第二部 第十章「ふかふかの寝床」
「いらっしゃいませ」
三日月亭の扉をくぐると、恰幅の良い女将が、朗らかな笑顔で迎えてくれた。店内は、木の温もりを感じさせる内装で、暖炉には、既に火が入れられている。パチパチと爆ぜる薪の音と、暖かな空気が、旅の疲れを、じんわりと解きほぐしてくれるようだった。壁には、旅人たちが残していったのだろう、様々な土地の飾り物や、絵葉書が、所狭しと飾られている。
「お部屋、空いてますか」
セフィが尋ねると、女将は、帳簿を確認しながら答えた。
「ええ、二人部屋なら、ちょうど一つ空いてますよ。一泊、朝食付きで、銀貨二枚になりますが」
「お願いします」
キーラが、迷わず答えた。懐から取り出した銀貨は、素材採取の際に持ち合わせていた、なけなしのものだった。明日、魔物の素材を売れば、もっと余裕ができるはずだと、二人は既に話し合っていた。
「お二人は、旅の方ですか?」
女将が、興味深そうに尋ねてきた。
「はい。バルドウィックには、初めて来ました」
セフィが答えると、女将は、目を細めて笑った。
「そうですか。良い街ですよ、ここは。ゆっくりしていってくださいね」
その温かい言葉に、セフィは、旅の疲れが、少し和らぐのを感じた。
*
案内された部屋は、こぢんまりとしていたが、清潔に整えられていた。床は、丁寧に磨かれており、壁には、染み一つ見当たらない。窓からは、通りを見下ろすことができ、灯り始めた街の明かりが、ちらちらと瞬いている。小さな机と椅子が、部屋の隅に置かれ、その上には、水差しと、清潔な布が用意されていた。
部屋の中央には、大きなベッドが、二つ並んで置かれていた。柔らかそうな布団が、きちんと畳まれている。
「わあ……!」
セフィは、思わず、そのベッドに駆け寄り、勢いよく飛び込んだ。
「ふかふか……!」
沈み込むような、柔らかな感触に、セフィは、思わず声を上げた。地面の上や、硬い床の上で眠ることに慣れていた体には、それはまるで、夢のような感触だった。顔を埋めた枕からは、日向のような、ほのかに良い香りがした。
「そんなに、はしゃぐことか」
キーラが、呆れたように笑いながら、自分のベッドに腰掛けた。控えめに、ぽふん、と沈み込むベッドの感触に、キーラも、満更でもなさそうな表情を浮かべていた。
「だって、こんなの、久しぶりなんだもん! キーラも、分かるでしょう」
「まあ、悪くはない、な」
キーラは、そう言いながらも、自分のベッドに、そっと寝転がってみせた。
「ほら、キーラも嬉しそう」
「そんなことは、言ってない」
キーラが、慌てて起き上がろうとすると、セフィは、くすくすと笑った。
セフィは、ベッドの上で、何度も転がりながら、その感触を、存分に味わっていた。
*
「そういえば、お腹すいたね」
一頻り、ベッドの感触を楽しんだ後、セフィが、思い出したように言った。
「ああ、下の食堂で、何か食べよう」
キーラの提案に、セフィは、勢いよく立ち上がった。
「行こう、行こう!」
食堂は、宿泊客たちで、それなりに賑わっていた。木のテーブルが並び、それぞれの席で、旅人たちが、思い思いに食事を楽しんでいる。談笑する商人たちの声、食器のぶつかる音、厨房から漂う、様々な料理の匂いが、混じり合っていた。
「何にする?」
給仕の女性に渡されたメニューを覗き込みながら、セフィは、目を輝かせた。
「これ、全部美味しそう……! 迷っちゃう」
「好きなだけ、頼めばいい。今夜くらいは、贅沢しても罰は当たらないだろう」
キーラの言葉に、セフィは、ぱあっと表情を明るくした。
「じゃあ、これと、これと……あ、これも気になる」
「そんなに頼んで、食べきれるのか」
「キーラも手伝ってくれるでしょ?」
「まあ、な」
そんなやり取りの末、二人は、香草焼きの鶏肉、野菜の煮込みスープ、焼きたてのパン、そして、果物を使った甘いデザートまで、注文することにした。
*
運ばれてきた料理は、これまでの旅で食べてきたものとは、比べ物にならないほど豪華だった。香草を効かせて焼いた鶏肉は、皮がぱりっと香ばしく、中の肉は驚くほど柔らかい。とろとろに煮込まれた野菜のスープは、優しい味わいが、体の芯まで染み渡るようだった。
「いただきます……!」
セフィは、まず、パンを一口齧った。ふわりとした食感と、バターの香りが、口いっぱいに広がる。
「美味しい……! こんなパン、初めて食べた」
「わたしも、悪くない味だと思う」
キーラも、鶏肉を頬張りながら、満足そうに頷いた。
「このスープも、すごく優しい味」
セフィは、スプーンを口に運びながら、うっとりとした表情を浮かべた。
「今度、パン屋のおじさんに、この味も教えてもらおうかな」
セフィが、そんなことを呟くと、キーラは、苦笑した。
「霊から教わる知識も、随分、幅広くなってきたな」
「便利なんだもん、この力」
デザートの甘い果物にも、二人は舌鼓を打った。蜜のように甘い果汁が、口いっぱいに広がる。
「これ、リアナお姉ちゃんに、食べさせてあげたかったな」
セフィが、ふと呟いた言葉に、キーラは、静かに耳を傾けた。
「甘いもの、好きだったんだろう」
「うん。蜂蜜をかけたパンが好きだって、言ってた」
「今度、そういうパンを見つけたら、供えてやればいい」
キーラの提案に、セフィは、少し驚いたように目を見開き、それから、柔らかく微笑んだ。
「うん、そうする」
二人は、しばらくの間、料理に舌鼓を打ちながら、他愛のない会話を楽しんだ。旅の疲れが、温かい食事と共に、少しずつ、溶けていくようだった。
*
「なあ、セフィ」
食事を終える頃、キーラが、ふと口を開いた。
「明日は、朝一番で、鑑定士組合に行こう。素材を売って、それから、フィンの手がかりを探す」
「うん、そうだね」
「フィンって人、どんな手がかりから探せばいいんだろう」
セフィが、少し不安げに尋ねると、キーラは、腕を組んで考え込んだ。
「冒険者なら、冒険者組合か、酒場あたりで、噂を集めるのが早いだろうな」
「なるほど。じゃあ、明日は、そっちにも行ってみる?」
「ああ。鑑定を終えたら、そのまま、情報収集に回ろう」
「うん、分かった」
「今夜は、しっかり休んで、英気を養っておけ」
キーラの言葉に、セフィは、大きく頷いた。
「キーラも、ちゃんと休んでね。肩の傷、まだ完全には治ってないでしょう」
「心配性だな、お前は」
「キーラのことだから、余計に心配になるの」
セフィがそう言うと、キーラは、少し照れくさそうに、視線を逸らした。
「……分かった。ちゃんと休む」
その素直な返事に、セフィは、満足げに微笑んだ。
*
部屋に戻り、二人は、それぞれのベッドに横になった。柔らかな布団の感触に、セフィは、思わず、ほうっと息を吐いた。
「幸せ……」
「大袈裟だな」
「大袈裟じゃないよ。ずっと地面で寝てたんだから、これくらいの喜びは、許してほしい」
セフィが、頬を膨らませながら反論すると、キーラは、くすくすと笑った。
「分かった、分かった。存分に、堪能すればいい」
「うん!」
セフィは、柔らかな枕に頭を沈めながら、窓の外を見つめた。街の明かりが、カーテンの隙間から、微かに差し込んでいる。遠くから、微かに、夜の街の喧騒が聞こえてきた。
「明日から、また忙しくなりそうだね」
「ああ。だが、今夜くらいは、何も考えずに眠るといい」
キーラの言葉に、セフィは、素直に頷いた。
「ねえ、キーラ」
しばらくの沈黙の後、セフィが、ふと口を開いた。
「なんだ」
「今日一日、本当に、色んなことがあったね。街に着いて、宿を見つけて、美味しいご飯を食べて」
「そうだな。振り返ると、随分、盛り沢山な一日だった」
「明日は、鑑定士組合に行って、それから、フィンさんの手がかりも探すんだよね」
「ああ。忙しくなるだろうが、一つずつ、片付けていこう」
「うん」
セフィは、天井を見上げながら、静かに目を閉じた。柔らかな布団の温もりに包まれながら、これまでの旅路を、そっと振り返る。悲しみも、苦しみも、たくさんあった。けれど、こうして、温かい食事と、ふかふかの寝床で眠れる夜が来たことに、セフィは、静かな幸福を噛みしめていた。
「キーラ、今日も、ありがとう」
「何回目だ、その台詞は」
キーラが、呆れたように、けれど優しい声で答えた。
「何回でも、言いたいの」
「勝手にしろ」
そっけない返事の中に、確かな温かさが滲んでいた。
「おやすみ、キーラ」
「おやすみ、セフィ」
明日には、また新しい一歩が、待っている。その予感を胸に、セフィは、深い眠りへと、静かに落ちていった。




