第三部 第三章「荒野の夜」
日が沈み、あたりが完全な闇に包まれる頃、三人は、ようやく、その日の移動を切り上げることにした。
「今日は、ここまでにしよう」
フィンが、周囲を見渡しながら、そう告げた。窪地になった地形が、風を防ぐのに、ちょうど良さそうだった。頭上には、雲一つない夜空が広がり、無数の星が、瞬いている。
「疲れた……」
セフィが、その場に座り込みながら、正直な感想を漏らした。丸一日、緊張と、逃走を繰り返した体には、鉛のような疲労が、重くのしかかっていた。
*
「火を、熾していいんですか。見つかりませんか」
セフィが、心配そうに尋ねると、フィンは、首を振った。
「小さく、燃やす分には、問題ない。それに、この寒さの中、火なしで夜を越すのは、危険だ」
「そうですね……」
キーラが、手早く、周囲の枯れ枝を集め始めた。慣れた手つきで、火を熾していく。火打ち石を打ち付ける音が、静かな荒野に、小さく響いた。
「キーラ、火起こし、うまいね」
「これくらい、当然だ。獣人は、皆、幼い頃から、狩りの基本を叩き込まれる」
キーラが、そう言いながら、燃え始めた火に、そっと息を吹きかけた。小さな炎が、次第に、しっかりとした焚き火へと育っていく。
「セフィも、やってみるか」
「え、いいの?」
「今のうちに、覚えておいて、損はない」
キーラに教わりながら、セフィも、枝の組み方や、火の育て方を、一つずつ、学んでいった。不器用な手つきながらも、その様子を、キーラは、根気強く見守っていた。
*
夕食は、道中で摘んだ、わずかな木の実と、干し肉だけの、質素なものだった。
「明日には、もう少し、まともな食料を、確保したいな」
キーラが、干し肉を齧りながら、ぼやいた。
「そう簡単には、いかないだろう。人里に近づけば、それだけ、見つかる危険も増す」
フィンの冷静な指摘に、キーラは、渋い顔をした。
「分かってはいるが、腹が減っては、戦もできない。いいか、セフィ、食事っていうのはな、単に腹を満たすだけのものじゃない。次の行動への活力にもなるし、士気にも関わる。だから、多少の危険を冒してでも、まともな食事を確保することは、決して、贅沢な話じゃないんだ」
キーラが、いつの間にか、力説モードに入っていた。
「うん、分かった、分かった」
セフィが、苦笑しながら頷くと、キーラは、はっと我に返った。
「……悪い、また、長々と喋った」
「ううん、キーラらしくて、面白かったよ」
セフィがくすくす笑うと、キーラは、少し恥ずかしそうに、視線を逸らした。
「それも、一理あるな」
フィンが、そう茶々を入れながら、懐から、こっそりと何かを取り出した。
「ほら、セフィ。これでも食っとけ」
差し出されたのは、干し肉に紛れて隠していたらしい、小さな甘い干し果実だった。
「これ、いつの間に!」
「街を出る前に、こっそり買っておいたんだ。とっておきだぞ」
フィンが、悪戯っぽく笑うと、セフィは、目を輝かせた。
「フィンさんも、ちゃんと考えてくれてたんですね」
「まあな。それに、キーラの分も、あるぞ」
「え、わたしにも?」
キーラが、驚いたように尋ねると、フィンは、当然だという顔で、もう一つ、果実を差し出した。
「なら、明日、狩りができそうな場所を、探そう」
「ああ、頼む」
*
食事を終えると、焚き火を囲みながら、三人は、しばしの静けさを、共有した。
「なあ、セフィ」
キーラが、ふと、口を開いた。
「今日、気配を消す修行、成功させたな。正直、驚いた」
「うん、自分でも、びっくりした」
「教えた俺も、こんなに早く、コツを掴むとは、思わなかったぞ」
フィンも、感心したように、頷いた。
*
「でも、まだ、完璧じゃないですよね」
セフィが、謙遜するように言うと、フィンは、頷いた。
「ああ、まだまだだ。だが、今日みたいな緊急事態で、あれだけできれば、十分だ」
「これから、もっと練習します」
「その意気だ。だが、今夜は、まず、しっかり休め」
フィンの言葉に、セフィは、素直に頷いた。
*
「なあ、フィン」
キーラが、ふと、真剣な声で切り出した。
「昔の仲間の話、もう少し、聞かせてくれないか」
その問いに、フィンは、少し驚いたような顔をした。
「急に、どうした」
「セフィが、これから、同じ道を歩むかもしれない。だったら、知っておきたい」
キーラの言葉に、フィンは、しばらく考え込んだ。
*
「……分かった。少しだけ、話そう」
フィンは、焚き火を見つめながら、ゆっくりと語り始めた。
「俺の仲間たちは、皆、それぞれの理由で、摂理に抗おうとしていた。人間、獣人、冥人――種族も、背景も、様々だった。だが、共通していたのは、この理不尽な世界を、変えたいという、強い意志だった」
「どんな、人たちだったんですか」
セフィが、興味深そうに尋ねた。
「リーダー格だった女は、俺よりも、口が悪かった。だが、面倒見は、誰よりも良かった。腹を空かせた俺に、いつも、自分の食事を分けてくれた」
フィンの声に、懐かしそうな響きが混じった。
「もう一人、若い戦士がいてな。血気盛んで、よく無茶をした。だが、その無鉄砲さが、時に、俺たちを救うこともあった」
「キーラみたいな人ですね」
セフィが、思わずそう言うと、キーラは、少し驚いたような顔をした。
「わたしが、そんなに、無鉄砲か」
「良い意味でね」
セフィが笑うと、フィンも、頷いた。
「確かに、少し似てるかもしれないな。真っ直ぐで、仲間思いなところが」
「他には、どんな人が?」
セフィが、さらに尋ねると、フィンは、指折り数えるように、続けた。
「物知りの学者もいた。冥人の年寄りも。皆、それぞれの強みを持ち寄って、摂理に立ち向かおうとしていたんだ」
「まるで、今のわたしたちみたいですね」
セフィの言葉に、フィンは、しみじみと頷いた。
「ああ、本当にな」
*
「その人たちは、どうなったんですか」
セフィが、恐る恐る尋ねると、フィンの表情が、翳った。
「摂理の代行者――調律者と呼ばれる存在との戦いで、全員、命を落とした。俺だけが、生き残った」
「そんな……」
「今でも、時々、思う。俺が、もっと強ければ、もっと賢ければ、皆、死なずに済んだんじゃないかと」
フィンの告白に、セフィは、あの廃教会の司祭の言葉を、思い出さずにはいられなかった。
「フィンさんのせいじゃ、ないと思います」
セフィが、静かに、そう言った。
「あなたは、最後まで、仲間を守ろうとした。それは、否定できない事実です」
その言葉に、フィンは、少し驚いたように、セフィを見つめた。
「……前にも、似たようなことを、誰かに言われた気がするな」
「そうなんですか?」
「いや、なんでもない」
フィンは、そう言って、微かに笑った。
*
「教えてくれて、ありがとう」
キーラが、静かに、そう言った。
「セフィが、同じ道を歩むなら、俺は、もう、二度と、大切な奴を、失いたくない」
フィンの言葉には、確かな決意が滲んでいた。
「わたしも、キーラも、フィンさんと同じ気持ちです」
セフィが、力強く、そう言うと、フィンは、優しく目を細めた。
「ああ、頼りにしてる」
*
「そろそろ、寝るか」
フィンの提案に、三人は、それぞれ、横になる準備を始めた。
「見張りは、交代でやろう」
キーラが、提案した。
「わたしが、最初にやる」
「無理するなよ。今日は、一番、動いたんだから」
セフィが、心配そうに言うと、キーラは、首を振った。
「これくらい、平気だ。お前こそ、しっかり休め」
キーラの気遣いに、セフィは、ありがたく、頷いた。
「じゃあ、次は、わたしが交代する。ちゃんと、起こしてね」
「分かった」
「フィンさんは?」
セフィが尋ねると、フィンは、あくびを一つした。
「俺は、そんなに眠らなくても平気な体質でな。最後の見張りは、俺がやる」
「便利ですね、それ」
「便利、というより、単に、長く生きすぎて、体の仕組みが、変わってるだけかもしれん」
フィンが、そう自嘲気味に言うと、セフィは、少し切なそうな顔をした。
「おやすみ、キーラ。おやすみ、フィンさん」
「おやすみ」
「ああ、おやすみ」
星空の下、焚き火の温もりに包まれながら、セフィは、静かに、目を閉じた。危険と隣り合わせの旅ではあったが、こうして、仲間と支え合いながら進んでいけることに、確かな心強さを感じていた。
遠くで、夜行性の鳥だろうか、物悲しい鳴き声が、一度だけ響いた。それ以外は、静寂に包まれた荒野の夜が、三人を、静かに見守っていた。




