第一部 第一章「旅立ち」
谷を下る道は、思っていたよりもずっと険しかった。
六歳のセフィの足では、大人なら苦もなく越えられるような岩の段差にも、いちいち手をついて乗り越えなければならない。リアナが時折、その小さな体を抱え上げるようにして助けてくれなければ、とてもではないが進めなかっただろう。
朝靄がまだ残る谷間を、二人は無言のまま歩き続けた。振り返れば、まだ瓦礫と煙が薄く漂うセローズの跡が見える。セフィは一度だけ振り返り、それからもう二度と振り返らないと、自分自身に言い聞かせた。
「大丈夫? 疲れたら、言ってね」
リアナが振り返り、そう声をかけてくる。セフィは首を横に振ったが、実のところ、足はもうずいぶん重くなっていた。ふくらはぎの奥が、じんじんと痛む。
「平気。まだ、歩ける」
強がるセフィに、リアナは小さく笑って、それ以上は何も言わなかった。ただ、歩く速さを少しだけ緩めてくれた。
道は、獣道のように細く、時折藪をかき分けなければ進めない場所もあった。リアナは器用に枝を折って道を作り、セフィが歩きやすいように気を配ってくれた。
「この道で、合ってるの?」
セフィが尋ねると、リアナは少し考えるように空を見上げた。
「多分。太陽の位置からして、南に向かっているはずだから」
「リアナお姉ちゃん、物知りだね」
「そうかしら。自分でも、なんでこんなこと知ってるのか、不思議なくらいよ」
リアナは苦笑しながらそう言ったが、セフィはその言葉の裏にある違和感には、まだ気づいていなかった。
途中、細い川に行く手を阻まれた。飛び石が並んではいるものの、間隔が六歳のセフィには広すぎる。
「渡れる?」
リアナが心配そうに尋ねると、セフィは石を睨みつけながら、頷いた。
「やってみる」
一歩目は上手くいった。けれど二歩目で足が滑り、セフィは小さな悲鳴を上げてバランスを崩した。
「危ない!」
リアナがとっさに手を伸ばし、セフィの腕を掴んだ。おかげで、片足を水に浸けただけで済んだ。
「ありがとう、リアナお姉ちゃん」
「もう、無茶しないで。ゆっくりでいいのよ」
そう言いながらリアナはセフィを抱き上げ、残りの飛び石を、危なげない足取りで渡りきってしまった。セフィはその腕の中で、少し悔しそうに唇を尖らせた。
「セフィ、一人でも渡れたのに」
「そうね、次はきっと、一人で渡れるわ」
リアナはそう言って、笑いながらセフィを地面に降ろした。濡れた片足が冷たかったが、それすらも、今はどこか可笑しく感じられた。
*
昼近くになって、二人は大きな岩の陰で一度足を止めた。リアナは背負っていた布包みを開き、中身を確かめる。焼け跡から拾い集めてきた、干し肉のかけらと、硬くなったパン、それに少しばかりの干し果実。
「これだけ、か」
リアナは布の中身を見つめ、小さく息をついた。
「足りない?」
セフィが不安そうに尋ねると、リアナは慌てて笑顔を作った。
「大丈夫よ。工夫すれば、何とかなるわ」
けれど、その声には、隠しきれない不安が滲んでいた。ケルヴィンという村までは、大人の足で五日はかかると聞いたことがある。子どもの足では、十日はかかるだろう。この量の食料で、それだけの日数を持たせるのは、どう考えても厳しかった。
リアナは指を折りながら、日数を数え始めた。
「一日に、パンをひとかけらと、干し肉を少し。それでも、五日分がやっとね」
「じゃあ、その後は?」
「その後は……何か、見つけないと」
リアナは布包みを結び直しながら、なるべく明るい声を作った。
「道すがら、何か採れるものを探しましょう。木の実とか、川の魚とか」
リアナがそう言うと、セフィはこくりと頷いた。
「セフィ、頑張る」
「ええ、一緒にね」
二人は硬いパンを小さくちぎり、半分ずつ分け合って口に入れた。味気ないそれを噛みしめながら、セフィはふと、母の作る芋の粥の味を思い出しそうになって、慌てて頭を振った。今は、思い出している場合ではない。
パンを噛みながら、セフィはリアナの横顔をちらりと見た。あんなに小さく分けたのに、リアナの手の中のパンは、セフィのものより一回り小さかった。
「リアナお姉ちゃん、それだけでいいの?」
「わたしは、そんなにお腹が空かない質なの。気にしないで」
リアナはそう言って笑ったが、セフィにはそれが、自分に多く食べさせるための嘘のように思えた。何も言えないまま、セフィは残りのパンを、ゆっくりと口に運んだ。
*
再び歩き出してしばらく、リアナが不意に口を開いた。
「ねえ、セフィ。好きな食べ物は何?」
唐突な質問に、セフィは面食らったように瞬きをした。
「急に、なに?」
「なんとなく。あなたのこと、もっと知りたいなって」
セフィは少し考えてから、答えた。
「母さまの、芋の粥」
「あら、いいわね。わたしは、蜂蜜をかけたパンが好きだったわ」
「リアナお姉ちゃんは、甘いものが好きなの?」
「ええ、大好き。今度、蜂蜜を見つけたら、分けてあげる」
そんな他愛のない話をしているうちに、セフィは少しだけ、足の重さを忘れられる気がした。リアナも、それを分かっていて、あえてそういう話を続けてくれているのかもしれない。
「リアナお姉ちゃんの、好きな色は?」
「青。空の色が好きなの。セフィは?」
「セフィは……緑。森の色」
「いいわね、それも」
「リアナお姉ちゃんは、大きくなったら何になりたかったの?」
セフィがふと尋ねると、リアナは少し遠い目をした。
「そうね……薬草に詳しい人になりたかったかしら。里のみんなの病気や怪我を、治してあげられるような」
「リアナお姉ちゃんなら、なれるよ、きっと」
セフィが無邪気にそう言うと、リアナは一瞬、複雑な表情を浮かべた。けれどすぐに、いつもの優しい笑顔に戻った。
「ふふ、ありがとう。セフィは、大きくなったら何になりたい?」
「セフィは……分かんない。でも、誰かを助けられる人になりたい」
「素敵な夢ね」
たわいもない問答が、途切れることなく続いていく。時折、二人は黙り込んでしまう瞬間もあった。それはきっと、それぞれが思い出す、もう戻らない誰かの顔があったからだ。けれどそのたびに、どちらからともなく、また新しい話題を探して口を開いた。悲しみに沈み込んでしまわないように、互いが互いを、言葉で引き上げているようだった。
*
日が傾き始めた頃、二人は大きな木の根元に、その日の寝床を作った。落ち葉を集めて敷き、体を寄せ合うようにして横になる。
「今日は、よく歩いたわね」
リアナがそう言って、伸びをした。
「足、痛い」
セフィが正直にそう言うと、リアナは笑いながら、セフィの足をそっと揉んでくれた。
「これで、少しは楽になる?」
「うん……気持ちいい」
セフィは目を細めて、リアナの手の温かさを感じていた。空を見上げると、木々の隙間から、星がぽつぽつと瞬き始めている。
「星、きれいだね」
「ええ、本当に」
「セローズでも、こんな風に星が見えたね」
セフィがぽつりと言うと、リアナは一瞬、言葉に詰まったようだった。それから、静かに頷いた。
「そうね。同じ空が、続いているのね」
しばらくの沈黙のあと、リアナが優しい声で続けた。
「明日も、たくさん歩こうね」
「うん」
「おやすみ、セフィ」
「おやすみなさい、リアナお姉ちゃん」
木々の隙間から差し込む星明かりの下、セフィは疲れた体を休めながら、静かに目を閉じた。隣にあるリアナの温もりだけが、今のセフィにとって、確かな安心だった。
眠りに落ちる直前、セフィはふと、今日一日を思い返した。悲しいことも、辛いこともあったけれど、リアナと交わした他愛のない会話が、思いのほか、心を軽くしてくれていた。
明日からの道のりが、どれほど厳しいものになるか、まだこの時のセフィには、想像もつかなかった。それでも、隣に誰かがいてくれる限り、きっと歩き続けられる――そんな根拠のない確信だけが、幼い胸の中に、静かに灯っていた。




