第二部 第三章「焚き火を囲んで」
その日は、朝から小雨が降ったり止んだりを繰り返す、はっきりしない天気だった。
道はぬかるみ、歩みは思うように進まなかった。セフィは、裾に跳ねた泥を気にしながらも、キーラの後ろを、黙々とついて歩いた。灰色の雲が低く垂れ込め、遠くの丘の稜線を、ぼんやりと霞ませている。時折、湿った風が吹き抜けるたび、木々の梢から、余った雨粒が、ぱらぱらと落ちてきた。
「こういう日は、嫌だな」
セフィが、ぼやくように呟くと、キーラは、前を向いたまま答えた。
「文句を言っても、天気は変わらない」
「分かってるけど、言いたくなるの」
「それは、ただの愚痴だな」
キーラが、そっけなく切り返すと、セフィは、むっとした顔をした。
「もう少し、慰めてくれてもいいのに」
「慰めが欲しいなら、もっと違う言い方をしろ」
「じゃあ、キーラ、慰めて」
「……お前も、大概、図太いな」
キーラが呆れたようにそう言うと、セフィは、くすくすと笑った。こんな他愛のないやり取りさえ、雨に濡れた足の重さを、少しだけ忘れさせてくれた。
「今日は、早めに切り上げるか」
夕方に差し掛かる頃、キーラがそう言って、道端の、少し開けた場所を指差した。大きな岩が風除けになっており、その脇には、比較的乾いた地面が広がっている。
「賛成。もう、靴の中までびしょびしょ」
セフィが、靴を脱いで、水を絞る仕草をすると、キーラは、呆れたように笑った。
「先に言え、それは」
「言うタイミング、逃してた」
*
火を熾すのに、思いのほか手間取った。集めてきた枝は、どれも湿り気を帯びていて、なかなか火がつかない。
「もっと、乾いた芯になるものが要る」
キーラは、そう言うと、荷物の奥から、油を染み込ませた布切れを取り出した。
「そんなの、持ってたんだ」
「非常用だ。こういう時のためにな」
火口に布切れを添え、火打ち石を打ち付けること、何度か。ようやく、小さな炎が、芯に灯った。セフィは、その光を守るように、両手で風を遮った。
「ついた……!」
「油断するな。まだ、消えやすい」
キーラの指示に従って、細い枝から、少しずつ太い枝へと、火を移していく。パチ、パチと爆ぜる音が、次第に大きくなり、やがて、しっかりとした焚き火へと育っていった。
*
夕食は、道中で仕留めた、小さな野鳥だった。キーラが、慣れた手つきで羽根をむしり、串に刺して、火にかざす。脂の焼ける匂いが、雨上がりの湿った空気の中に、香ばしく広がっていった。
「キーラ、狩り上手だね」
「これくらい、生きるためには、当然のことだ」
「わたし、鳥を捕まえるの、まだうまくできない」
セフィが、少し悔しそうに言うと、キーラは、串を回しながら答えた。
「経験の差だ。焦る必要はない。それに、お前には、お前の得意がある」
「得意?」
「死者から、知恵や技を借りられるだろう。狩りの得意な奴に、同調してみればいい」
その提案に、セフィは、目を見開いた。
「そっか……そういう使い方も、できるんだ」
「もっとも、相手を見つけるのが、まず一苦労だろうがな」
キーラの言葉に、セフィは、なるほど、と頷きながら、焚き火の炎を見つめた。今まで、力の使い道を、あまり実用的な方向で考えたことがなかった。これからは、もっと色んな場面で、この力を活かせるかもしれない。
*
火が十分に通った鳥肉を、二人で分け合って食べた。皮はぱりぱりと香ばしく、中の身は、驚くほど柔らかかった。
「美味しい……!」
「だろう。焼き加減には、こだわってる」
キーラが、珍しく得意げに言うと、セフィは、頬張ったまま、うんうんと頷いた。
食事を終える頃には、雨もすっかり止み、雲の切れ間から、星がぽつぽつと覗き始めていた。焚き火の炎が、二人の顔を、橙色に照らしている。
「なあ、セフィ」
キーラが、串の食べかすを、火にくべながら、口を開いた。
「これから、どうするつもりなんだ。フィンとやらに、弟子入りできたとして、その先」
「まだ、はっきりとは、決めてない」
セフィは、膝を抱えて、少し考え込んだ。
「でも、力をもっとちゃんと使えるようになって、いつか、あの誘拐事件みたいなことを、根本から終わらせたい。それが、今の目標」
「大きい目標だな」
「うん。それに、もう一つ」
セフィは、火の粉が、闇に舞い上がっていくのを見つめながら、続けた。
「両親のこと、あの天変地異のこと、もっとちゃんと知りたい。ただの事故だったのか、それとも……」
そこで、セフィは、言葉を濁した。老人が残した「逃げなさい」という警告、そして、その後の真相不明な崩壊――思い出すたび、胸の奥に、言いようのない違和感が疼く。
「それとも、何だ?」
キーラが、静かに先を促した。
「分からない。でも、何か、もっと大きなものが、裏にある気がするの。うまく言えないけど」
「大きなもの、か」
キーラは、腕を組んで、しばらく黙り込んだ。
「話としては、突飛だな。だが、お前の勘は、これまで、外れたことがない」
「覚えてるの?」
「潜入の時も、お前の感応がなきゃ、あそこまでうまくいかなかった」
キーラの評価に、セフィは、少しくすぐったい気持ちになった。
「でも、証拠は、何もないの。ただの、勘でしかない」
「勘だって、馬鹿にできない。獣人の間じゃ、直感を軽んじる奴は、長生きできないと言われてる」
「そういうものなの?」
「ああ。獲物の気配、危険の兆し――理屈じゃなく、体が先に反応することが、狩りじゃよくある。お前の感じてる違和感も、それに近いものかもしれない」
キーラの言葉に、セフィは、少し勇気づけられた気がした。
「じゃあ、この違和感、大事にしてもいいのかな」
「ああ。ただし、突っ走りすぎるなよ。勘は、あくまで、きっかけだ。裏を取ることを、忘れるな」
「はーい」
セフィが素直に頷くと、キーラは、満足そうに頷き返した。
*
「キーラは、これから、どうしたいの?」
セフィが、話を返すように尋ねると、キーラは、少し間を置いてから答えた。
「正直、まだ分からない。兄の仇を討つことだけが、生きる理由だったからな。それがなくなった今、何を目指せばいいのか」
「そう、なんだ」
「だが」
キーラは、焚き火の炎を見つめながら、続けた。
「お前と一緒にいると、少しだけ、先が見える気がする。お前が向かう場所に、わたしも、一緒に向かってみたい。それが、今の、正直な気持ちだ」
その言葉に、セフィは、胸の奥が、温かくなるのを感じた。
「ありがとう、キーラ」
「礼を言うようなことじゃない。わたしが、そうしたいだけだ」
キーラは、そっけなくそう言ったが、その横顔には、確かな穏やかさが宿っていた。
*
夜が更けるにつれ、気温は、次第に下がっていった。二人は、焚き火に近づくようにして、体を寄せ合った。
「寒い?」
「ちょっとだけ」
セフィが答えると、キーラは、自分の外套を脱いで、セフィの肩にかけた。
「キーラは、平気なの?」
「獣人は、人間より、体温が高い。それに、毛皮のおかげで、寒さには強い」
「便利だね」
「便利、というか、当たり前だ」
そんな軽口を交わしながら、二人は、しばらくの間、無言で星空を見上げていた。雲一つない夜空に、無数の星が、瞬いている。
「星、綺麗だね」
「ああ」
「セローズでも、こんな風に見えたんだ。トビと一緒に、よく見上げてた」
セフィがぽつりと呟くと、キーラは、静かに耳を傾けた。
「トビって、幼馴染みだったな。約束、してたんだろう」
「うん。いつか、一緒に、里の外を見に行こうって」
「その約束、果たせそうか」
「分からない。でも、こうして、外の世界を見て回ってる。約束の半分くらいは、果たせてるのかな、なんて、時々思う」
セフィの声には、切なさと、それでも前を向こうとする強さが、同時に滲んでいた。
「トビは、どんな奴だったんだ」
キーラが、静かに尋ねた。
「猟師の息子で、少し年上のお兄さんみたいな存在だった。木彫りの人形で、よく一緒に遊んでたの。あと、秘密の場所があって……古い倒木のうろ」
「随分、詳しく覚えてるんだな」
「忘れたくないから。トビのことも、父さまと母さまのことも」
セフィは、懐から、木彫りの鳥を取り出し、月明かりに翳した。
「これ、トビがくれたもの。本物の空を飛ぶところ、一緒に見に行こうって、約束したんだ」
「今も、その約束、覚えてるんだな」
「うん。忘れない」
キーラは、それ以上、何も言わず、ただ、隣に座り続けた。言葉にならない共感を、その沈黙が、静かに伝えているようだった。
「なあ、セフィ」
しばらくして、キーラが、ぽつりと口を開いた。
「わたしも、兄と、よく星を見た。狩りの帰り道、二人並んで、あれこれ話しながら」
「どんな話、してたの?」
「他愛のないことばかりだ。今日の獲物の話とか、村の噂とか。でも、それが、何より楽しかった」
キーラの声に、微かな懐かしさが滲んだ。
「今、こうして星を見てると、あの頃を、少し思い出す」
「キーラも、忘れたくないんだね」
「ああ。忘れたら、兄が生きてた証が、消えちまう気がしてな」
二人は、しばらくの間、無言で夜空を見上げ続けた。それぞれが抱える、大切な人との記憶。形は違えど、その重みだけは、確かに通じ合っているようだった。
*
「そろそろ、寝るか」
しばらくして、キーラがそう言った。
「うん。明日も、歩くもんね」
セフィは、外套を体に巻きつけながら、焚き火のそばに横になった。パチパチと爆ぜる音が、子守唄のように、静かに響いている。
「おやすみ、キーラ」
「ああ、おやすみ」
星明かりの下、焚き火の温もりに包まれながら、セフィは、今日交わした会話の一つ一つを、胸の中で反芻した。互いの過去、互いの目指す先――少しずつ、キーラという人間の輪郭が、セフィの中で、確かな形を持ち始めていた。
一人で抱えるはずだった旅路が、今は、誰かと分かち合えるものになっている。その事実に、セフィは、静かな感謝を覚えながら、深い眠りへと落ちていった。




