第二部 第九章「大都市バルドウィック」
城門をくぐった瞬間、セフィは、思わず立ち止まった。
石畳の広い通りが、真っ直ぐに奥まで続いている。両側には、二階建て、三階建ての建物が、隙間なく軒を連ね、その一階部分には、様々な店が、所狭しと並んでいた。パン屋、鍛冶屋、布屋、宿屋――看板の種類だけでも、数えきれないほどだった。窓辺には、色とりどりの花を植えた鉢が並び、建物の壁面には、精緻な彫刻が施された箇所もあった。
「すごい……人が、こんなに」
セフィは、行き交う人々の多さに、圧倒されていた。荷物を運ぶ人足、井戸端で立ち話をする女たち、駆け回る子どもたち、馬に乗った身なりの良い男――様々な人生を歩む人々が、狭い通りに、ひしめき合っている。
石畳を打つ、無数の足音と蹄の音。呼び込みの声。どこからか漂う、焼きたてのパンの匂いと、香辛料の匂い。それら全てが、一度に押し寄せてきて、セフィは、しばらくの間、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
「大丈夫か、セフィ」
キーラが、様子を窺うように声をかけてきた。
「う、うん……ちょっと、圧倒されちゃって」
「無理もない。わたしも、似たようなものだ」
キーラは、そう言いながらも、油断なく周囲に目を配っていた。人混みの中では、思わぬ危険もあるかもしれないと、警戒しているようだった。
*
「はぐれるなよ」
キーラが、セフィの手を、しっかりと握った。硬く、けれど温かいその手の感触に、セフィは少し安堵した。
「うん」
セフィは、その手を握り返しながら、人混みの中を、慎重に進んでいった。すれ違う人々の話す言葉には、聞き慣れない訛りも混じっており、それすらも、この街の異国情緒を、一層引き立てているようだった。
「ケルヴィンとは、比べ物にならないな」
キーラも、周囲を見回しながら、感嘆したように呟いた。狼の耳が、あちこちから聞こえる喧騒に、忙しなく反応している。
「キーラでも、驚くんだね」
「こんな規模の街、来たことがない。正直、少し、圧倒されてる」
キーラの珍しく素直な告白に、セフィは、少し安心した。自分だけが戸惑っているわけではないのだと思うと、心強かった。
*
通りを進むと、大きな広場に出た。中央には、石造りの噴水があり、水しぶきが、陽光を受けて、きらきらと輝いている。広場の周りには、露店が、ずらりと並んでいた。噴水の縁には、休憩する旅人たちが、思い思いに腰を下ろしている。
「見て、あれ」
セフィが指差した先には、色とりどりの布が、山のように積まれた露店があった。異国風の柄をした布、金糸で刺繍された布――これまで見たこともないような、鮮やかな品々が、所狭しと並んでいる。
「あっちには、武器屋もあるな」
キーラの視線の先には、様々な種類の剣や、槍、弓が、店先に陳列されていた。中には、見たこともない形状の武器もあり、キーラは、興味深そうに、目を細めていた。
「あの、湾曲した剣、見たことないね」
「南方の意匠だろう。この街には、色んな地方から、物が集まってくるんだろうな」
「後で、ゆっくり見て回ろう。今は、まず、素材を売る場所を探さないと」
「うん、そうだね」
セフィは、名残惜しそうに、露店の数々を、もう一度見渡した。いつか、この街をゆっくり歩き回る日が来ることを、密かに楽しみにしながら。
そんな中、セフィの後ろを歩いていた、みすぼらしい身なりの少年が、すっと、セフィの荷物に手を伸ばした。
「――やめておけ」
キーラが、振り返りもせずに、低く鋭い声で言った。少年は、びくりと肩を震わせ、慌てて手を引っ込め、人混みの中へと逃げていった。
「え……今の、何?」
セフィが、状況を呑み込めずに尋ねると、キーラは、そっけなく答えた。
「スリだ。この手の街には、付き物だ。気をつけろ」
「全然、気づかなかった……」
「気配で分かる。今後は、荷物は、体の前で抱えておけ」
「うん、分かった」
セフィは、慌てて、荷物を抱え直した。華やかな街並みの裏に、こうした危険も潜んでいるのだと、改めて実感させられた出来事だった。
「キーラがいてくれて、本当によかった」
「これくらいは、当然のことだ」
キーラは、そっけなくそう言ったが、その口元には、微かな得意げな笑みが浮かんでいた。
*
「すみません、素材の買取をしてくれるお店って、どこにありますか」
セフィが、通りすがりの商人らしき男に尋ねると、男は、親切に道を教えてくれた。
「ああ、それなら、中央広場から東に行った先だ。『鑑定士組合』の看板が、目印になる」
「ありがとうございます!」
セフィは、深々と頭を下げた。男は、軽く手を振って、雑踏の中へと消えていった。
「親切な人で、よかったね」
「この街の人間、みんながみんな、ああとは限らないだろうがな」
キーラの現実的な言葉に、セフィは、少し苦笑した。
「そうだね。気をつけないと」
教えられた通りに進むと、確かに、大きな看板を掲げた建物が見えてきた。石造りの、重厚な佇まいの建物だった。窓には、鉄格子がはめられ、扉には、頑丈そうな金具が取り付けられている。貴重な品を扱う場所らしい、厳重な造りだった。
「ここか」
キーラが、建物を見上げながら呟いた。
「思ったより、立派な建物だね」
「腕の良い鑑定士が揃ってる証拠かもしれないな」
二人は、顔を見合わせ、頷き合った。この建物の中で、あの魔物の正体が、ついに明らかになる。そう思うと、セフィの胸は、期待と緊張で、大きく高鳴っていた。
*
けれど、建物の前まで来たところで、キーラが、ふと足を止めた。
「待て。今日は、もう遅い。見ろ、あそこに閉店の札が下がってる」
キーラの指差す先、扉には確かに、「本日の営業は終了しました」という札が、掛けられていた。
「あ……」
セフィは、少しがっかりした様子で、肩を落とした。
「仕方ない。今日は、宿を探して、明日、出直そう」
「そうだね。でも、なんだか、悔しい」
「気持ちは分かるが、疲れた体で無理をしても、ろくなことにならない。今日は、ゆっくり休むぞ」
キーラの言葉に、セフィは、素直に頷いた。
「うん。じゃあ、宿、探そうか」
「その前に、少し、この辺りを見て回るか。宿の相場も、知っておいた方がいい」
キーラの提案に、セフィも頷いた。二人は、鑑定士組合の建物を後にし、周辺の通りを、ゆっくりと歩き始めた。
*
夕暮れの街並みは、また違った表情を見せていた。店々に、次々と明かりが灯り始め、温かな橙色の光が、石畳の通りを照らしていく。どこからか、楽器の音色も聞こえてきた。弦楽器の、物悲しくも軽やかな旋律が、賑やかな喧騒の合間を縫うようにして、耳に届く。
「なんだか、素敵な雰囲気」
セフィが、うっとりとした様子で呟くと、キーラも、周囲を見渡しながら頷いた。
「昼間とは、また違う顔だな」
通りの角では、屋台の店主が、威勢よく客を呼び込んでいた。串焼きの香ばしい匂いが、セフィの鼻先をくすぐる。
「あれ、美味しそう……」
セフィが、思わず足を止めると、キーラも、同じ方向を見つめた。
「今夜の夕食の候補に、入れておこう」
「うん!」
宿の看板も、いくつか目に留まった。「金の鷲亭」「旅人の休息」――様々な名前が、それぞれの趣向を凝らした看板に、書かれている。
「宿、どんな感じのところにする?」
「素材を売った後なら、少し贅沢もできるはずだ。今夜は、清潔で、飯が美味い宿を探そう」
キーラの提案に、セフィは、目を輝かせた。
「賛成! 探そう、探そう」
「ただ、今日のところは、明日の換金までの繋ぎだ。あまり贅沢しすぎるなよ」
「分かってるよ、それくらい」
セフィが、口を尖らせながら答えると、キーラは、くすりと笑った。
二人は、手を繋いだまま、夕暮れの街並みを、宿を探して、歩き始めた。初めて訪れた大都市の喧騒と煌めきに、セフィの胸は、まだ、高鳴り続けていた。この街のどこかに、フィンという師匠が、そして、探し求める真実への手がかりが、待っているはずだった。
石畳の道を歩きながら、セフィは、ふと空を見上げた。建物の隙間から覗く空は、既に、深い藍色に染まりつつあった。星が、ぽつぽつと瞬き始めている。故郷の空とも、旅の道中で見てきたどの空とも、少し違う色に見えるのは、きっと、この街の明かりが、地上から空を照らしているからなのだろう。
「セフィ、あそこ、良さそうじゃないか」
キーラの声に、セフィは、我に返った。指差された先には、こぢんまりとした、けれど清潔感のある佇まいの宿があった。看板には、「三日月亭」と書かれている。
「行ってみよう!」
セフィは、はやる気持ちを抑えきれず、キーラの手を引いて、その宿へと向かって、駆け出した。長い旅路の果てに、ようやく訪れた、束の間の安らぎの時間が、今、始まろうとしていた。




