第三部 第二章「追っ手」
街道を外れ、荒野へと続く獣道を進み始めて、半日が過ぎた頃だった。乾いた大地に、まばらな灌木が点在し、遠くの空には、猛禽が一羽、輪を描くように飛んでいる。
「――来た」
セフィが、突然、足を止めた。感応の力で、背後から迫る、複数の気配を捉えたのだった。
「数は?」
フィンが、即座に尋ねた。
「馬に乗った兵士、五、六人くらい。すごい速さで、近づいてきてる」
セフィの報告に、キーラが、舌打ちした。
「思ったより、早いな。もう見つかったか」
「街を出る時に、見張りがいたのかもしれない」
フィンが、周囲の地形を、素早く見回した。
「くそ、油断してたな」
キーラが、悔しそうに、拳を握った。
「今更、悔やんでも仕方ない。次に、どうするかだ」
フィンの冷静な言葉に、キーラは、気を取り直すように、頷いた。
*
「このまま、平地を走っても、追いつかれる。あそこの岩場に、身を隠そう」
フィンが指差した先には、大小の岩が、不規則に積み重なった、荒れた地形が広がっていた。
「本当に、隠れきれますか」
セフィが、不安げに尋ねると、フィンは、頷いた。
「馬は、あの岩場の中までは、入ってこられない。兵士も、徒歩で探すとなれば、時間がかかる。その間に、うまく気配を消せれば、勝機はある」
「気配を、消す?」
「後で、詳しく教える。まずは、走るぞ」
フィンの言葉に、セフィは、頷いた。
「セフィ、走れるか」
キーラが、心配そうに尋ねた。
「うん、大丈夫」
セフィは、力強く頷いた。この一年の修行と旅で鍛えた足腰は、以前とは、比べ物にならないほど、強くなっている。
三人は、全速力で、岩場を目指して走り出した。乾いた大地を蹴る足音が、三人分、重なり合って響く。
*
「くそ、思ったより、足場が悪い」
キーラが、岩の隙間を、器用に飛び越えながら、悪態をついた。その拍子に、足を滑らせ、危うく転びそうになる。
「大丈夫、キーラ?」
セフィが、思わず声をかけると、キーラは、慌てて体勢を立て直した。
「へ、平気だ! 見てなかっただろうな」
「ばっちり見てたよ」
セフィが、くすりと笑うと、キーラは、顔を赤くして、視線を逸らした。
「い、今のは、忘れろ」
「覚えとく」
セフィが、あえて意地悪くそう言うと、キーラは、むっとした顔をした。
「お前、こんな時まで、余裕だな」
「文句を言ってる暇があったら、走れ」
フィンが、そう茶化しながらも、自身も、軽やかな身のこなしで、岩場を駆け抜けていく。
「フィンさん、意外と、機敏ですね」
セフィが、感心したように言うと、フィンは、得意げに笑った。
「これでも、何百年分の経験があるんでな」
*
岩場の奥、大きな岩の陰に身を潜めると、セフィは、再び、意識を集中させた。
「まだ、追ってきてる。あと、少しで、ここまで来る」
「隠れて、やり過ごすしかないな」
キーラが、短剣を、静かに構えた。
「戦うつもり?」
セフィが、不安げに尋ねると、キーラは、首を振った。
「できれば、避けたい。数が多いし、正面から戦えば、消耗する」
「なら、どうする」
「気配を、消せるか、セフィ」
フィンが、そう尋ねた。
「気配を、消す?」
「対話や同調とは、逆の使い方だ。自分の気配を、周囲に溶け込ませるように、意識を、内側に絞る」
「そんなこと、できるんですか」
「理論上はな。俺も、大昔、似たようなことを、覚えさせられた」
「フィンさんにも、師匠がいたんですね」
セフィが、興味津々に尋ねると、フィンは、懐かしそうに目を細めた。
「ああ、随分と、厳しい奴だった。今のお前以上に、無茶な課題を、次々に出してきた」
「フィンさんより、厳しい人が、いたんですか」
「信じられないか? だが、本当だ。俺が、お前に多少厳しくできるのも、あの師匠のおかげだと思ってる」
フィンの言葉に、セフィは、少し複雑な気持ちになりながらも、頷いた。
「とにかく、やってみます」
*
セフィは、目を閉じ、これまでとは逆の感覚で、意識を集中させた。外に向かって広げるのではなく、自分自身の気配を、静かに、岩の気配へと、重ね合わせていく。
「……こんな、感じですか」
「悪くない。だが、まだ、少し漏れてる」
フィンが、そう指摘した。
「もっと、深く。自分が、ただの石ころになったつもりで」
セフィは、さらに、意識を研ぎ澄ませた。次第に、自分自身の輪郭が、周囲の岩の気配と、溶け合っていくような感覚があった。
*
馬の蹄の音が、次第に、近づいてきた。
「この辺りに、逃げ込んだはずだ。しらみつぶしに、探せ!」
指揮官らしき男の、怒声が響いた。兵士たちが、岩場の周辺を、慌ただしく歩き回る足音が聞こえてくる。鎧の擦れる音、剣が岩を叩く音――一つ一つの物音が、やけに大きく、セフィの耳に響いた。
セフィは、息を殺しながら、気配を抑え続けた。心臓の音さえ、聞こえてしまうのではないかと、不安になるほどの、緊張感だった。
「……こっちには、いないな」
兵士の一人が、そう呟く声が、すぐ近くから聞こえた。足音が、セフィたちの隠れる岩の、すぐ脇を通り過ぎていく。
「向こうの茂みも、調べろ」
別の兵士の声が、少しずつ、遠ざかっていった。セフィは、それでも、気を抜かずに、気配を抑え続けた。
隣で、キーラも、微動だにせず、息を潜めている。フィンだけが、驚くほど落ち着いた様子で、目を閉じ、まるで、この状況を楽しんでいるかのようだった。
*
長い、長い時間が過ぎた後、ようやく、馬の蹄の音が、遠ざかっていった。
「行ったか……」
キーラが、詰めていた息を、ゆっくりと吐き出した。
「うん……なんとか」
セフィも、気配を抑える意識を、そっと解いた。全身から、どっと、力が抜けていく。両手が、微かに震えていた。
「よくやった。初めてにしては、上出来だ」
フィンが、そう褒めると、セフィは、疲れた笑顔を見せた。
「セフィ、大丈夫か。顔、真っ青だぞ」
キーラが、心配そうに、セフィの顔を覗き込んだ。
「うん……ちょっと、疲れただけ。あんなに、緊張したの、久しぶりかも」
「無理もない。初めての気配隠しで、あれだけの人数を、やり過ごしたんだ。大したもんだ」
フィンの言葉に、セフィは、少し照れくさそうに、頬を緩めた。
*
「油断するなよ。この程度で、諦める帝国じゃない」
キーラが、警戒を緩めずに言った。
「分かってる。でも、少しだけ、休ませて」
セフィが、岩に寄りかかりながら、そう答えると、フィンが、水筒を差し出した。
「飲んどけ。まだ、先は長い」
「ありがとうございます」
セフィは、水筒を受け取り、喉を潤した。冷たい水が、疲れた体に、じんわりと染み渡っていく。
「フィンさんも、飲んでください」
セフィが、水筒を差し出し返すと、フィンは、少し驚いたような顔をした。
「気が利くじゃないか」
「当然です。フィンさんだって、走ったんですから」
セフィの気遣いに、フィンは、満更でもなさそうに、水筒を受け取った。
「セフィって、こういうところ、変わらないよな」
キーラが、そんな二人のやり取りを見ながら、微笑ましそうに呟いた。
「どういうところ?」
「誰かを気遣うことを、忘れない。自分だって、疲れてるはずなのに」
キーラの評価に、セフィは、少し照れながら、笑った。
「これから、どうする?」
セフィが尋ねると、フィンは、地図を広げながら答えた。
「日が暮れるまでは、この岩場に隠れて、体力を回復させる。夜になったら、また移動だ」
「夜通し、歩くんですか」
「追っ手を、少しでも、引き離すためにはな」
「大変そうだけど、頑張ります」
セフィが、拳を握って気合を入れると、キーラとフィンは、顔を見合わせて、微笑んだ。
フィンの言葉に、セフィとキーラは、互いに顔を見合わせ、頷いた。危険と隣り合わせの、長い逃避行が、こうして、本格的に始まろうとしていた。




