第二部 第四章「道中のいざこざ」
その日の昼過ぎ、街道が、鬱蒼とした森の中を通る区間に差し掛かった。
道幅は狭くなり、両側から張り出した木の枝が、頭上を覆うように影を落としている。日差しが遮られたぶん、空気はひんやりとしていたが、その分、どこか陰湿な気配も漂っていた。落ち葉を踏む音が、いつもより大きく響く気がして、セフィは、思わず肩をすくめた。苔むした木の根が、あちこちで道を這うように盛り上がり、足元への注意を怠れない区間だった。
「なんか、この辺、嫌な感じがする」
セフィが、小声で呟くと、キーラも、微かに眉をひそめた。
「わたしも、そう思ってた。獣とは違う、人の気配だ」
「人?」
「複数、いる。道の先と、後ろ、両方から」
キーラの声が、緊張を帯びた。セフィは、慌てて目を閉じ、意識を集中させた。感応の力で、周囲を探る。確かに、木々の陰に、隠れるようにして潜む、いくつかの人の気配があった。息を潜め、こちらの様子を窺っているような、粘つく気配だった。
「四人……いや、五人。前に三人、後ろに二人」
「囲まれてる、ってことか」
キーラは、腰の短剣に、そっと手をかけた。その仕草だけで、いつでも抜けるように、指の位置を調整しているのが分かった。
「どうする、引き返す?」
セフィが小声で尋ねると、キーラは、首を振った。
「後ろにも、いるんだろう。引き返しても、同じことだ」
「じゃあ……」
「このまま、進む。何かあれば、わたしが対処する。お前は、周りの気配に、注意を払っていてくれ」
「うん」
セフィは頷きながらも、心臓が、早鐘のように打ち始めるのを感じていた。
*
「おい、そこの嬢ちゃんたち」
木陰から、ぬっと姿を現したのは、薄汚れた身なりの男だった。手には、刃こぼれした剣を持ち、下卑た笑みを浮かべている。他にも、同じような格好の男たちが、じりじりと、道を塞ぐように歩み出てきた。
「道を通りたければ、荷物と、金目のものを、置いていきな」
男の一人が、そう言いながら、じりじりと距離を詰めてくる。セフィは、思わず息を呑んだ。数の差は、明らかに不利だった。
「盗賊、か」
キーラが、低く呟いた。その声には、恐れよりも、冷静な分析の色が滲んでいた。
「セフィ、下がってろ」
「でも……」
「大丈夫だ。この程度の人数、慣れてる」
キーラは、そう言うと、二本の短剣を、静かに抜き放った。刃が、木漏れ日を反射して、鈍く光る。
*
「へえ、やる気か。嬢ちゃん一人で?」
正面の男が、嘲るように笑った。他の男たちも、それに呼応するように、下品な笑い声を上げる。
「油断するなよ、あいつ、獣人だ」
別の男が、そう忠告したが、正面の男は、意に介さない様子だった。
「獣人だろうがなんだろうが、所詮は小娘一人だ。数で押せば、どうとでもなる」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、キーラは、地を蹴っていた。
一瞬にして、正面の男との距離を詰め、右手の短剣で、相手の得物を弾き上げる。体勢を崩した男の脇腹に、キーラは、左手の短剣の柄を、鋭く叩き込んだ。
「がはっ……!」
男が、地面に崩れ落ちる。それを合図に、他の男たちが、一斉に襲いかかってきた。左右から、二人の男が、同時にキーラへと踏み込む。キーラは、体を低く沈めて一人の攻撃を潜り抜けると、そのまま回転するような動きで、もう一人の足を、短剣の柄で払った。
「セフィ、後ろ!」
キーラの叫びに、セフィは、はっと振り返った。背後から、別の男が、棍棒を振り上げて迫っていた。距離は、もう二歩もない。
*
セフィは、咄嗟に、身につけていた力を呼び起こした。
「同調――」
かつて出会った、旅の踊り子の霊から受け継いだ、しなやかな身のこなしの感覚が、体の奥から湧き上がる。セフィは、迫る棍棒を、紙一重でかわし、体勢を崩した男の足を、思い切り払った。
「うわっ!」
男が、無様に転倒する。セフィ自身、驚くほど滑らかに動けたことに、内心で驚いていた。
「やった……!」
けれど、油断は禁物だった。別の男が、既に、セフィに向かって、剣を振りかぶっている。
「危ない!」
キーラが、瞬時に割り込み、その剣を、短剣で受け止めた。金属同士がぶつかる、鋭い音が響く。
「セフィに、手を出すな」
キーラの声は、これまでになく、低く、鋭かった。押し返された男は、たじろぐように後ずさった。
*
その後の展開は、あっという間だった。キーラは、次々と迫る男たちを、的確に、しかし過剰な傷を負わせることなく、無力化していった。セフィも、同調の力を借りながら、自分にできる範囲で、加勢を続けた。踊り子の霊から受け継いだ身のこなしのおかげで、いつもより敏捷に動けている自分に、内心で驚きながら。
「もう、勘弁してくれ……!」
最後の一人が、両手を上げて、そう叫んだ頃には、五人の男たちは皆、地面に転がるか、逃げ出すかしていた。地面には、取り落とされた武器が、何本も転がっている。木漏れ日の中、埃っぽい土の匂いに、汗と、微かな血の匂いが混じっていた。
「はぁ……はぁ……」
セフィは、荒い息を整えながら、その場に膝をついた。全身に、じんわりとした疲労が広がっていく。
「大丈夫か」
キーラが、短剣を鞘に収めながら、駆け寄ってきた。その顔には、汗が一筋、頬を伝っている。
「うん……ちょっと、疲れた、けど」
「怪我は?」
「ない、と思う」
セフィは、自分の腕や足を、確かめるように触れながら答えた。
「キーラは? 怪我、してない?」
「かすり傷程度だ。心配ない」
キーラは、そう言いながら、腕に浅く走った擦り傷を、軽く払った。セフィが答えると、キーラは、ほっと息をついた。
「見せて」
セフィが、心配そうに、キーラの腕を覗き込んだ。
「大したことない」
「でも、血、出てる」
セフィは、荷物から布を取り出し、傷口に、そっと当てた。
「こういうの、放っておくと、後で膿んだりするから」
「詳しいんだな」
「同調で、薬草に詳しいおばあさんから、色々教わったの」
セフィが、丁寧に布を巻きつけていく様子を、キーラは、少し照れくさそうに見つめていた。
「ありがとう」
「これくらい、当然だよ。いつも助けてもらってるんだから」
手当てを終えると、セフィは、満足そうに頷いた。
「なんだか、逆になったね。いつもは、キーラがわたしを助けてくれるのに」
「たまには、こういう日もある」
キーラは、そう言いながら、巻かれた布を、確かめるように軽く握った。
「悪くない気分だ、これは」
「そう?」
「誰かに、気にかけてもらうのは、久しぶりだからな」
その一言に、セフィは、キーラの中にある、まだ癒えきらない孤独の欠片を、垣間見た気がした。
*
けれど、その安堵も、束の間だった。
「セフィ」
キーラの声が、急に真剣なものに変わった。セフィは、思わず身構えた。
「さっき、なぜ、わたしの指示を待たずに、自分から動いた」
「え……だって、危なかったから」
「危ないからこそ、勝手に動くな、と言ってるんだ。いいか、よく聞け」
*ああ、始まった。*
セフィの脳裏に、そんな予感がよぎった。
「戦闘っていうのは、連携が命だ。一人が予測不能な動きをすれば、それだけで、全体の均衡が崩れる。お前が咄嗟に動いたおかげで、確かに、あの場は凌げた。だが、それはたまたま、うまくいっただけだ。もし、わたしがお前の動きを読み違えていたら、逆に、お前が危険に晒されていたかもしれない。分かるか? 連携っていうのは、互いの動きを、ある程度予測できて、初めて成り立つものなんだ。だから、次からは、まず声をかけろ。『動く』でも『助けて』でも、なんでもいい。それだけで、わたしは、お前の動きに合わせられる。いいな?」
長々と続く説教に、セフィは、最初こそ神妙に頷いていたが、話が終わる頃には、少し肩の力が抜けていた。
「うん……分かった。次から、ちゃんと声かける」
「分かればいい」
キーラは、満足そうに頷くと、ようやくいつもの調子に戻った。
*
「それにしても、あの人たち、なんで、こんなところで盗賊なんてやってるんだろう」
気を取り直して歩き出しながら、セフィが、ふと疑問を口にした。
「食い詰めた連中だろう。この辺りは、帝国の徴税も厳しいと聞く。まともに生きていけず、道を外れる者も、少なくない」
キーラの言葉に、セフィは、複雑な気持ちになった。悪事を働いた者たちを、単純に責める気にはなれなかった。彼らもまた、この世界の歪みに、追い詰められた被害者なのかもしれない。
「なんだか、切ないね」
「同情するのは勝手だが、次にまた襲われたら、容赦はしない。それだけは、忘れるな」
キーラの言葉は厳しかったが、その根底には、セフィを案じる気持ちが、確かに滲んでいた。
「うん、分かってる」
「それにしても」
キーラが、ふと思い出したように続けた。
「お前の言う、あの踊り子の霊とやらの動き、なかなか様になってたぞ」
「本当? 自分でも、びっくりした」
セフィは、まだ興奮の残る声で答えた。
「ああいう風に、色んな人の力を借りられるなら、これから先も、色々応用できそうだな」
「うん! もっと、色んな人と、話してみたい」
「ただし、変な霊に同調して、変な癖がつくのだけは、勘弁してくれ」
キーラが、真顔でそう言うと、セフィは、思わず吹き出した。
「そんな心配、初めてされた」
「笑い事じゃない。お前なら、本当にやりかねん」
「もう、キーラったら」
軽口を叩き合いながら、二人の間の空気は、先ほどの緊張が嘘のように、穏やかなものに戻っていった。
セフィは、頷きながら、遠ざかっていく森の気配に、そっと視線を向けた。理不尽な世の中の縮図を、また一つ、目の当たりにした気がした。それでも、隣にキーラがいてくれることが、今のセフィにとって、何よりの支えだった。
日が傾き始めた道を、二人は、変わらぬ足取りで、バルドウィックへと向けて、歩き続けた。手当てしたばかりのキーラの腕に巻かれた白い布が、夕日を受けて、ほんのりと橙色に染まっていた。




