序章 第十五章「一人残されて」
老人が、ゆっくりと近づいてくる。継ぎの当たった外套。輪郭の薄い体。けれど、今日はもう、その姿を怖いとは思わなかった。
「……おじいさん」
セフィが呟くと、老人は悲しげに目を細めた。
「まにあわ……なかった」
その声は、以前よりずっとはっきりと届いた。まるで、伝えるべきことを、もう隠す必要がなくなったかのように。
「あなたも、こうやって、みんなを、いなくした?」
セフィが尋ねると、老人はゆっくりと頷いた。
「わたしも……むかし、おなじことが、あった。あのときも、わたしは、まにあわなかった」
「同じこと、また起きるの?」
「わからない……でも、わたしは、もう、いい」
老人はそう言って、ふっと肩の力を抜いたように見えた。長い間、何かに縛られ続けていた者だけが持つ、独特の重さが、その体からゆっくりと抜けていくようだった。
「ずっと、ここにいたの?」
「ずっと……ずっと、だれかに、つたえたかった。でも、だれも、きいてくれなかった。あなただけが、きいてくれた」
その言葉に、セフィは何も返せなかった。ただ、老人の悲しげな、けれどどこか安堵したような表情を、じっと見つめていた。
老人の輪郭が、少しずつ、淡い光に溶けていく。
「あなたは、生きて。わたしの、ぶんも」
最後にそれだけを言い残し、老人の姿は、朝の薄明かりの中に、静かに消えていった。今度こそ、二度と戻ってはこない消え方だった。長い間、彼を縛り続けていた何かが、ようやく解けたのだと、セフィには何となく分かった。
*
一人になったセフィは、瓦礫の中に、ぽつんと座り込んだままだった。もう、立ち上がる力も、涙を流す力も残っていなかった。
「――セフィ?」
不意に、声がした。
顔を上げたセフィは、思わず息を呑んだ。
「リアナ、お姉ちゃん……!」
そこに立っていたのは、見知らぬ誰かではなかった。里に住んでいた、あの家の娘だ。セフィより五つほど年上で、井戸端や広場で、何度も顔を合わせたことがある。話したことは数えるほどしかなかったけれど、里の中では珍しく、セフィに冷たい目を向けない人だった。
リアナは、瓦礫の中を彷徨うようにして歩いていたところだったらしい。セフィの姿を見つけると、駆け寄ってきて、その場に膝をついた。
「リアナお姉ちゃん、生きてたんだ……! よかった……!」
セフィは安堵のあまり、声を震わせた。この惨状の中で、知っている顔に会えたことが、何よりも心強かった。
「あなたも、無事だったのね」
リアナの声も、微かに震えていた。その目には、うっすらと涙の膜が張っている。
「一人なの?」
セフィが、こくりと頷いた。それだけで、また涙腺が緩みそうになる。
「わたしも、一人よ」
リアナはそう言って、俯いた。
「お父さんも、お母さんも……見つけたけど、もう、駄目だった」
その声には、深い悲しみが滲んでいた。セフィは、何も言えなかった。ただ、リアナの手を握り返すことしかできなかった。
「セフィのご両親は?」
「見つけた……でも、二人とも、もう……」
それ以上、言葉にならなかった。リアナはセフィを、そっと抱き寄せた。
「大丈夫。わたしが、そばにいるから」
その腕の中は、不思議と温かかった。母の腕とは違う、けれど確かに優しい温もりが、セフィを包み込んだ。堰を切ったように、セフィの目から、また涙が溢れ出した。
「うわあああああ……!」
声を上げて泣きじゃくるセフィの背中を、リアナはただ静かに撫で続けた。互いに一人だった二人が、こうして寄り添えることに、どちらも縋るような安堵を覚えていた。
*
どれくらい、そうしていただろう。泣き疲れたセフィが、ようやく顔を上げたとき、リアナは変わらず、優しい目でこちらを見つめていた。その目元には、まだ涙の跡が残っていた。
「リアナお姉ちゃんも、あの崩れごとに、巻き込まれたんだよね」
セフィが尋ねると、リアナは頷いた。
「ええ。大きな光がして、地面が揺れて……それから、無我夢中で、色々な場所を走り回っていた気がする」
「怪我、してない?」
セフィが心配そうに尋ねると、リアナは自分の両手や、着ているものを見下ろした。
「そういえば……どこも、怪我してないみたい。服も、汚れてないし……変ね」
リアナは戸惑ったように、小さく首を傾げた。
「あんなことがあったのに、おかしいわよね」
「リアナお姉ちゃん、大丈夫?」
「ええ、大丈夫。多分、色々ありすぎて、頭がまだ、ちゃんと働いてないだけ。こういう時って、そういうものなんじゃないかしら」
リアナはそう言って、無理に微笑んでみせた。あまりの衝撃に、細かいことまで気が回らないのだと、自分でもそう納得しているようだった。
「まあ、いいわ。深く考えても仕方ないもの。今は、あなたのことの方が大事」
そう言われて、セフィは素直に頷いた。知っているお姉ちゃんが無事で、そばにいてくれる――それだけで、今は十分だった。
「リアナお姉ちゃんは、なんで、わたしのこと、助けてくれるの?」
セフィが尋ねると、リアナは少し考えてから答えた。
「さあ、どうしてかしら。でも、あなたを見た瞬間、放っておけないって、そう思ったの。理由なんて、それだけじゃ、足りない?」
「ううん。足りる」
セフィは、素直にそう答えた。理由なんて、今のセフィには、どうでもよかった。ただ、隣に誰かがいてくれる、その事実だけが、何よりも大切だった。
「これから、どうする、セフィ」
「分かんない……もう、帰る場所もないし」
「なら、一緒に行きましょう。どこへ行くにしても、わたしがついていくから」
「本当に、ずっと一緒にいてくれる?」
セフィが縋るように尋ねると、リアナは迷わず頷いた。
「ええ、約束する。あなたが一人前に生きていけるようになるまで、ずっとそばにいるわ」
その言葉に、セフィは小さく頷いた。一人ではとても抱えきれなかったはずの絶望が、リアナという存在によって、ほんの少しだけ、軽くなった気がした。
*
瓦礫の中に立ち上がり、セフィはリアナの手を握った。冷たいはずのその手は、なぜか、いつも柔らかく、温かく感じられた。
「セフィ、少しだけ待って」
歩き出す前に、リアナがそう言って、セフィを引き止めた。
「なに?」
「ご両親に、ちゃんとお別れを言った?」
その言葉に、セフィははっとした。泣きじゃくるばかりで、きちんと言葉を交わせていなかったことに、今更ながら気づく。
セフィは両親の亡骸のそばに戻り、しばらくの間、黙って手を合わせた。リアナは、少し離れた場所で、静かにそれを見守っていた。
「父さま、母さま……行ってきます。リアナお姉ちゃんと、一緒に」
小さな声でそう言うと、セフィは深く頭を下げた。もう応えてくれることのない両親に向かって、それでも、伝えずにはいられなかった。
「ありがとう、セフィ。それでいいの」
戻ってきたセフィの頭を、リアナは優しく撫でた。
「これから、どこへ向かうか、決めてる?」
「ううん、何も」
「なら、まずは、人がいそうな場所を目指しましょう。この谷の外に出れば、他の里や、街があるはずよ」
「リアナお姉ちゃん、外のこと、知ってるの?」
セフィが尋ねると、リアナは少し考えるように首を傾げた。
「なんとなく、だけど。地理とか、道のこととか、なぜか分かる気がするの。不思議よね」
その「なんとなく」という曖昧さに、セフィは気づかなかった。ただ、頼れる誰かがいるという事実だけで、胸の中の恐怖が、少しずつ和らいでいくのを感じていた。
「よし、じゃあ、行きましょう。あっちの方角に、確か、下り坂が続いていたはずだから」
リアナはそう言って、迷いのない足取りで歩き出した。セフィは、その手をしっかりと握り、後に続いた。
*
赤黒かった空は、いつしか、力のない朝の光に変わりつつあった。二人は手を取り合い、変わり果てた谷を後にして、歩き出した。
振り返ると、セローズだった場所は、瓦礫と朝靄に包まれ、もう二度と、あの頃の姿を取り戻すことはないのだと、はっきりと分かった。
「大丈夫よ、セフィ。どんなに辛くても、わたしがついているから」
リアナの声が、静かに、けれど確かに、セフィの背中を押してくれた。
六歳の少女が、たった一人で、この先を生き抜けるはずがなかった。けれど、隣にリアナがいてくれたから、セフィはこの日から、歩き続けることができたのだった。
まだ何も知らない二人の旅路が、ここから始まろうとしていた。




