第二部 第十八章「壁にぶつかる」
修行を始めて、十日が過ぎた。
セフィの日課は、すっかり定着していた。夜明け前にフィンの元へ向かい、厳しい鍛錬を受け、昼過ぎには、キーラと共に、実戦形式の稽古を重ねる。日々の疲労は蓄積していたが、それ以上に、着実に力をつけていく実感が、セフィを支えていた。宿に戻る頃には、いつも泥のように眠り込み、翌朝には、また新しい気持ちで、修行に臨む――そんな規則正しい日々が、十日間、続いていた。
けれど、その日は、様子が違っていた。
朝、目を覚ました瞬間から、セフィの心には、重い霧のようなものが、立ち込めていた。理由は、自分でも、はっきりとは分からなかった。ただ、体の奥に、鉛のような重さが、居座っているようだった。
*
「集中しろ。さっきから、何度、同じ失敗を繰り返してる」
フィンの声に、いつもより、鋭さが混じっていた。
「すみません……」
セフィは、円の中に立ったまま、肩を落とした。今日の課題は、複数の気配を同時に読み分ける、高度な感応の訓練だった。けれど、何度挑戦しても、気配が混ざり合ってしまい、うまく区別がつかない。頭の中に、霧のようなものが立ち込め、意識をまとめることが、いつも以上に難しかった。
「もう一回だ」
「はい……」
セフィは、再び、意識を集中させた。けれど、疲労のせいか、それとも、別の理由か、頭の中が、うまく整理できなかった。何度目かの気配を感じ取ろうとした瞬間、脳裏に、ふと、リアナの最後の笑顔が浮かんだ。
「駄目です、また、混ざっちゃう……」
セフィの声に、次第に、焦りが滲み始めた。焦れば焦るほど、感覚は、余計に鈍っていくようだった。
*
「今日は、これくらいにしよう」
フィンが、そう告げた。けれど、その声には、これまでにない、突き放すような冷たさがあった。
「まだ、できます!」
「無理をするな。今のお前じゃ、これ以上やっても、意味がない」
フィンの言葉が、セフィの胸に、鋭く突き刺さった。
「意味が、ない……?」
「今日のお前は、明らかに、集中を欠いてる。理由は知らんが、そんな状態で続けても、悪い癖がつくだけだ」
フィンは、そう言い残すと、さっさと、その場を後にした。
*
一人残されたセフィは、その場に、崩れ落ちるように座り込んだ。
*なんで、今日は、こんなにうまくいかないんだろう。*
考えれば考えるほど、答えは、はっきりしていた。今朝、目が覚めた時、リアナの夢を見た。あの、消えていく最後の瞬間の夢。目覚めてからずっと、その光景が、頭の片隅にこびりついて離れなかった。
「セフィ」
キーラが、心配そうに、駆け寄ってきた。
「大丈夫か。今日は、随分、様子が変だったな」
「うん……ちょっと、リアナお姉ちゃんのこと、思い出しちゃって」
セフィは、正直に、そう打ち明けた。
*
「あれから、もう、何ヶ月も経つのに、まだ、こんな風に、引きずってる。情けないよね」
セフィの声に、自嘲めいた響きが混じった。
「情けなくなんて、ないだろう」
キーラが、静かに、そう答えた。
「大切な人を失った悲しみに、期限なんてない。何ヶ月経とうが、何年経とうが、ふとした瞬間に、蘇るのは、当然のことだ」
「でも、それで、修行に支障が出るのは……」
「支障が出て、当たり前だ。お前は、機械じゃない」
キーラの言葉に、セフィは、俯いたまま、黙り込んだ。
*
「ただ」
キーラが、続けた。
「そんな時こそ、無理に前を向こうとせず、一度、しっかり立ち止まった方がいい。フィンも、それを分かってて、今日は切り上げたんだろう」
「そう、なのかな」
「ああ。あの意地悪なジジイ、口は悪いが、見るところは、ちゃんと見てる」
キーラの評価に、セフィは、思わず、小さく笑った。
「ジジイって、キーラも思ってたんだ」
「見た目は子どもでも、中身は、間違いなくジジイだろう」
そんな軽口に、セフィの張り詰めていた心が、少しだけ、緩んでいくのを感じた。
「わたしにも、覚えがある」
キーラが、ふと、遠くを見つめながら、続けた。
「兄を失った直後、しばらくは、剣を握るだけで、手が震えた。稽古どころじゃなかった」
「そう、だったんだ」
「時間が、少しずつ、癒してくれる。今すぐには、無理でもな」
キーラの言葉に、セフィは、静かに頷いた。同じ喪失を経験した者だからこそ言える、その重みのある言葉が、じんわりと、胸に染み渡っていった。
*
その夜、セフィは、宿の部屋で、一人、懐から、リアナの首飾りを取り出した。
「リアナお姉ちゃん、今日は、うまくいかなかった」
誰もいない部屋に向かって、セフィは、そっと呟いた。
「でも、明日は、ちゃんと頑張るから。だから、見ててね」
首飾りを、そっと胸に抱きしめながら、セフィは、静かに、目を閉じた。悲しみは、まだ、完全には癒えていない。それでも、その悲しみと共に、前へ進んでいくしかないのだと、セフィは、改めて、心に刻んでいた。
壁にぶつかることは、決して、悪いことばかりではない。その壁の向こうに、また新しい景色が広がっていることを、セフィは、まだ知らなかった。




