第三部 第一章「旅立ちの朝」
セフィは、十二歳になっていた。
まだ幼さの残る顔立ちの中に、この一年の旅と修行を経て、以前より意志の強さを感じさせる目をしている。栗色の髪は、以前より少し伸び、肩のあたりで、緩やかに揺れていた。左右で色の違う瞳――左目は灰褐色、右目は淡い金色――は、変わらず、彼女の出自を静かに物語っていた。背丈も、出会った頃より、少し伸びている。
隣を歩くキーラは、十七歳になっている。銀灰色の髪と、鍛え上げられた細身の体つきは、出会った頃よりも、さらに研ぎ澄まされていた。狼の耳が、周囲の物音を、絶えず拾おうとしている。腰に佩いた二本の短剣も、以前より、使い込まれた風格を纏っていた。
そして、二人の少し前を歩く、フィン。相変わらず、十かそこらの少年にしか見えないその姿は、これから何百年経とうと、変わることはないのだろう。緑がかった髪と、木目のような紋様の浮かぶ肌――その不変の姿こそが、彼が背負ってきた、途方もない年月の重みを、静かに物語っていた。
*
夜明け前、まだ薄暗い倉庫の前で、三人は、最後の荷物の確認をしていた。ひんやりとした夜気が、まだ、あたりに残っている。
「これで、全部か」
キーラが、背負った荷物を、軽く揺すって確かめた。中で、金属の触れ合う、微かな音がする。
「うん。忘れ物、ないと思う」
セフィも、自分の荷物を、もう一度、丁寧に確認した。木彫りの鳥、リアナの首飾り、そして、フィンから学んだ知識を書き留めた、手製の帳面――大切なものは、全て、しっかりとしまってある。
「感傷に浸るのは、後にしろ。まずは、この街を出ることだ」
フィンが、そっけなく言った。けれど、その声には、微かな寂しさが滲んでいるように、セフィには感じられた。
*
「フィンさんも、この街に、思い入れが?」
セフィが、そっと尋ねると、フィンは、少し考えてから答えた。
「まあな。長く腰を落ち着けた場所の一つだ。馴染みの店も、多かった」
「黒猫亭のマスターにも、ちゃんと挨拶したんですか」
「したさ。それに免じて、路銀も、多めに用意してもらった」
フィンが、懐から、革袋を取り出して見せた。ずっしりとした重みが、旅の資金の確かさを物語っている。
「本当に、お世話になりましたね」
「お前らも、色々世話になっただろう。持ちつ持たれつだ」
「そういえば、フィンさんは、こういう別れの朝って、何度も経験してるんですよね」
セフィが、ふと尋ねると、フィンは、遠い目をした。
「数え切れないほどな。昔は、別れが辛くて、夜逃げ同然に街を出たこともあった。だが、長く生きるうちに、分かったことがある。きちんと別れを告げた方が、後々、心が軽い。だから、今日みたいに、挨拶を済ませてから出るようにしてるんだ」
その経験に裏打ちされた言葉に、セフィは、深く頷いた。
「そういえば」
フィンが、ふと、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「セフィ、荷物の中、確認したか? 変なものが、紛れ込んでるかもしれないぞ」
「え……?」
セフィが、慌てて荷物を開けると、中から、小さな木彫りの蛙が、ころりと転がり出てきた。
「な、なにこれ!」
「土産だ。この街の名物でな。良い記念になるだろう」
フィンが、くつくつと笑いながら言った。
「びっくりさせないでください!」
セフィが頬を膨らませると、フィンは、ますます愉快そうに笑った。こういう、ちょっとした悪戯を仕込むのが、フィンの、いつもの癖だった。
*
「なあ、セフィ」
キーラが、荷造りの手を止めて、真剣な顔で切り出した。
「これから、正規の道は、使えない。国境を越えるのも、命がけになるだろう」
「うん、分かってる」
「本当に、分かってるのか? 帝国は、もう、お前たちを、明確な敵として、追ってくる。今までとは、話が違う」
キーラの声には、これまでにない、切迫した響きがあった。
「怖くない、と言ったら、嘘になる」
セフィは、正直に、そう答えた。
「でも、ここで、立ち止まるわけにはいかない。フィンさんから聞いた真実を知った以上、もう、後戻りはできない」
「もし、途中で、心が折れそうになったら、どうする」
キーラが、なおも問いかけた。
「その時は、キーラに、支えてもらう。それに、フィンさんにも」
セフィが、迷いなくそう答えると、キーラは、少し驚いたような顔をした。それから、ふっと、微かに笑みを浮かべた。
「よし、その答えでいい。なら、わたしも、覚悟を決める」
「キーラは、もう覚悟、決まってたんじゃないの?」
セフィが、首を傾げて尋ねると、キーラは、少し言葉に詰まった。
「決まって……いや、正直に言うと、少しだけ、迷いもあった。だが、お前の、その真っ直ぐな覚悟を聞いて、迷いが消えた」
「そっか。よかった」
セフィが、にっこりと笑うと、キーラも、釣られるように、表情を緩めた。
「お前、そういう、無邪気な顔をするから、余計に、守ってやらなきゃって、思うんだよな」
キーラが、ぽつりと呟いた。
「え、なにそれ」
「気にするな」
キーラが、誤魔化すように、視線を逸らした。
*
「二人とも、覚悟は決まったか」
フィンが、荷物を背負い直しながら、二人を見やった。
「はい」
「ああ」
「よし。なら、行くぞ」
フィンが、倉庫の扉を、静かに開けた。夜明け前の、冷たい空気が、三人を包み込む。
*
街を出る前、セフィは、少しだけ、遠回りをしたいと申し出た。
「三日月亭に、一目だけ、寄ってもいい?」
「駄目だ」
キーラが、即座に、そう答えた。
「なんで? ちょっとだけだよ」
「ちょっとのつもりが、長引くのが、お前の悪い癖だ。いいか、セフィ。今のわたしたちは、帝国から追われる身なんだぞ。一分一秒が、命取りになるかもしれない状況で、感傷に浸ってる余裕なんて、どこにある。それに、街を出るタイミングは、人通りの少ない、この時間帯が一番安全なんだ。少しでも遅れれば、街が完全に目覚めて、余計な目に触れる危険が増す。お前の気持ちは、分からなくもないが、優先順位を、間違えるな」
長々と続く説教に、セフィは、*ああ、始まった*と、内心で身構えながらも、神妙な顔で頷いた。
「うん……分かった、ごめん」
「分かればいい」
キーラが、そう言って、腕を組んだところで、フィンが、横から口を挟んだ。
「まあ、そう固いことを言うな。少しくらい、大目に見てやれ」
「フィンまで、甘やかすのか」
「たまにはな。それに、あの店の女将、なかなか人が良かった。挨拶くらい、してやってもいいだろう」
フィンの意外な援護に、セフィは、ぱっと表情を明るくした。
「時間は、あまりないぞ」
キーラが、渋々といった様子で、折れた。
「少しくらいなら、構わない。行ってこい」
フィンが、頷いた。
*
まだ眠っている三日月亭の前に立ち、セフィは、しばらくの間、その佇まいを見つめていた。初めて泊まった夜、ふかふかのベッドに、はしゃいだこと。豪華な食事に、目を輝かせたこと。あの温かい記憶が、鮮やかに蘇る。
窓には、まだ明かりが灯っていなかったが、厨房の煙突からは、既に、細い煙が立ち上り始めていた。女将が、朝食の支度を始めているのかもしれない。
「ありがとうございました」
誰もいない扉に向かって、セフィは、小さく、そう呟いた。それから、懐から、小さな紙切れを取り出し、扉の隙間に、そっと挟み込んだ。
「何を書いたんだ?」
「お礼の言葉と……また、いつか、絶対に戻ってくるって」
セフィが、少し照れくさそうに答えると、キーラは、優しく目を細めた。
「そうか。いい心がけだ」
「行こう、セフィ」
キーラが、そっと、肩に手を置いた。
「うん」
セフィは、最後にもう一度、街並みを見渡してから、キーラと共に、フィンの待つ場所へと、駆け出した。その足取りは、名残惜しさを抱えながらも、確かな軽やかさを持っていた。
*
街の外れ、目立たない裏門から、三人は、静かに、バルドウィックを後にした。
朝日が、少しずつ、地平線から顔を出し始めていた。オレンジ色の光が、街の屋根々を、柔らかく染めていく。その光を受けながら、セフィは、これから始まる、新しい旅路に、思いを馳せた。
「振り返らなくて、いいのか」
キーラが、隣を歩きながら、そっと尋ねた。
「振り返る。でも、前を向いて歩き続けるよ」
セフィは、そう言って、一度だけ、後ろを振り返った。朝日に照らされた、バルドウィックの街並みが、遠く、輝いて見えた。数々の出会いと、成長の記憶が詰まった、かけがえのない場所。
「セフィ、いい顔をするようになったな」
フィンが、感心したように呟いた。
「そうですか?」
「ああ。出会った頃は、もっと、不安げな顔をしてた。今は、覚悟を決めた奴の顔だ」
フィンの評価に、セフィは、少し誇らしい気持ちになった。
「フィンさんの、厳しい修行のおかげです」
「殊勝な口をきくじゃないか」
フィンが、そう言って、くつくつと笑った。
*
多くのものを得た、この街での日々。師匠、そして、深まった絆。それら全てを胸に、セフィは、新たな困難へと、足を踏み出していく。
「さあ、行くぞ。共和国までは、長い道のりだ」
フィンの声に、セフィとキーラは、力強く頷いた。
「はい!」
「ああ、いつでも」
三人の新しい旅が、今、静かに、始まろうとしていた。荒野へと続く道の向こうに、朝日が、まっすぐな光の道を、描き出していた。




