第二部 第八章「旅の終わりに見えるもの」
その日の午後、丘を一つ越えたところで、二人は、思わず足を止めた。
眼下に広がる盆地の向こうに、これまで見てきたどの町よりも遥かに大きな、灰色の城壁に囲まれた都市が、姿を現していた。城壁の内側には、無数の屋根がひしめき合い、中央には、ひときわ高い塔が、空を突くようにそびえている。かすかに、鐘の音が、風に乗って聞こえてきた。夕暮れ前の柔らかな光が、街全体を、淡い金色に染め上げている。
「あれが……バルドウィック」
セフィは、思わず、息を呑んだ。ケルヴィンとは、比較にならないほどの規模だった。遠目にも分かるほど、街道には、荷馬車や、隊列を組んだ旅人たちの姿が、絶え間なく行き交っている。
「思ったより、でかいな」
キーラも、目を細めて、その威容を見つめていた。狼の耳が、遠くから響く街の喧騒を捉えようとするかのように、微かに動いている。
「あんな大きな街、初めて見た」
セフィは、丘の上に立ち尽くしたまま、しばらくの間、その光景に見入っていた。故郷のセローズも、ケルヴィンも、あの街の前では、ほんの一角にも満たないだろう。城壁の外側には、畑や牧草地が、緩やかに広がり、点々と、小さな集落も見える。街を中心に、これほど広い範囲が、一つの経済圏として機能しているのだと思うと、その規模の違いに、改めて眩暈がするようだった。
*
丘を下りながら、セフィは、ふと、この旅の始まりを振り返った。
ケルヴィンを出発したのは、もう一月以上前のことだった。あの時は、リアナを失った悲しみを抱えたまま、キーラという、まだよく知らない相手と、二人きりで歩き出したのだった。あの頃の自分は、今よりもずっと、心細かった気がする。
「長かったね、この旅」
セフィがぽつりと呟くと、キーラも、頷いた。
「ああ。色々、あったな」
「盗賊に襲われたり、魔物と戦ったり」
「お前の力にも、随分助けられた」
「キーラの剣にも」
軽口のように交わした言葉だったが、その端々には、確かな信頼が滲んでいた。
「最初の頃は、こんなに長く一緒にいることになるとは、思ってなかったな」
キーラが、ふと呟いた。
「そうなの?」
「ああ。せいぜい、ケルヴィンで別れるものだと思ってた」
「なんで、一緒に来てくれたの?」
セフィが尋ねると、キーラは、少し考えるように、視線を空に向けた。
「さあな。気づいたら、当たり前のように、隣を歩いていた。理由なんて、後付けでしかないのかもしれない」
その答えに、セフィは、なんだか嬉しくなった。理屈ではなく、自然とそうなった、という関係性が、何より心地よく感じられた。
*
「なあ、キーラ」
セフィは、歩きながら、改まった調子で切り出した。
「この旅が始まった時、正直、どう思ってた? わたしと、一緒に行くこと」
キーラは、しばらく黙り込んでから、答えた。
「正直に言えば、最初は、深く考えていなかった。恩義もあったし、他に行くあてもなかった。だから、成り行きで、ついてきただけだった」
「そう、なんだ」
「だが」
キーラは、セフィの方を見て、続けた。
「今は、違う。お前と旅をする中で、色んなものを、取り戻せた気がする。目的を失って、空っぽだったわたしに、また、進むべき方向をくれた」
その言葉に、セフィは、胸が熱くなるのを感じた。
「わたしこそ、キーラがいなかったら、ここまで来られなかった。感謝してる」
「感謝、か。似合わないな、そういう畏まった言い方は」
キーラが、照れ隠しのようにそう言うと、セフィは、くすりと笑った。
「じゃあ、普通に言うね。キーラ、一緒にいてくれて、ありがとう」
「……どういたしまして」
ぶっきらぼうな返事だったが、その声には、確かな温かさが滲んでいた。
*
「これから、もっと大変なことも、あるかもしれないね」
セフィが、遠くの城壁を見つめながら、呟いた。
「フィンさんを見つけるのも、簡単じゃないだろうし。それに、その先には、もっと大きな謎が、待ってる気がする」
「怖いか」
キーラが、静かに尋ねた。
「怖くない、と言ったら、嘘になる。でも」
セフィは、隣を歩くキーラを見上げた。
「キーラが、一緒にいてくれるなら、頑張れる気がする」
その言葉に、キーラは、少し驚いたように目を見開いた。それから、口元を緩め、静かに頷いた。
「ああ。どこまでも、付き合ってやる」
「本当に?」
「約束は、守る主義だ」
キーラの言葉に、セフィは、心強さを噛みしめた。
「セフィ、一つ、聞いていいか」
キーラが、ふと、真剣な顔で尋ねた。
「なに?」
「お前が探してる真実ってやつは、見つかったとして、必ずしも、いいものとは限らないかもしれない。それでも、知りたいか」
その問いに、セフィは、しばらく考え込んだ。両親を奪った、あの天変地異。その裏に、何があったのか。それを知ることが、必ずしも救いになるとは、限らない。むしろ、もっと辛い真実が、待っているかもしれない。
「知りたい」
それでも、セフィは、はっきりとそう答えた。
「たとえ、辛いことでも、知らないままでいるより、ずっといい。父さまと母さまが、どうしていなくなったのか、ちゃんと分かってあげたい」
「そうか」
キーラは、それ以上、何も聞かなかった。ただ、その決意を、静かに受け止めているようだった。
「わたしも、お前が真実に辿り着くまで、隣にいる。どんな結末でも、一人で抱えさせはしない」
キーラの言葉に、セフィは、深く頷いた。まだ見ぬ困難が、この先に待っていようとも、隣に誰かがいるという事実だけで、これほどまでに、心が軽くなるものかと、改めて実感していた。
*
「あとどれくらいで、着きそう?」
セフィが尋ねると、キーラは、太陽の位置を確かめながら答えた。
「この調子なら、日が沈む前には、城門にたどり着けるはずだ」
「今夜は、ちゃんとした宿に泊まれるんだね」
「ああ。ふかふかの寝床が、待ってるはずだ」
キーラの言葉に、セフィは、思わず顔をほころばせた。
「楽しみ……! ずっと、地面で寝てたから」
「贅沢を言うようになったな」
「だって、人間だもん。快適な方がいいに決まってる」
「それもそうか」
キーラが、珍しく声を上げて笑った。その明るい笑い声に、セフィも、つられるように笑った。
「お風呂にも、入りたいな」
「ああ、大きな街なら、湯屋くらいあるだろう」
「本当に? 楽しみすぎる」
セフィが、両手を組んで喜びを表現すると、キーラも、釣られたように、頬を緩めた。
「そんなに喜ばれると、こっちまで、嬉しくなってくるな」
「だって、ずっと我慢してたんだもん」
「まあ、その気持ちは、分からなくもない」
そんな他愛のない会話を交わしながら、二人の足取りは、自然と軽くなっていった。
*
丘を下りきり、街道は、次第に人通りの多い道へと変わっていった。荷馬車とすれ違うことも、頻繁になってくる。行き交う旅人たちの服装も、これまで通ってきた田舎町とは、明らかに違う、洗練されたものが目立った。商人らしき一団が、大きな荷を積んだ馬車を引き、その後ろを、護衛と思しき武装した男たちが、警戒するように歩いている。
「なんだか、緊張してきた」
セフィが、正直にそう漏らすと、キーラも、少しだけ表情を引き締めた。
「わたしも、正直、慣れない場所は苦手だ。だが、一緒にいれば、なんとかなるだろう」
「うん、そうだね」
道沿いには、簡素な露店も並び始めていた。焼いた栗の匂いや、揚げ物の香ばしい匂いが、風に乗って漂ってくる。セフィは、思わず、その匂いに引き寄せられそうになった。
「お腹、空いてきた」
「街に入ったら、何か食べよう。金は、十分にある」
キーラの言葉に、セフィは、笑顔で頷いた。
二人は、互いに顔を見合わせ、小さく頷き合った。城壁が、少しずつ、その全貌を露わにしていく。近づくにつれ、その壁の高さと厚みが、圧倒的な存在感を持って迫ってきた。石を積み上げた壁面には、長年の風雨に晒された跡が、無数に刻まれている。
門の前には、既に、多くの人々が列を作っていた。荷物を検められる商人、身分証を提示する旅人――様々な人々が、それぞれの理由で、この街への入場を待っていた。
「あれが、バルドウィックの、正門か」
キーラが、感嘆したように呟いた。見上げるほどに高い門柱には、精緻な彫刻が施され、その両脇には、武装した衛兵が、厳めしい顔で立っている。門の上部には、帝国の紋章が、大きく掲げられていた。
セフィは、大きく息を吸い込んだ。この先に、フィンという師匠との出会いが、そして、世界の真実へと繋がる、新たな手がかりが、待っているはずだった。門の前に並ぶ人々の列は、思いのほか、順調に進んでいるようだった。
「わたしたちも、並ぼう」
キーラに促され、セフィは、列の最後尾についた。周りには、様々な身なりの旅人たちが並んでいる。大きな荷を背負った行商人、疲れた様子の巡礼者、身なりの良い商家の使いらしき者――皆、それぞれの目的を胸に、この街を訪れようとしていた。
「行こう、キーラ」
「ああ」
夕暮れの光に照らされながら、二人は、しっかりとした足取りで、大都市バルドウィックの門へと、歩みを進めていった。長かった旅の一章が、今、静かに幕を閉じようとしていた。門をくぐった先に、どんな出会いと、どんな真実が待っているのか――その答えは、まだ、誰にも分からなかった。




