第二部 第十五章「難題その一」
翌日、セフィとキーラは、指定された時間に、黒猫亭を訪れた。
フィンは、いつもの席で、二人を待っていた。テーブルの上には、既に、一枚の古びた地図が広げられている。
「来たか」
「はい。試練の内容を、教えてください」
セフィが、緊張した面持ちで尋ねると、フィンは、その地図を、セフィの方へと滑らせた。
「街の北にある、廃教会に行け。そこに、長年、成仏できずにいる霊がいる」
「霊、ですか」
「ああ。今まで、何人もの霊媒師や祓魔師が、あの教会に挑んできた。だが、誰一人として、その霊を鎮めることはできなかった」
フィンの言葉に、セフィは、息を呑んだ。地図には、街の北の外れに、小さく、教会の印が描かれていた。
*
「なぜ、鎮められなかったんですか」
セフィが尋ねると、フィンは、少し考えるように、視線を宙にさまよわせた。
「その霊は、あまりにも強い後悔と怒りを抱えてる。並の対話じゃ、聞く耳を持たないし、無理に祓おうとすれば、逆に、術者の方が呑まれる」
「呑まれる……」
セフィの脳裏に、あの妻子を守れなかった男の霊との対峙が、蘇った。あの時も、危うく、自分を見失いかけた。
「お前の課題は、その霊と、真正面から向き合い、対話を成立させること。無理に祓う必要はない。ただ、心を通わせられるかどうか、それを見る」
「分かりました」
セフィは、覚悟を決めて頷いた。
*
「一つ、忠告しておく」
フィンが、真剣な声で続けた。
「その霊は、これまで挑んだ誰よりも、お前の性質と、相性が悪いかもしれない」
「どういう、意味ですか」
「お前は、共感しやすい性質だろう。相手の悲しみに、深く入り込んでしまう」
「はい」
「その霊の抱える怒りと後悔は、生半可な共感じゃ、受け止めきれないほど、重い。下手をすれば、お前自身が、その怒りに呑まれて、二度と戻ってこられなくなるかもしれない」
フィンの警告に、セフィの背筋に、冷たいものが走った。
「それでも、やるか」
「やります」
セフィは、迷わず、そう答えた。
*
「わたしも、同行する」
キーラが、静かに、しかし断固とした声で言った。
「戦闘向きの霊じゃない。お前が行っても、あまり意味はないぞ」
フィンが、そっけなく指摘すると、キーラは、首を振った。
「戦うためじゃない。セフィが、危険な状態になった時、引き戻すためだ」
その言葉に、フィンは、少し驚いたように、キーラを見つめた。
「なるほど。悪くない考えだ」
フィンは、そう言うと、地図を、セフィに手渡した。
「今夜、日が沈んでから、その教会に行け。準備ができたら、始めるといい」
*
夕暮れ時、セフィとキーラは、教えられた廃教会へと向かった。
街の北の外れ、うち捨てられた区画に、その教会はあった。崩れかけた尖塔、蔦に覆われた壁、割れた窓――長年、放置されてきたことが、一目で分かる、荒れ果てた佇まいだった。夕闇が、その輪郭を、一層不気味に浮かび上がらせている。
「本当に、ここに?」
セフィが、扉の前で、深呼吸をした。
「ああ。感じるか」
キーラが、緊張した声で尋ねた。
「うん……すごく、重い気配がする」
セフィは、目を閉じ、意識を集中させた。教会の奥から、途方もない密度の、悲しみと怒りが入り混じった気配が、確かに伝わってくる。
「行こう」
セフィは、震える手で、扉を押し開けた。
*
教会の中は、埃と黴の匂いが、重く立ち込めていた。壊れた長椅子が、あちこちに倒れ、天井の一部は崩落し、そこから、夕暮れの薄明かりが、斜めに差し込んでいる。祭壇の前、その気配は、最も色濃く漂っていた。
「……誰だ」
低く、地の底から響くような声が、セフィの耳に届いた。祭壇の前に、輪郭の朧げな、男の姿が、ゆっくりと浮かび上がる。
「セフィといいます。話を、聞かせてもらえますか」
セフィが、震える声を必死に抑えて言うと、男の霊は、怒りに満ちた目で、こちらを睨みつけた。
「話す? 今更、何を話せというんだ。誰も、俺の言葉になど、耳を貸さなかったというのに」
男の声には、二百年近く積み重ねてきたであろう、深い怒りと絶望が、滲んでいた。
*
「わたしは、聞きます。どんな話でも」
セフィは、一歩、前に進み出た。感応の力を、慎重に、けれど確かに、男の気配へと重ねていく。
伝わってきたのは、断片的な記憶だった。かつて、この教会の司祭だった男。信徒たちを守ろうとして、けれど、力及ばず、皆を失った、あの日のこと。誰からも責められ、誰からも見捨てられた、その後の孤独な日々。
「そんな……あなたのせいじゃない」
セフィは、思わず、そう口にしていた。
「俺のせいだ! 俺が、もっと強ければ、もっと賢ければ、皆、死なずに済んだ!」
男の慟哭が、教会中に、鈍く反響した。その悲しみと怒りの奔流が、セフィの意識に、津波のように押し寄せてくる。
*
「うっ……」
セフィは、思わず、頭を抱えた。押し寄せる感情の濁流に、自分自身の輪郭が、少しずつ、曖昧になっていくのが分かる。視界が歪み、目の前の光景が、司祭の見た、あの惨劇の記憶と、混ざり合っていく。
「セフィ!」
キーラが、駆け寄ろうとした。けれど、セフィは、片手を上げて、それを制した。
*負けない。ここで、逃げたら、この人はずっと、一人のままだ。*
セフィは、必死に、自分の名前を、心の中で繰り返した。*わたしは、セフィ。セローズで生まれて、キーラと旅をしてる、セフィだ。*
その一念が、押し寄せる濁流の中、確かな錨となった。爪が、掌に食い込むほど強く、拳を握りしめる。その痛みだけを頼りに、セフィは、自分自身の輪郭を、必死に取り戻していった。
「あなたのせいじゃない」
セフィは、もう一度、はっきりと、そう告げた。
「あなたは、最後まで、皆を守ろうとした。それは、誰にも、否定できないことです」
「だが、結果は――」
「結果が全てじゃない。あなたの想いは、本物だった。それを、誰かが、ちゃんと知っている。それだけで、いいじゃないですか」
セフィの言葉に、男の霊は、初めて、動きを止めた。
*
長い、長い沈黙が流れた。
「……そう、なのか」
男の声から、少しずつ、あの激しい怒りが、抜け落ちていくようだった。
「二百年、ずっと、誰かに、そう言ってほしかった」
その呟きを最後に、男の輪郭が、淡い光へと変わっていった。
「ありがとう、嬢ちゃん」
その言葉を残し、光は、天井の崩れた穴から、夜空へと、静かに昇っていった。
*
「セフィ、大丈夫か!」
キーラが、駆け寄り、崩れ落ちそうになったセフィの体を、支えた。
「うん……なんとか」
セフィは、荒い息をつきながら、答えた。全身から、どっと力が抜けていく。
「よく、やった」
キーラの声には、確かな誇らしさが滲んでいた。
*
翌日、黒猫亭で、二人は、フィンに、昨夜の顛末を報告した。
「へえ……あの頑固な司祭を、鎮めたのか」
フィンは、意外そうに、目を見開いた。
「呑まれかけましたけど、なんとか」
セフィが、正直にそう答えると、フィンは、しばらく黙り込み、それから、ふっと笑った。
「上出来だ。一つ目の試練は、合格としてやる」
その言葉に、セフィとキーラは、思わず、顔を見合わせて微笑んだ。




