第三部 第四章「罠」
翌日の昼過ぎ、三人は、狭い峡谷を通る近道を進んでいた。
両側に切り立った崖が迫る、細い道だった。上空には、狭く切り取られた空が、青く見えている。
「この道、思ったより、歩きやすいな」
キーラが、周囲を見渡しながら、そう呟いた。
「油断するな。歩きやすい道ほど、怪しいもんだぞ」
フィンが、そう茶化すように言うと、キーラは、むっとした顔をした。
「お前、さっきから、そればっかりだな」
「経験則だ。長く生きてると、こういう勘は、馬鹿にできないぞ」
フィンが、したり顔で、そう返した。
「はいはい」
キーラが、呆れたように、肩をすくめる。そんな二人のやり取りに、セフィは、思わず、くすりと笑った。
けれど、その笑いは、長くは続かなかった。
「なんだか、嫌な感じがする」
セフィが、ふと、足を止めた。
「感応で、何か感じるのか」
キーラが、すぐさま、警戒の色を浮かべた。
「うん……でも、はっきりしない。何かが、おかしい気がするだけ」
*
「引き返すか」
フィンが、慎重に尋ねた。
「でも、この道を通らないと、大きく迂回することになる。時間が、かかりすぎる」
キーラが、地図を確認しながら、そう指摘した。
「セフィ、もう少し、詳しく調べられるか」
フィンの求めに応じ、セフィは、目を閉じ、より深く、意識を集中させた。
*
「……いる。前方に、複数の気配。それに」
セフィの表情が、みるみる強張った。
「後ろにも、気配がある。挟まれてる」
「なんだと」
キーラが、思わず、振り返った。
「いつの間に……」
「くそ、罠か」
フィンが、舌打ちした。
*
「どうする、フィンさん」
セフィが、緊迫した声で尋ねた。
「このまま、進むしかない。後ろは、既に、退路を断たれてる可能性が高い」
フィンの判断に、キーラが、頷いた。
「前方の敵を、突破する。それが、一番、現実的な道だ」
「数は、どれくらい?」
「前方に、十人前後。後方は、まだ、はっきりしない」
セフィの報告に、フィンは、厳しい表情を浮かべた。
「厄介だな。この狭い道だと、こちらの動きも、制限される」
*
「――出てこい! 分かってるんだろう!」
前方から、聞き覚えのある声が響いた。指揮官らしき、鎧姿の男が、道の先に、姿を現した。その後ろには、弓を構えた兵士たちが、ずらりと並んでいる。
「随分と、待ち構えていたようだな」
フィンが、皮肉めいた口調で、そう返した。
「お前らの逃走経路は、大体、予測がついていた。この峡谷は、絶好の狩り場だ」
指揮官の言葉に、セフィは、背筋が凍る思いだった。
「なぜ、そこまで、正確に、予測できたんですか」
セフィが、思わず、疑問を口にした。
「決まってる。追われる側の心理を読めば、逃げる経路など、限られてくる。狭い道を嫌い、迂回を避けようとすれば、自然と、この峡谷に辿り着く」
指揮官が、得意げに、そう説明した。
「そんなことまで、計算してるなんて……」
セフィは、思わず、身震いした。相手が、単なる力任せの追跡者ではなく、緻密に計算された作戦を用いてくる、知略に長けた敵であることに、改めて、恐怖を覚えた。
「なるほど、な」
フィンが、静かに、頷いた。
「だが、読みが当たったことを、喜ぶのは、まだ早いぞ」
*
「セフィ、キーラ。よく聞け」
フィンが、低い声で、二人に指示を出した。
「俺が、前方の注意を引く。その隙に、お前らは、崖の側面を伝って、上に登れ」
「フィンさんは、どうするんですか」
セフィが、心配そうに尋ねると、フィンは、不敵に笑った。
「心配するな。これでも、何百年分の場数を踏んでる」
「でも……」
「セフィ、フィンを信じろ」
キーラが、そう促した。
「わたしたちが足を引っ張るより、フィンの指示に従った方が、確実だ」
*
「射て!」
指揮官の号令と共に、無数の矢が、一斉に、こちらへと放たれた。
「させるか」
フィンが、杖を掲げると、周囲の岩壁から、蔦のようなものが、瞬時に伸び上がり、矢の雨を、防ぎ止めた。
「な……なんだ、この力は!」
兵士たちが、動揺の声を上げた。
「今のうちだ、行け!」
フィンの合図に、セフィとキーラは、崖の側面に取り付いた。わずかな足場を頼りに、必死に、上へと登っていく。ざらついた岩肌が、指先に食い込み、時折、小石が、下へと転がり落ちていった。
*
「セフィ、手を貸せ」
キーラが、片手を差し伸べた。セフィは、その手を掴み、体を引き上げてもらった。
「ありがとう、キーラ」
「礼はいい、急ぐぞ」
途中、足場が崩れ、セフィの体が、大きく傾いた。
「危ない!」
キーラが、素早く、セフィの腕を掴んだ。
「大丈夫か」
「うん……ありがとう、助かった」
セフィは、心臓が跳ねる思いを味わいながらも、なんとか、体勢を立て直した。
下では、フィンが、単身で、迫る兵士たちを、次々と、蔦や、見えない力の壁で、翻弄していた。その姿は、まるで、荒れ狂う自然そのものを、体現しているかのようだった。木の根が、地面を這うように広がり、兵士たちの足を、次々と搦め捕っていく。
「フィンさん、大丈夫かな」
セフィが、崖を登りながら、思わず、下を振り返った。
「あいつなら、大丈夫だ。それより、前を見て、登ることに、集中しろ」
キーラの、厳しくも的確な指摘に、セフィは、慌てて、視線を、登る先へと戻した。
*
崖を登りきったところで、セフィとキーラは、ようやく、一息ついた。
「フィンさん、後から、追いついてくるかな」
セフィが、心配そうに、峡谷の底を見下ろした。
「心配するな。あいつは、簡単には、やられない」
キーラの言葉には、確かな信頼が込められていた。
「でも、一人で、あんなに多くの敵を相手に……」
セフィの声が、不安げに震えた。
「セフィ、フィンを、信じてやれ。あいつは、何百年も生きてきた。伊達に、長生きしてるわけじゃない」
キーラが、そう言って、セフィの肩に、そっと手を置いた。
「うん……そうだよね」
セフィは、大きく息を吸い込み、なんとか、気持ちを落ち着けようとした。
「わたしたちにできることは、ここで、フィンが登ってきやすいように、道を確保することだ」
キーラが、周囲を見回しながら、そう提案した。
「どうすればいい?」
「ロープを、下に垂らそう。荷物の中に、予備があったはずだ」
キーラは、手早く、荷物からロープを取り出し、崖の下へと、垂らし始めた。
「フィンさん、これで、登りやすくなるかな」
「ああ、少しは、楽になるはずだ」
*
けれど、峡谷の下からは、まだ、激しい戦闘の音が、途切れることなく、響き続けていた。剣戟の音、兵士たちの怒声、そして、時折響く、フィンの、余裕すら感じさせる笑い声。
「あいつ、余裕そうだな」
キーラが、耳を澄ませながら、そう呟いた。
「本当に、大丈夫そうだね」
セフィも、少しずつ、安堵の表情を見せ始めた。
この窮地を、三人揃って、無事に脱することができるのか――セフィの胸には、まだ、拭いきれない不安が、重くのしかかっていたが、それと同時に、仲間への確かな信頼も、静かに、育ち始めていた。




