第二部 第五章「奇妙な気配」
森の奥へと分け入るにつれ、空気の質が、少しずつ変わっていくのを、セフィは感じていた。
木々は、これまで通ってきたどの森よりも古く、太い幹には、苔がびっしりと張り付いている。地面を覆う下草は、踏みしめるたびに、しっとりとした湿り気を伝えてきた。頭上を覆う枝葉の隙間から差し込む光は、まだらに地面を照らし、風のない静けさが、あたり一帯を支配していた。時折、どこか遠くで、鳥の羽ばたく音が響くだけで、それ以外の物音は、驚くほど少なかった。
「静かすぎる」
キーラが、周囲を警戒しながら呟いた。
「うん……なんか、変な感じ」
セフィも、その静けさに、言いようのない違和感を覚えていた。今までの旅で通ってきた森は、たとえ人気がなくとも、鳥や虫の気配で、それなりに賑やかだった。けれど、この森は、まるで、何かに息を潜めさせられているかのようだった。
歩を進めるごとに、木の根が、地面から瘤のように盛り上がり、時折、行く手を阻んだ。キーラは、それを慣れた様子で飛び越えながら、セフィにも、同じ場所を通るよう、手で示してくれる。
「この辺りの木、変わった形してるね」
セフィが、ふと見上げた木の幹には、螺旋を描くような、奇妙な捻れが刻まれていた。木肌は、ところどころ、灰色がかった変色を見せ、生命力に乏しい印象を与える。
「土地の質が、悪いのかもな。あるいは、何か、別の理由か」
キーラの言葉に、セフィは、なんとなく、嫌な予感を覚えた。
*
昼過ぎ、休憩のために足を止めたとき、セフィは、ふと、これまで感じたことのない気配を捉えた。
「……何か、いる」
セフィは、目を閉じ、意識を研ぎ澄ませた。今まで出会ってきた死者たちの気配とは、明らかに違う。もっと重く、もっと生々しい、圧迫感のようなものが、遠くから、確かに伝わってくる。まるで、大きな岩の塊が、じわりと熱を発しているかのような、そんな存在感だった。
「死者の気配じゃ、ない?」
キーラが、セフィの様子を見て、緊張した声で尋ねた。手にしていた水筒を、そっと荷物に戻す。
「うん……違う。生きてる、というのとも、少し違う気がする」
「どういうことだ」
「うまく言えない。でも、すごく、大きい。それに、怒ってるみたいな」
セフィの声が、微かに震えた。感応の力で捉えたその気配は、これまでのどんな死者よりも、圧倒的な密度を持っていた。触れるだけで、何かに呑み込まれてしまいそうな、そんな危うさすら感じさせる。
こめかみのあたりに、じわりと汗が滲む。気配を辿ろうとするほど、頭の奥が、ずきりと痛んだ。
「大丈夫か、顔色が悪い」
キーラが、心配そうに、セフィの肩に手を置いた。
「うん、平気。ちょっと、強すぎて、驚いただけ」
セフィは、目を開け、大きく息を吐いた。額に浮かんだ汗を、袖で拭う。
*
「森の奥、南東の方角」
セフィが、目を開けて言うと、キーラは、腕を組んで考え込んだ。
「魔物、かもしれないな」
「魔物?」
「災厄の力が残った土地に、時々、生まれるらしい。普通の獣とは、根本的に違う生き物だ」
キーラの説明に、セフィは、息を呑んだ。
「見たこと、あるの?」
「ない。だが、話には聞いたことがある。滅多に人前には現れないが、出くわせば、並の武器じゃ、太刀打ちできないと」
「じゃあ、危ないんじゃ……」
「危ない。だからこそ、慎重に動く必要がある」
キーラの声は、これまでになく、真剣なものだった。
「兄さんから、聞いたことがある。魔物の中には、大昔の戦争の残滓を、体に取り込んでしまったものがいるってな。普通の獣が変わり果てたのか、それとも、最初からそういう生き物として生まれたのか、はっきりしたことは、誰も知らない」
「そんな昔から……」
「ああ。だからこそ、生半可な覚悟じゃ、太刀打ちできない相手かもしれない」
キーラの声に滲む緊張が、セフィにも伝染していった。
「そういう、結晶を纏った魔物って、有名なの?」
セフィが尋ねると、キーラは、記憶を辿るように、視線を宙にさまよわせた。
「有名、というか、伝説みたいなものだ。名前も、正体も、はっきりしたことは分かっていない。冒険者の間じゃ、一生に一度出会えるかどうか、なんて言われてる。討伐できれば、名を上げられるが、大抵は、返り討ちに遭う方が多いらしい」
「そんなに強いんだ……」
「だからこそ、慎重にいく。無理だと思ったら、即座に撤退する。いいな」
「うん、分かった」
セフィは、緊張に強張る指先を、そっと握りしめた。
*
「どうする? このまま、迂回する?」
セフィが尋ねると、キーラは、しばらく黙り込んだ。
「本当は、それが賢明だろうな」
「でも?」
「もし、あれが本当に、噂に聞くような希少な魔物なら、素材には、相当な価値がある。バルドウィックでの当座の資金にも、なるはずだ」
キーラの言葉に、セフィも、はっとした。首飾りを質に入れたきり、二人の懐は、決して豊かではなかった。フィンとやらに弟子入りするにしても、当面の生活費は、必要になるだろう。
「危険と、天秤にかける価値は、あると思うか」
キーラが、まっすぐにセフィを見て、尋ねた。
「……分からない。でも、キーラが決めたことに、わたしはついていく」
「わたし一人の判断で決めるのは、違う。お前の意見も、聞きたい」
キーラの言葉に、セフィは、少し驚いた。これまでのキーラなら、独断で決めてしまいそうなものだった。けれど、その真剣な眼差しは、確かに、セフィの意見を求めていた。
「なんで、急に、わたしの意見なんて聞くの」
セフィが、少し戸惑いながら尋ねると、キーラは、視線を逸らしながら答えた。
「お前と組むようになって、分かったことがある。一人で決めて、一人で突っ走るのは、案外、危ういってことだ。兄さんも、そうやって、先走って……」
そこで、キーラは、言葉を止めた。それ以上、続きを言うつもりはないようだった。
「だから、これからは、大事な判断は、一緒にする。それが、お前と組む上での、わたしなりのやり方だ」
その言葉に、セフィの胸に、じんわりとした温かさが広がった。
「じゃあ……挑戦してみたい。危なくなったら、すぐに引く。それを、約束できるなら」
「ああ、約束する。無茶はしない」
「絶対だよ」
「ああ、絶対だ」
二人は、互いの目を見つめ合い、静かに頷き合った。
*
二人は、慎重に、気配のする方角へと、歩みを進めた。木々の間を縫うように進むうちに、あたりの空気が、さらに重く、張り詰めたものに変わっていくのを、セフィは肌で感じていた。土の匂いに、微かに、焦げたような、鉄錆のような匂いが混じり始める。
「近い」
キーラが、低く呟いた。腰の短剣に、そっと手を添える。
セフィも、意識を研ぎ澄ませながら、慎重に足を進めた。一歩、また一歩と進むごとに、あの重く生々しい気配が、はっきりと輪郭を持ち始めていく。木々の隙間から、何か、大きな影のようなものが、ちらりと見えた気がした。
キーラが、片手を上げて、セフィを制した。二人は、身を屈め、太い木の幹に隠れるようにして、その先の様子を窺った。
「……いた」
木立の奥、開けた場所に、それはいた。
体長は、大人の背丈をゆうに超える、獣のような姿。けれど、その体表は、毛皮ではなく、鈍く光る、結晶のようなもので覆われていた。四肢の先は、鋭い刃物のように尖り、瞳は、内側から燃えるような、赤い光を放っている。時折、体の表面から、パチパチと、微弱な光の粒子が、火花のように弾けていた。呼吸をするたびに、その巨体全体が、僅かに明滅するように輝いている。
「あれが……」
セフィは、思わず、声を失った。今まで見てきたどんな生き物とも、明らかに異質な存在感が、そこにはあった。地面には、その魔物が通ったと思しき跡があり、踏みしめられた土は、まるで焼け焦げたかのように、黒く変色していた。周囲の草木も、その一帯だけ、明らかに元気を失い、萎れたように垂れ下がっている。
「あれか……」
キーラが、緊張した声で、低く呟いた。
「噂通り、厄介そうだ」
魔物は、まだこちらに気づいていないようだった。ゆったりとした動作で、その場をうろつき、時折、頭を振るようにして、体表の結晶を、微かに震わせている。その仕草一つにも、底知れない力の気配が滲んでいた。
「あの結晶、素材として使えるやつだよな」
「多分。でも、どうやって、傷一つつけずに近づくの」
「近づく必要はない。あれを倒せば、体ごと、素材になる」
キーラの言葉は、簡潔だったが、その意味するところの重さに、セフィは、ごくりと唾を飲み込んだ。
「セフィ、退路は確保しておけ。わたしが仕掛ける」
「うん」
セフィは、頷きながら、周囲の地形を、素早く確認した。木々の配置、逃げ道になりそうな方向、身を隠せそうな岩陰――全てを、頭の中に、しっかりと刻み込んでいく。
「合図したら、お前は、感応で気を逸らしてくれ。奴の意識が、少しでも分散すれば、隙が生まれる」
「分かった」
静寂の中、これから始まるだろう激しい戦いを前に、セフィの心臓は、痛いほど早鐘を打ち始めていた。
隣を見ると、キーラも、短剣の柄を握る手に、力を込めているのが分かった。その横顔には、恐れよりも、獲物を前にした狩人のような、静かな闘志が宿っている。
「いくぞ」
キーラの短い一言に、セフィは、大きく頷いた。木々のざわめき一つない、張り詰めた静寂の中、二人の戦いが、今、始まろうとしていた。遠く、風に乗って、あの焦げたような匂いが、再び、鼻先をかすめた。




