。もう朝だよ。おきて、母さま」
セフィは母の体を、何度も何度も揺すり続けた。声が、次第に悲鳴に近くなっていく。
「いやだ、いやだよ、母さま! 目を開けて! お願い、お願いだから!」
イレアの瞳は、静かに閉じられたままだった。あの、優しい金色の瞳が、二度と開くことはない。それを、セフィの幼い心は、まだどうしても受け入れられなかった。
セフィは母の体にすがりつき、その胸に顔を埋めた。いつも嗅いでいた、あの石鹸の匂いが、まだ微かに残っていた。それが、かえってセフィの心を、粉々に引き裂いた。
「母さま……母さま……」
声が、掠れていく。涙が、後から後から溢れて、止まらなかった。セフィは母の冷たい体を抱きしめたまま、いつまでも、いつまでも、そこから動くことができなかった。
*どうして。どうして母さまが。どうしてわたしじゃなくて。*
答えの出ない問いだけが、頭の中で、ぐるぐると回り続けていた。
*
父の姿は、そこからさらに少し離れた場所で見つかった。崩れた木の梁の下、まるで何かを――あるいは誰かを――庇うような姿勢のまま、動かなくなっていた。
「父さま」
セフィの声は、もう掠れて、ほとんど声になっていなかった。それでも、這うようにして父に近づき、その体に触れた。
冷たかった。母と、同じだった。
「父さま、木彫り、教えてくれたよね。上手だって、褒めてくれたよね」
セフィは、震える手で、父の頬に触れた。木工仕事で節くれ立った、あの優しい手は、もう二度と、セフィの頭を撫でてくれることはない。
「ねえ、父さま。約束したよね、明日もいつも通りの朝になるって。うそだったの? うそだったの、父さま……!」
答えは、返ってこなかった。
セフィは、父と母、二つの冷たい体の間に座り込んだ。もう、立ち上がる力も残っていなかった。
*みんな、いなくなった。父さまも、母さまも、トビも。みんな、いなくなった。*
その事実が、じわじわと、幼い体の芯まで染み込んでくる。昨日まで確かにあった、当たり前の温もりが、もう二度と戻らないのだという事実が、容赦なくセフィに覆い被さってきた。
もう、涙も出なかった。ただ、赤黒く濁った空を見上げ、何も考えられないまま、そこに座り続けていた。喉の奥から、声にならない嗚咽だけが、途切れ途切れに漏れ続けていた。
体の震えが、止まらない。寒いのか、怖いのか、悲しいのか――もう、自分でもよく分からなかった。ただ、両親の間に挟まれるようにして座り込んだまま、セフィはその場所から、指一本動かすことができずにいた。
*
後になって知ることになるが、この日、セローズの里で生き延びた者は、片手で数えられるほどしかいなかった。谷全体を覆い尽くしたあの崩壊の中で、これほど無事な体で生き残れたことの方が、本来ならあり得ないことだった。
セフィが助かったのは、母が最後の力を振り絞って、我が身を挺して娘を庇ったからだと、後にそう知ることになる。爆風に吹き飛ばされた瞬間、イレアはとっさに自分の体で娘を包み込み、崩れ落ちる岩の直撃から守っていたのだった。母の背には、娘を庇ったことで受けたであろう傷が、幾つも残されていた。
その事実を知ったとき、セフィの中で、何かが決定的に壊れる音がした。*母さまが、わたしを守って死んだ。*その一点だけが、これから先、セフィの心に、消えることのない傷として刻まれ続けることになる。
今のセフィには、ただ、目の前の現実だけが、重くのしかかっていた。何がどうなって、なぜこんなことになったのか、幼い頭では、まだ何も理解できていなかった。ただ、両親がもう二度と目を開けないという、その一点だけが、痛いほどに、確かなことだった。
赤黒い空の下、無数の死者たちの気配が、いつの間にか、セフィを取り囲むようにして集まっていた。彼らは皆、一様に、悲しげな、あるいは何かを訴えるような目で、セフィを見つめていた。まるで、これから起こることを、既に知っているかのように。
その中に、見覚えのある輪郭が、ゆっくりと近づいてくる。
継ぎの当たった外套。あの、老人だった。




