第二部 第十七章「スパルタの洗礼」
「今日から、本格的に始める」
黒猫亭の裏手にある、小さな空き地。フィンは、腕を組んで、セフィを見下ろしていた。夜明け前の薄闇に、二人の吐く息だけが、白く浮かんでは消えていく。地面には、まだ夜露が残り、踏みしめるたびに、じっとりとした冷たさが、足元から伝わってきた。
「よろしくお願いします」
セフィが、深々と頭を下げると、フィンは、素っ気なく頷いた。
「まず、お前の今の力量を、正確に把握させろ。感応、対話、同調、制御、顕現――それぞれ、今できることを、一通りやってみせろ」
「はい」
セフィは、これまで積み重ねてきた修行の成果を、一つずつ、フィンの前で披露していった。感応で周囲の気配を探り、対話で言葉を交わし、同調で技を借り、そして、最後に、簡単な身体操作で、その成果を示す。
離れた場所から、キーラも、腕を組んで、その様子を見守っていた。フィンの前で披露するセフィの動きは、これまでの旅の中で、何度も見てきたものだったが、こうして改めて見ると、随分と様になってきたと、キーラは密かに感心していた。
*
フィンは、その様子を、じっと、無言で観察していた。時折、小さく頷いたり、微かに眉をひそめたりしながら。
「終わりました」
セフィが、息を切らしながら報告すると、フィンは、しばらくの間、黙り込んでいた。
「……お前、独学と、二人の指導者だけで、ここまで来たのか」
「はい」
「大したもんだ。だが」
フィンの目が、鋭さを増した。
「基礎が、かなり甘い。特に、感応の"精度"が、粗すぎる」
「精度、ですか」
「ああ。お前は、気配を"広く"感じ取ることはできる。だが、"深く"読み取ることが、まだできてない」
フィンの指摘に、セフィは、思わず、息を呑んだ。
*
「広く浅く、じゃ、いつか痛い目を見る。本当に大事な情報は、深く読み込んでこそ、見えてくるもんだ」
フィンは、そう言うと、地面に、円を描いた。
「この中に立って、目を閉じろ。今から、俺が、色んな死者の気配を、次々にお前に感じさせる。それぞれの、"感情の色"を、正確に言い当ててみせろ」
「感情の色?」
「悲しみか、怒りか、後悔か、それとも、安らぎか。感じ取った気配の"質"を、正確に区別する練習だ」
セフィは、円の中に立ち、目を閉じた。
*
「一つ目、いくぞ」
フィンの声と共に、微かな気配が、セフィの意識に触れた。
「……悲しみ、だと思います」
「浅いな。もう一度、よく感じろ」
セフィは、より深く、意識を集中させた。
「悲しみ……の中に、少し、安堵も混じってる、気がします」
「正解に近づいたな。実際は、悲しみと、諦めが混ざった気配だ。だが、悪くない読み取りだ」
そんな調子で、フィンは、次々と、異なる気配を、セフィに感じさせていった。何度も間違え、何度もやり直す。汗が、額から、次々と滴り落ちていった。
「三つ目、いくぞ」
今度の気配は、これまでとは、明らかに質が違っていた。刺すような、鋭い痛みを伴う感情が、セフィの意識に流れ込んでくる。
「これは……怒り、強い怒り」
「もう少し、踏み込め」
「怒りの奥に……悲しみが、隠れてる気がします」
「正解だ。よく読み取ったな」
フィンの珍しい称賛に、セフィは、疲労の中にも、確かな達成感を覚えた。
「もう一つ、いけるか」
「はい、まだ、いけます」
セフィは、額の汗を拭う間も惜しんで、再び集中した。次々と示される気配の質を、一つ一つ、丁寧に読み解いていく。時に間違え、フィンから容赦のない指摘を受けながらも、その精度は、確かに、少しずつ上がっていった。
*
「まだ、やるのか」
セフィが、ふらつく足取りで、それでも立ち続けていると、フィンが、意外そうに尋ねた。
「はい。まだ、できます」
「無理はするなよ」
「大丈夫です。もう少し、頑張らせてください」
セフィの強い意志に、フィンは、少し驚いたような顔をしたが、すぐに、いつもの態度に戻った。
「まあ、いい。とことん、付き合ってやる」
*
昼過ぎまで続いた特訓の末、セフィは、地面に座り込んで、荒い息をついていた。
「今日は、これくらいにしておく」
フィンが、水筒を投げ渡すと、セフィは、それを、勢いよく飲んだ。
「どうでしたか、今日の成果」
「悪くない。だが、まだまだ、伸ばせる余地がある。明日も、同じ時間に来い」
「はい!」
*
「セフィ、大丈夫か」
離れた場所で見守っていたキーラが、駆け寄ってきた。
「うん……疲れたけど、充実してる」
セフィは、そう言って、笑顔を見せた。
「フィンさんの指導、想像以上に厳しいけど、その分、色んなことが、はっきり分かるようになった気がする」
「そうか。それは、よかった」
キーラは、セフィの汗を、そっと拭ってやった。
「明日から、わたしも、一緒に付き合うぞ。戦闘面の指導は、フィンより、わたしの方が詳しいはずだからな」
「うん、頼りにしてる」
「それにしても、あのフィンとかいうやつ、思ったより、面倒見が良さそうだな」
キーラが、感心したように呟いた。
「うん。厳しいけど、ちゃんと見てくれてる気がする」
「油断するなよ。まだ、初日だ」
キーラの忠告に、セフィは、苦笑した。
「分かってる。明日から、もっと厳しくなるんだろうな」
「覚悟しておけ」
夕暮れの空を見上げながら、セフィは、この新しい修行の日々に、確かな手応えを感じ始めていた。厳しい道のりであることは、間違いなかった。それでも、この先に、必ず、大切な答えが待っている――そんな確信が、セフィの胸に、静かに芽生えていた。




