第二部 第十三章「出会い」
黒猫亭は、外観からして、他の店とは一線を画す佇まいをしていた。
木製の扉は、所々塗料が剥げ落ち、年月の重みを感じさせる。掲げられた看板には、確かに、黒猫を模した意匠が、彫り込まれていた。扉の隙間から漏れる灯りが、石畳に、ぼんやりとした輪郭を落としている。周囲の建物より、一回り古めかしい造りで、蔦が、外壁の一部を覆っていた。
「ここか」
キーラが、扉に手をかけながら、深く息を吸い込んだ。
「うん。行こう」
セフィも、覚悟を決めて、頷いた。心臓が、既に、早鐘を打ち始めている。ここまで長い道のりを経て、ようやく辿り着いた手がかりだった。何としても、無駄にしたくなかった。
*
扉を開けると、噎せ返るような、酒と煙草の匂いが、真っ先に鼻をついた。店内は薄暗く、天井の低い、こぢんまりとした空間だった。カウンター席と、いくつかのテーブル席があり、それぞれに、様々な客が腰掛けている。壁には、古びた絵画や、由来の分からない装飾品が、雑然と飾られていた。テーブルの木目には、長年の傷や焦げ跡が、無数に刻まれている。
セフィは、感応の力を、そっと働かせた。店内の人々の気配を、一人ずつ、丁寧に探っていく。
「……いる」
セフィが、小さく呟いた。店の隅、薄暗がりの中、一人だけ座る小さな人影があった。
*
近づいてみると、その人物は、確かに、少年としか思えない外見をしていた。緑がかった、癖のある髪。木の葉を思わせる質感の、不思議な色合い。肌には、うっすらと、木目のような紋様が浮かんでいる。年の頃は、十かそこら――けれど、その目に宿る色だけは、明らかに、その年齢に不釣り合いな、深い静けさを湛えていた。着ている服も、妙に古めかしい仕立てで、どこか、この時代にそぐわない雰囲気を醸し出している。
少年は、大きなジョッキを両手で抱え、退屈そうに、店内を眺めていた。
「あの……フィンさん、ですか」
セフィが、思い切って声をかけると、少年――フィンは、ゆっくりと視線を向けてきた。その眼差しが、一瞬、セフィの奥底まで見透かすような、鋭さを帯びた気がした。
「ん? 誰だ、お前」
「セフィといいます。あなたのことを、探していました」
「探してた? 俺を?」
フィンは、興味なさそうに、ジョッキに口をつけた。
「珍しいこともあるもんだな。俺に用がある奴なんて、そうそういないんだが」
「隣、座ってもいいですか」
セフィが尋ねると、フィンは、面倒くさそうに、肩をすくめた。
「好きにしろ。止める権利もない」
セフィとキーラは、フィンの向かいの椅子に、腰を下ろした。近くで見ると、フィンの纏う雰囲気には、確かに、只者ではない何かが漂っていた。
*
「実は、弟子入りを、お願いしたくて」
セフィが、単刀直入にそう切り出すと、フィンは、盛大に噴き出した。
「弟子入り? はは、面白いことを言う嬢ちゃんだ」
「本気です」
「本気で言ってるのが、余計におかしいんだよ」
フィンは、笑いを収めながら、セフィを、じろじろと眺め回した。
「見たところ、死者の声が聞こえる系統の力、持ってるみたいだな。それで、俺のところに来たってわけか」
「はい。祖母から聞いた、リアナという人が――」
「知らんな、そんな奴」
フィンは、あっさりと、セフィの言葉を遮った。
「悪いが、俺は、弟子を取る趣味はない。面倒事は、御免だ」
「どうしても、駄目ですか」
「駄目だ。何度聞かれても、同じだぞ」
フィンは、そう言って、再びジョッキに口をつけた。その態度は、取り付く島もなかった。
「なんで、そんなに嫌がるんですか」
セフィが、思わず尋ねると、フィンは、うんざりしたように、天井を仰いだ。
「理由が知りたいか? 単純な話だ。誰かに何かを教えるってのは、面倒くさい。それだけだ」
「教えてもらえたら、わたし、絶対に頑張ります」
「頑張る頑張らないの問題じゃないんだよ、嬢ちゃん」
フィンは、少し苛立ったように、テーブルを軽く叩いた。
「俺はな、もう、何百年も、色んな奴を見てきた。頑張る奴も、諦める奴も、山ほど見てきたんだ。今更、誰かに肩入れする気なんて、起きやしない」
その言葉には、単なる面倒くささ以上の、何か深い倦怠が滲んでいるように、セフィには感じられた。
*
「お願いします。どうしても、力の使い方を、ちゃんと学びたいんです」
セフィが、なおも食い下がると、フィンは、うんざりしたように、頭を掻いた。
「しつこいな。断ってるのが、聞こえなかったか」
「聞こえてます。でも、諦めません」
セフィの、真っ直ぐな眼差しに、フィンは、一瞬、たじろいだような表情を見せた。それも、すぐに、いつもの飄々とした態度に戻ってしまったが。
「はいはい、根性だけは、認めてやるよ。だが、それとこれとは、話が別だ」
「なぜ、駄目なんですか」
「理由なんて、言う必要あるか? 俺が嫌だと言ったら、それで終わりだ」
フィンの言葉には、取り付く島もない、突き放すような響きがあった。それでも、セフィは、諦めきれなかった。
「じゃあ、何か、条件はありますか。何かすれば、考えてもらえるとか」
セフィが、食い下がるようにそう尋ねると、フィンは、少し面白そうに、目を細めた。
「条件、ねえ」
フィンは、しばらく黙り込んだ。何かを考えているような、それでいて、ただ焦らしているだけのような、掴みどころのない沈黙だった。
「まあ、いい。今日のところは、これで終わりだ」
「え……」
「明日も、しつこく来るつもりなんだろう。好きにすればいい。だが、今は、酒を静かに飲みたい気分でな」
フィンは、そう言って、セフィたちから、興味を失ったように、視線を逸らした。取り付く島もない態度だったが、完全な拒絶とも、少し違う響きが、その言葉には、微かに混じっていた。
*
「セフィ」
隣で様子を見守っていたキーラが、そっと声をかけた。
「今日は、これくらいにしておけ。相手にも、都合があるんだろう」
「でも……」
「一度で、うまくいくとは、思ってなかっただろう」
キーラの言葉に、セフィは、渋々ながらも、頷いた。
「分かった」
セフィは、フィンに向き直り、深く頭を下げた。
「今日は、失礼しました。でも、諦めたわけじゃありません。また、来ます」
フィンは、その言葉に、片眉を上げただけで、何も答えなかった。ただ、その目の奥に、微かな、興味の色が灯ったことに、キーラだけが、気づいていた。
*
黒猫亭を出た後、セフィは、大きなため息をついた。
「あっさり、断られちゃった」
「予想はしてたことだろう」
「うん……でも、悔しい」
セフィは、拳を握りしめながら、そう呟いた。
「あの人、何百年も生きてるって、本当に言ってたね」
「ああ。それに、色んな奴を見てきた、とも」
キーラが、思い返すように呟いた。
「なんだか、寂しそうな言い方だったよね。誰かに肩入れする気になれない、って」
セフィが、ぽつりとそう言うと、キーラは、少し考え込んだ。
「長く生きすぎると、そういう風になるのかもしれないな。出会いも、別れも、数えきれないほど繰り返してきたんだろう」
「そう考えると、なんだか、切ないね」
セフィの言葉に、キーラは、静かに頷いた。
「明日も、行くのか」
「うん、行く。諦めない」
セフィの決意に、キーラは、静かに頷いた。
「なら、付き合う。何度でも、通えばいい」
「ありがとう、キーラ」
「礼はいい。それより、どうやって、あいつを口説き落とすか、作戦を練った方がいいんじゃないか」
キーラの提案に、セフィは、はっとした。
「そうだね。ただ頼み込むだけじゃ、駄目かもしれない」
「あいつが、何百年も見てきて、飽きるほど見飽きてないもの――そういうものを、見せつけられればいいんだろうがな」
「例えば?」
「さあな。それを考えるのが、お前の仕事だ」
キーラが、そっけなくそう言うと、セフィは、少し口を尖らせた。
「キーラも、一緒に考えてよ」
「まあ、暇な時にでもな」
軽口を交わしながら、二人は、宿への道を歩き始めた。
夜の街を歩きながら、セフィは、先ほどのフィンの、あの深い静けさを湛えた目を、思い返していた。飄々とした態度の奥に、何か、途方もない年月の重みを、確かに感じ取った気がした。
「絶対、認めてもらう」
セフィの呟きが、夜風に、静かに溶けていった。この出会いが、これから始まる長い攻防の、最初の一歩に過ぎないことを、セフィは、まだ知らなかった。




