第三部 第五章「突破」
崖の縁に垂らしたロープが、ぴんと張った。
セフィは両手でロープの根元を握りしめ、キーラは岩に足を突っ張って、体重を預けている。下から伝わってくる振動は、規則正しく、軽い。誰かが、ひょいひょいと壁を登ってくる音だった。
「来た」
キーラが短く言った。その直後、崖の縁から、緑がかった髪がぴょこんと跳ね上がり、続いて小さな手が岩棚を掴んだ。
「やあ、お待たせ。ロープ、助かったよ。蔓で登ってもよかったんだけど、あれは疲れるからね」
フィンは何事もなかったように縁を乗り越え、膝の土をぱんぱんと払った。木目の浮いた頬には、細かな擦り傷が三つ、四つ。外套の裾は、ところどころ裂けている。けれど本人の顔は、遠足から帰ってきた子どものように、晴れやかだった。
「フィンさん!」
セフィは思わず駆け寄って、フィンの腕を両手で掴んだ。怪我がないか、袖をまくって確かめる。小さな手が、必死に動き回った。
「大丈夫だって。ほら、かすり傷だけだよ。そんなに揺すらないで、目が回る」
「だって、あんなに大勢いたのに。笑い声まで聞こえて、わたし、心配で、心配で……」
「笑い声?」
フィンは首を傾げ、それから、悪戯っぽく片目を細めた。
「ああ、あれはね。敵の隊長がすっ転んだ時の声だよ。蔓で足首を引っ掛けてあげたら、見事に川へ飛び込んだんだ。あれは傑作だった。セフィにも見せたかったなあ」
その瞬間、キーラの眉が、ぴくりと動いた。
「……おい」
「ん?」
「お前、わたしたちが、どれだけ」
キーラは、腕を組んだまま、一歩、フィンに詰め寄った。銀灰色の髪が、風に揺れる。琥珀色の瞳が、じろりと、見下ろしている。
「どれだけ、心配したと思っているんだ。いいか、そもそも、一人で残ると言い出した時点で、お前は何も相談していない。相談というのは、まず状況を共有して、選択肢を並べて、それぞれの危険を比べてから決めるものだ。それを、お前は『先に行って』の一言で済ませた。しかも、その後だ。わたしが、崖の上で、どんな顔で下を覗いていたか、知らないだろう。セフィなど、ロープを握る手が白くなっていたんだぞ。それなのに、お前は、敵の隊長を転ばせて喜んでいた? 笑っていた? 命のやり取りの最中に、悪戯をする奴があるか! だいたい、お前は昔からそうだと言うが、昔の経験が何だ、今は、わたしたち二人が、お前の帰りを待っているんだ。待たされる側の気持ちを、少しは」
「キーラ、キーラ」
フィンが、両手を上げて、降参のかたちを作った。
「ごめん、ごめんよ。心配させたのは悪かった。うん、それは本当に悪かった」
「わかればいい。わかれば」
キーラは、ふいと横を向いた。けれど、耳の先だけが、ほんのり赤い。その様子を見て、セフィは、ほっとして、思わず小さく笑ってしまった。
「……セフィ、今、笑ったな」
「わ、笑ってないよ」
「笑った」
「笑って、ない、です」
セフィは両手で頬を押さえて、ぷいと顔を背けた。けれど肩が小刻みに震えていて、隠せていない。フィンが、くつくつと喉の奥で笑った。
「ほら、セフィの方がよっぽど正直だ。キーラ、君、顔が真っ赤だよ」
「赤くない!」
*
三人は、崖の上の岩場を、離れた。
眼下には、先ほどまでの峡谷が、細い傷跡のように走っている。底の川は、夕暮れの光を受けて、鈍い銅色に輝いていた。風は冷たく、乾いた土と、潰れた草の匂いがする。峡谷の向こうには、荒野の終わりを告げるように、低い丘陵が連なっていた。その丘の肩に、石を積んだ古い道が、一本だけ、細く這い上がっている。
「あの道を越えれば、山の麓に出られるはずだ」
キーラが、地図代わりの羊皮紙を広げて、指でなぞった。
「ただ、あの道は、峡谷を迂回できる唯一の道だ。軍の連中が、ここを押さえていないはずがない」
「いるね」
フィンが、あっさりと言った。
「え?」
「道の途中に、石の見張り台がある。昔、わたしも使ったことがあるんだ。あの台は、荒野を一望できて、道を挟み撃ちにするのに、ちょうどいい作りでね。軍人は、考えることが、昔から変わらない」
フィンは、肩をすくめた。
「その手の見張り台は、道が一番細くなるところに建てるものさ。経験上、間違いない」
セフィは、息を殺して、丘の上を見つめた。目を凝らすと、夕空を背に、小さな石組みの影が見える。その縁に、人の頭が、いくつか並んでいた。
「十……ううん、十二人くらい、いる」
「数えたのか?」
「うん。それと……」
セフィは、そっと左目を閉じ、右目を細めた。淡い金色の瞳が、風の流れの先を、探るように動く。
「あの台の下の、崩れた壁のところに、昔の兵隊さんが、立ってる。何人も。みんな、古い鎧で、同じ方を向いて、悲しそうに、見てるの」
キーラとフィンが、顔を見合わせた。
「何を見てる?」
「道の、脇の、岩の裂け目。人ひとり通れるくらいの、隙間……そこだけ、何度も何度も、見てるの。まるで『そこを通るな』って、言ってるみたい。でも、わたし、思うんだけど、逆かもしれない」
「逆?」
「うん。たぶん、昔の人は、そこから逃げようとして、間に合わなかったんだと思う。だから、あの裂け目が、通れるんだよって、教えてくれてるんじゃないかな」
フィンは、感心したように、口の端を持ち上げた。
「やるじゃないか、セフィ。感応が、随分と、鋭くなってきた。普通は、死者の視線の意味まで読み取るのに、何年もかかるものだよ」
「ほんと? えへへ」
セフィは、頬をふにゃりと緩めた。両の拳を胸の前で握って、小さく跳ねている。キーラが、横目でそれを見て、咳払いをした。
「……よし。その裂け目を使おう。ただし、見張り台の十二人を、どうにかしなければならない」
*
作戦は、単純だった。
日が落ちきる直前の、空が藍色に変わる時間を狙う。フィンが丘の斜面に蔓を這わせて、見張り台の手前に、陽動を仕掛ける。その隙に、キーラとセフィが、岩の裂け目へ滑り込む。
「いいか、セフィ。気配を消す技を使え。わたしの背中だけを見て、足音は殺せ。呼吸は、三歩に一度、静かに」
「うん。気配を、風に、溶かす感じ、だよね」
「そうだ。一昨日の岩場でできたことが、今夜もできるはずだ」
セフィは、胸に手を当てて、深く息を吸った。体の輪郭が、夜気に溶けていく。キーラが、満足げに頷いた。
その時だった。
丘の斜面に、白い光が走った。見張り台の兵が、松明に火を灯したのだ。
「しまった。向こうが先に動いたか」
フィンが、顔をしかめた。
「構わない。予定を前倒しにする。キーラ、セフィ、走って!」
フィンの杖が、地面を打った。
乾いた荒野の土が、ざわりと波打った。次の瞬間、斜面一面から、緑の蔓が、噴き上がるように伸び上がった。蔓は兵士たちの足元へ絡みつき、見張り台の石組みを、ぎしぎしと締め上げる。
「うわっ、なんだ、これは!」
「足が、動かん! 蔓だ、蔓が!」
怒声と悲鳴が、丘に響いた。その混乱の中を、キーラが、低い姿勢で駆け抜ける。セフィは、その背中だけを見て、必死に追った。小石が靴底で鳴りそうになるのを、膝で受け止めて殺す。
「止まれ! 何者だ!」
斜面の下に、一人だけ、蔓から逃れた兵が立っていた。槍を構えて、こちらへ突進してくる。
キーラは、足を止めなかった。右手の短剣が閃き、槍の穂先を、石突き側へ弾き上げる。同時に、左の短剣が、兵士の籠手の留め具を、鋭く断ち切った。籠手が外れ、槍が、手から滑り落ちる。
「ぐっ……!」
兵士がよろめいた瞬間、キーラの肘が、鳩尾に入った。兵士は、うめいて、膝をついた。
「行くぞ、セフィ!」
「うん!」
裂け目は、すぐそこだった。冷たい岩肌が、両側から迫ってくる。二人が滑り込むのと同時に、背後で、巨大な蔓が兵士たちの退路を塞いだ。
「フィンさんは?」
「大丈夫だ、あいつは、すぐ来る!」
その言葉が終わらないうちに、裂け目の入り口に、小さな影が飛び込んできた。外套の裾を翻し、杖を肩に担いで、息ひとつ乱していない。
「ふう。ちょっと、本気を出しすぎたかな」
「ちょっとじゃ、ない」
キーラの声が、低かった。
「見張り台ごと、締め上げただろう。兵が潰れたら、どうする」
「潰してないよ。ちゃんと、手加減してる。骨の一本も、折っていない」
フィンは、杖の先で、軽く地面を叩いた。
「若い頃は、手加減ができなくてね。森一つを、丸ごと動かしてしまって、仲間にひどく怒られたことがある。それからは、必要なだけ、必要な分だけ、と心がけているんだ。人を殺さずに足止めする方が、力は、ずっとたくさん要る。経験上ね」
「……本当に、心がけているのか」
「うん。本当だよ」
その時、フィンが、懐から何かを取り出して、キーラの手のひらに、ぽとりと落とした。
「はい、これ」
「何だ、これは……」
キーラは、眉をひそめて、掌を見た。小さな鉄の徽章。見張り台の隊長の印だった。
「さっき、すれ違いざまに、頂いておいた。これがあれば、次の関所で、少しは役に立つかもしれない」
「お前……いつの間に」
「相変わらず、抜け目ないな」
キーラは、呆れたように、けれど、口の端を少しだけ上げて、徽章を懐にしまった。
「それで? どうやって取ったんだ」
「内緒。手品の種は、明かさないものだよ」
フィンは、にっと笑って、セフィに片目を瞑ってみせた。セフィも、つられて、くすくすと笑ってしまう。
*
裂け目を抜けると、そこは、丘の反対側の、風の通る草地だった。
背後の丘では、まだ松明の光が、慌ただしく揺れている。けれど、兵たちの声は、少しずつ、遠ざかっていった。夜の帳が、荒野を完全に覆う頃、三人は、草の斜面に腰を下ろして、ようやく、息をついた。
「抜けた……んだよね」
「ああ。追っ手は、完全に撒いた。これで当分は、安全だ」
キーラが、肩の力を抜いて、そう答えた。
「あそこの昔の兵隊さんたちも、ちゃんと、見ててくれたのかな」
セフィが、丘の方を振り返った。
「見ていたとも」
フィンが、静かに言った。
「君が気づいてあげたから、あの人たちは、ようやく、役目を果たせたんだ。死者の視線に、意味を見いだしてやる。それが、感応の、いちばん大事な使い道さ」
セフィは、小さく頷いて、胸の前でそっと両手を合わせた。
「ありがとうございました」
丘に向かって、深く頭を下げる。夜風が、その栗色の髪を、そっと撫でていった。
「さて」
フィンが、立ち上がって、背伸びをした。
「ここから先は、いよいよ山だ。道も険しくなる。今夜は、ゆっくり休んで、明日から、気合いを入れ直そう」
「ああ。まずは、飯だな」
「ご飯!」
セフィの顔が、ぱっと明るくなった。キーラが、また、小さく吹き出した。
遠く、夜の闇の向こうに、山々の黒い影が、大きく、連なっていた。




