第二部 第十九章「乗り越えて」
翌朝、セフィが、いつもの場所に向かうと、フィンは、既に待っていた。空はまだ薄暗く、東の空だけが、微かに白み始めている。
「昨日は、悪かったな」
フィンが、ぽつりと、そう切り出した。セフィは、驚いて、顔を上げた。
「え……」
「突き放すような言い方、しただろう。あれは、俺が、悪かった」
フィンの珍しい謝罪に、セフィは、戸惑いを隠せなかった。これまでのフィンからは、想像もつかない態度だった。
「いえ、そんな……わたしの方こそ、集中を欠いていて」
「理由は、キーラから、少し聞いた。大切な奴を、亡くしたばかりなんだってな」
フィンの言葉に、セフィは、静かに頷いた。
*
「なあ、セフィ」
フィンが、初めて、名前で呼びかけた。これまで、ずっと「嬢ちゃん」としか呼ばれてこなかったことに、セフィは、今更ながら気づいた。
「はい」
「俺は、何百年も生きてきて、数えきれないほどの別れを、見てきた。だが、それに、慣れるってことは、一度もなかった」
フィンの声には、これまで聞いたことのない、深い響きがあった。
「悲しみってのは、消えるもんじゃない。ただ、共に生きていくことを、覚えていくだけだ」
*
「フィンさんも、大切な人を、亡くしたことが?」
セフィが、恐る恐る尋ねると、フィンは、少し遠い目をした。
「数え切れないほどにな。友も、恋人も、弟子も。俺だけが、いつまでも、こんな姿のまま、取り残されていく」
その言葉の重みに、セフィは、言葉を失った。何百年もの時を生きるということが、どれほどの孤独を伴うものか、初めて、実感として理解した気がした。
「だから、な」
フィンは、いつもの飄々とした調子に、戻りながら、続けた。
「お前が、多少、修行に身が入らない日があっても、俺は、責めるつもりはない。悲しみと一緒に、生きていけばいい。ただし」
「ただし?」
「立ち止まったままでいることは、許さない。悲しみを抱えたまま、それでも、前へ進む方法を、俺が教えてやる」
フィンの言葉に、セフィは、目頭が熱くなるのを感じた。
*
「今日は、昨日とは、違う練習をする」
フィンが、そう言って、セフィの前に立った。
「感情を、無理に切り離そうとするんじゃなく、その感情ごと、抱きしめたまま、力を制御する練習だ」
「感情ごと、抱きしめる……」
「ああ。今のお前は、悲しみを、邪魔なものとして、押し込めようとしてる。だが、それじゃ、いつまで経っても、うまくいかない」
フィンは、セフィの目の前で、手のひらを、ゆっくりと広げてみせた。
「悲しみも、怒りも、喜びも、全部、お前を形作る一部だ。それを、消そうとするんじゃなく、抱えたまま、進む力に変える。それが、本当の"制御"だ」
*
「やってみます」
セフィは、円の中に立ち、目を閉じた。今度は、リアナのことを、無理に頭から追い出そうとはしなかった。代わりに、その思い出を、そっと、胸の中に抱きしめるようにして、意識を、静かに広げていった。
「一つ目、いくぞ」
フィンの声と共に、気配が、セフィの意識に触れた。
「……見えます。悲しみと、安堵が、混ざってる気配」
「よし、次だ」
次々と示される気配を、セフィは、以前よりも、ずっと明瞭に、読み分けることができた。悲しみを排除するのではなく、受け入れることで、かえって、心が、静かに澄んでいくようだった。
*
「できた……!」
十個目の気配を、正確に言い当てた時、セフィは、思わず、声を上げた。
「上出来だ」
フィンが、珍しく、満足そうな笑みを浮かべた。
「昨日の壁は、お前にとって、必要な壁だったんだよ。悲しみを消そうとする限り、その先には、進めなかった」
フィンの言葉に、セフィは、深く頷いた。
「フィンさん、ありがとうございます」
「礼はいい。俺は、ただ、教えるべきことを、教えただけだ」
フィンは、そっけなくそう言ったが、その口元には、隠しきれない、優しい笑みが浮かんでいた。
*
その日の夕方、修行を終えたセフィは、キーラと共に、宿への道を歩いていた。
「今日は、随分、調子が良さそうだったな」
キーラが、感心したように言った。
「うん。フィンさんに、大事なこと、教えてもらった」
セフィは、今日学んだことを、キーラに、かいつまんで話した。
「悲しみを、抱えたまま進む、か」
キーラは、その言葉を、噛みしめるように繰り返した。
「わたしにも、当てはまることかもしれないな」
「うん、きっと」
「今度、わたしも、フィンに、話を聞いてみようかな」
キーラが、珍しく、そんなことを呟いた。
「うん、聞いてみるといいよ。あの人、口は悪いけど、ちゃんと、大事なことを教えてくれる」
「セフィが、そこまで言うなら、信用してみるか」
キーラが、微かに笑いながらそう言うと、セフィも、嬉しそうに頷いた。
夕暮れの空の下、二人は、静かに、けれど確かな足取りで、歩き続けた。壁を一つ、乗り越えたことで、セフィの中に、また新しい強さが、芽生え始めていた。この先にも、きっと、様々な壁が待ち受けているだろう。それでも、悲しみを抱えたまま、前へ進む術を知った今、セフィは、以前よりも、ずっと確かな足取りで、歩いていけるはずだった。




