第二部 第六章「対峙」
キーラが、地を蹴った。
低い姿勢のまま、魔物との距離を、瞬時に詰めていく。魔物は、その気配に気づき、赤い瞳を、ぎらりとキーラへと向けた。土を蹴る足音が、静まり返った森に、鋭く響き渡る。
「グルルルル……!」
低い唸り声と共に、魔物の体表から、パチパチと音を立てて、光の粒子が弾ける。次の瞬間、その粒子が、鋭い針のように、キーラへと放たれた。
「くっ……!」
キーラは、咄嗟に、横に転がるようにして、それをかわした。針は、キーラがいた場所の地面に突き刺さり、土を、抉るように弾き飛ばした。土煙が舞い上がり、焦げたような匂いが、あたりに立ち込める。
木の陰から様子を窺っていたセフィは、その光景に、思わず息を呑んだ。*こんな攻撃、まともに受けたら……*想像するだけで、背筋が凍りついた。手のひらに、じっとりと汗が滲む。
「セフィ、今だ!」
キーラの合図に、セフィは、素早く意識を集中させた。震える指先を、握りしめるようにして、心を静める。周囲の音を、一つ一つ、意識の外側へと押しやっていく。
「感応――」
森の奥に眠る、古い死者たちの気配を、セフィは一斉に呼び起こした。かすかな声、囁き、気配――それらを、まるで音の渦のように、魔物の周囲に、意図的に広げていく。
「グルア……?」
魔物が、一瞬、戸惑うように、頭を左右に振った。その隙を、キーラは、見逃さなかった。
*
「はあっ!」
キーラは、魔物の側面に回り込み、二本の短剣を、交差させるようにして、その脚の関節に叩き込んだ。硬い結晶に阻まれ、刃は深くまでは通らなかったが、確かな手応えが、キーラの腕に伝わった。
「ギャアアッ!」
魔物が、苦悶の声を上げ、体を大きく仰け反らせた。その拍子に、鋭い前脚が、キーラへと振り下ろされる。
「危ない!」
セフィが叫ぶと同時に、キーラは、体を捻るようにして、その一撃をかわした。けれど、完全には避けきれず、肩口を、浅く掠めていった。布地が裂け、赤い血が、じわりと滲み出す。
「うっ……!」
「キーラ!」
セフィは、思わず、立ち上がりかけた。けれど、まだ魔物の意識が完全にこちらから逸れていない今、迂闊に飛び出せば、二人とも危険に晒される。震える足を、必死に押しとどめた。
「平気だ、かすり傷だ」
キーラは、痛みを押し殺すように歯を食いしばりながら、体勢を立て直した。傷ついた肩を庇いながらも、その目には、まだ確かな闘志の光が宿っている。
*
「セフィ、もう一度、頼む」
「うん!」
セフィは、再び意識を集中させた。今度は、より強く、感応の力を広げる。同時に、旅の踊り子から受け継いだ、しなやかな身のこなしの感覚も、体に呼び覚ました。
「同調――」
体が、驚くほど軽くなる。セフィは、その感覚を頼りに、魔物の視界の端を、素早く駆け抜けた。足が地面を蹴るたび、まるで羽根のように、体が跳ねる。自分のものとは思えないほど、滑らかな動きだった。
「グルルッ!」
魔物の意識が、一瞬、セフィへと向いた。赤い瞳が、ぎらりとこちらを捉える。心臓が、凍りつくほどの重圧を、セフィは全身で受け止めた。それでも、足を止めるわけにはいかなかった。
その隙に、キーラが、再び踏み込んだ。傷ついた肩を庇いながらも、その動きに、迷いは一切なかった。
「今度こそ……!」
キーラの短剣が、先ほど傷つけた脚の関節に、深々と突き刺さる。結晶が砕け散る、鋭い音が響いた。粉々になった結晶の欠片が、夕暮れの光を受けて、きらきらと宙に舞う。
「ギィイイッ!」
魔物が、断末魔のような声を上げ、体を大きく傾かせた。その巨体が、地響きを立てて、地面に倒れ込む。土埃が、大きく舞い上がり、しばらくの間、視界を覆い隠した。
*
「……終わった、か?」
キーラが、警戒を解かないまま、慎重に呟いた。魔物は、地面に横たわったまま、微かに体を震わせていたが、やがて、その動きも、完全に止まった。体表を覆っていた結晶が、少しずつ、輝きを失っていく。
「セフィ、大丈夫か」
「うん……なんとか」
セフィは、荒い息をつきながら、その場に座り込んだ。全身が、鉛のように重かった。同調と感応を、立て続けに使ったことで、体力を、大きく消耗していた。指先が、細かく震えている。頭の奥にも、鈍い痛みが、じんわりと居座っていた。
「キーラの怪我は?」
「大したことない。それより、お前の方こそ、顔色が悪いぞ」
キーラは、肩の傷を押さえながらも、セフィのもとに駆け寄った。汗と土埃にまみれた顔に、安堵と、微かな心配の色が浮かんでいる。
「無理させたな。すまない」
「ううん、キーラが謝ることじゃないよ。これは、二人で決めたことだから」
セフィは、そう言いながら、倒れ伏した魔物を、改めて見つめた。あれほどの脅威を放っていた存在が、今は、ただ静かに、地に横たわっている。夕暮れの光を受けて、その体表は、まるで宝石のように、鈍く煌めいていた。
「キーラの肩、大丈夫? ちゃんと、手当てしないと」
セフィが心配そうに言うと、キーラは、傷口を確かめるように、軽く触れた。
「血は、もう止まってきてる。だが、後で、しっかり縫った方がいいかもしれないな」
「わたしにも、手伝わせて」
「ああ、頼む」
そんなやり取りを交わしながら、二人は、ようやく詰めていた緊張を、少しずつ緩めていった。
*
魔物の体表を覆っていた結晶は、既に輝きを失い、ただの鉱物のような、鈍い灰色に変わりつつあった。
「素材、ちゃんと取れるかな」
「ああ、急がないとな。この輝きが完全に失われる前に、良質な部分を、切り出さないと」
キーラは、そう言いながら、腰の道具袋から、素材採取用の小刀を取り出した。
「セフィは、少し休んでいろ。これは、わたしがやる」
「手伝うよ。二人でやった方が、早いでしょう」
セフィが、ふらつく足取りで立ち上がろうとすると、キーラは、その肩を、そっと押さえた。
「無理はするな。今は、体を休めるのが先だ。素材採取は、逃げない」
キーラの声には、有無を言わせぬ響きがあった。セフィは、渋々ながらも、素直に頷いた。
「分かった。じゃあ、少しだけ、休ませてもらう」
セフィが、木の根元に腰を下ろし、目を閉じている間、キーラは、手早く、魔物の結晶を採取していった。時折、小さな声で、独り言のように、作業の様子を報告してくれる。
「思ったより、良質な結晶が取れてる。これは、いい値がつきそうだ」
「そう……よかった」
セフィは、目を閉じたまま、キーラの声に耳を傾けていた。小刀が、結晶を削り取る、こつこつという規則正しい音が、静かな森に響いている。
「脚の部分が、特に質がいいな。核になる部分は、もっと奥にあるはずだが」
「核?」
「魔物の力の源になる部分だ。見つかれば、相当な値がつく」
キーラの声には、隠しきれない興奮が滲んでいた。しばらくの作業音の後、ふいに、キーラの声が弾んだ。
「あった。これが、核か」
セフィは、目を開けて、キーラの手元を覗き込んだ。掌に収まるほどの大きさの、透き通った赤い結晶が、夕暮れの光を受けて、内側から発光するように輝いている。まるで、小さな心臓が、静かに脈打っているかのような、不思議な存在感があった。
「綺麗……」
「ああ。これなら、当面の資金には、十分すぎるほどだろう」
キーラは、満足そうに、その結晶を、布に包んで大切にしまい込んだ。
「セフィ、体は、少しは楽になったか」
「うん、大分。まだ、少しふらふらするけど」
「無理はするな。今夜は、ここで野営しよう」
キーラの提案に、セフィは、素直に頷いた。
*
夜の帳が下りる頃、二人は、簡単な野営の準備を整えた。焚き火を囲みながら、セフィは、キーラの肩の傷に、丁寧に布を巻いていった。
「痛くない?」
「平気だ。それより、お前の方が、心配だ」
「わたしは、もう平気だよ。少し休んだら、力も戻ってきた」
セフィは、そう言いながら、結び目を、きゅっと締めた。
「今日は、本当に、大変な一日だったね」
「ああ。だが、収穫は、十分にあった」
キーラは、懐から、先ほどの結晶を取り出し、月明かりに翳した。赤い光が、二人の顔を、淡く照らし出す。
「これで、バルドウィックでの生活も、少しは楽になるはずだ」
「うん。フィンさんとの出会いに向けて、また一歩、近づけた気がする」
セフィの言葉に、キーラは、静かに頷いた。
「今日みたいな戦い、これからも、あるかもしれないな」
「うん。でも、キーラと一緒なら、大丈夫だと思う」
「随分と、信頼してくれるんだな」
「だって、今日も、ちゃんと守ってくれたじゃない」
セフィが屈託なくそう言うと、キーラは、少し照れくさそうに視線を逸らした。
「当然のことをしただけだ」
「その『当然』が、わたしにとっては、すごく心強いの」
星明かりが、森の奥深くまで、静かに降り注いでいた。長い一日の終わりに、二人は、大きな戦いを乗り越えた安堵と共に、静かな達成感を分かち合っていた。瞬く星々の下、明日への希望を胸に、二人は、静かに眠りについた。




