第二部 第一章「二人の門出」
ケルヴィンを出て、三日が過ぎていた。
道はなだらかな丘陵地帯を縫うように続いており、両側には、刈り入れを終えた麦畑が、どこまでも広がっている。乾いた土の匂いに、時折、遠くの牧草地から運ばれてくる家畜の匂いが混じった。空気は、山あいのケルヴィンよりも、いくらか埃っぽい。
セフィは、その匂いを吸い込むたびに、自分が確かに、知らない土地を歩いているのだという実感を、噛みしめていた。
「疲れたか」
前を歩くキーラが、振り返らずに尋ねた。
「ううん、平気」
セフィは、そう答えながら、足の裏の疲労を、そっと確かめた。実のところ、少し疲れてはいた。けれど、リアナと旅した頃の、あの這うようにしか進めなかった日々を思えば、今の自分の足取りは、ずいぶんしっかりしたものになっている。それが、誇らしくもあり、同時に、少しだけ寂しくもあった。
*成長したね、って、リアナお姉ちゃんに見てほしかったな。*
心の中で、そう呟く。答えが返ってこないことは、分かっていた。それでも、こうして誰かに語りかけるように考える癖だけは、なかなか抜けそうになかった。
道の脇には、背の高い草が生い茂り、風が吹くたびに、さわさわと乾いた音を立てる。セフィは、その音に耳を澄ませながら、ふと、キーラの背中を見つめた。銀灰色の髪が、日差しを受けて、淡く輝いている。狼の耳が、時折、周囲の物音に反応して、ぴくりと動いた。
キーラと二人きりで歩くこの感覚に、セフィはまだ、完全には慣れていなかった。リアナと過ごした日々とは、明らかに違う。会話の間の取り方も、歩く速さも、何もかもが、少しずつ違っていた。それは悪いことではなかったけれど、時折、ふとした瞬間に、隣にいたはずの誰かの不在を、強く意識させられることがあった。
*
「なあ、セフィ」
昼過ぎ、木陰で足を止めたとき、キーラが、水筒の水を飲みながら、ふと口を開いた。
「なに?」
「お前、あのリアナって奴のこと、まだ、よく考えてるだろう」
図々しく突かれ、セフィは、一瞬、言葉に詰まった。
「……分かる?」
「顔に出てる。歩きながら、時々、誰かに話しかけるみたいな顔をしてる」
キーラの指摘は、素っ気ない言い方をしていたが、その口調のどこかに、案じるような響きが滲んでいた。セフィは、膝を抱えるようにして座り直し、少し考えてから答えた。
「うん。まだ、時々、話しかけちゃう。癖になってて」
「悪いことじゃないだろう。忘れろとは言わない」
「うん……ありがとう」
セフィは、キーラの言葉に、小さく微笑んだ。無理に励まそうとするでもなく、ただ、そのままでいいと言ってくれる。その距離感が、今のセフィには、何よりありがたかった。
「でも、キーラは、変だと思わないの? 誰もいないのに話しかけてる子なんて」
セフィが、少し不安げに尋ねると、キーラは、肩をすくめた。
「変かどうかなんて、どうでもいい。お前がそれで、少しでも救われてるなら、それでいいだろう」
「……キーラって、意外と優しいよね」
「意外とは余計だ」
キーラが、むっとしたように言い返すと、セフィは、思わず笑ってしまった。
「でもな」
キーラが、水筒の蓋を閉めながら、続けた。
「これからは、わたしが、隣にいる。リアナの代わりにはなれないだろうが、それでも」
「代わりだなんて、思ってないよ」
セフィは、慌てて首を振った。
「キーラは、キーラだもん。リアナお姉ちゃんとは、違う。でも、キーラがいてくれるの、すごく心強い」
その言葉に、キーラは、一瞬、目を見開いた。それから、視線を逸らすようにして、立ち上がった。
「……そうか。なら、いい」
「ねえ、キーラは、寂しくないの? わたしと違って、キーラは、その、目的が果たせたわけじゃないのに、ずっとついてきてくれて」
セフィが尋ねると、キーラは、少し間を置いてから答えた。
「寂しいさ、そりゃあ。でも、一人で燻ってるより、お前と歩いてる方が、まだましだ」
「まし、って」
「褒め言葉のつもりだ、それは」
ぶっきらぼうな返事だったが、その耳の先が、微かに赤くなっていることに、セフィは気づいていた。
*
昼になる前、二人は、道端の井戸で、水を汲んでいくことにした。石を積み上げただけの、素朴な井戸だったが、旅人たちにとっては、貴重な水場だった。
「重いから、気をつけろ」
キーラが、桶を引き上げながら、セフィに声をかけた。セフィは、両手でその桶を受け取ろうとしたが、水の重さに、思わずよろけてしまった。
「わっ……」
「ほら、見ろ。無理するな」
キーラが、慌てて桶を支え直した。セフィは、少し悔しそうに、桶の取っ手を握り直した。
「もう一回、やらせて」
「意地っ張りだな、お前も」
「だって、これくらい、自分でできるようにならないと」
セフィが唇を尖らせると、キーラは、やれやれといった様子で、桶から手を放した。
「分かった、分かった。好きにしろ。ただし、こぼしても知らないぞ」
「うん!」
そう言いながらも、キーラは、セフィが自分で水筒に水を注ぐのを、根気強く見守ってくれた。何度かこぼしながらも、セフィは、ようやく水筒をいっぱいにすることができた。
「できた!」
「大した達成感だな、それくらいで」
キーラは呆れたように言ったが、その口元には、微かな笑みが浮かんでいた。
「キーラは、こういうの、いつから一人でできるようになったの?」
セフィが興味津々に尋ねると、キーラは、少し考えるように視線を上げた。
「五つか、六つの頃だ。兄について回ってるうちに、自然と覚えた」
「早いね」
「獣人は、人間より、体の成長が早い。腕力も、それなりについてくるからな」
「じゃあ、わたしも、そのうち、キーラくらい力持ちになれるかな」
「さあな。それは、種族の差もあるだろう」
キーラが素っ気なく答えると、セフィは、少しむくれた顔をした。
「もう少し、夢を持たせてくれてもいいのに」
「事実を言っただけだ」
昼食は、街道沿いの木陰で、簡単に済ませた。硬いパンと、干した果実。贅沢とは言えない食事だったが、二人で分け合って食べると、不思議と、味気なさも和らぐ気がした。
「ケルヴィンにいた頃より、食事の質は落ちたな」
キーラが、正直にそう零すと、セフィは笑った。
「仕方ないよ、旅の途中だもん。バルドウィックに着いたら、きっと、もっといいもの食べられるよ」
「そうだといいがな」
「キーラは、何が食べたい?」
セフィが尋ねると、キーラは、少し考えてから答えた。
「肉だな。ちゃんと焼いた、分厚い肉」
「わたしは、パン。焼きたての、柔らかいやつ」
「贅沢な話をしてると、余計に腹が減る」
キーラがそう言って、干した果実を口に放り込むと、セフィも、つられるように笑いながら、残りのパンを頬張った。
*
その日の夕方、二人は、街道沿いに設けられた、旅人用の休憩小屋で、夜を明かすことにした。石を積んだだけの、簡素な造りの小屋だったが、屋根があるというだけで、随分と心強かった。壁の一角には、これまで通り過ぎた旅人たちが残していったのだろう、木炭で描かれた落書きが、いくつも残っている。
「ここ、他の人も使うんだね」
「街道沿いには、大抵、こういう小屋がある。旅人同士、譲り合って使うのが決まりだ」
キーラは、そう言いながら、手早く荷物を下ろし、寝床の準備を始めた。手慣れた動きだった。腰の短剣を、壁際に立てかけ、布に包まれた鞘の位置を、何度か確かめるように触れる。その仕草には、長年の習慣めいた丁寧さがあった。
「キーラは、こういう旅、慣れてるの?」
「昔、兄と、よく一緒に狩りに出た。遠出することも、多かったから」
兄の話をするとき、キーラの声は、いつもより、ほんの少しだけ低くなる。セフィは、それに気づいていたが、あえて何も言わなかった。触れてほしくない傷と、触れてほしい傷は、違う。そのくらいの分別は、この一年足らずの旅で、身についていた。
小屋の隅には、薪代わりの枯れ枝が、几帳面に積まれていた。誰か、以前ここを使った旅人が、次に来る者のために残していったものらしい。
「こういうの、いいね。知らない誰かが、次の人のこと考えてくれてる感じ」
セフィがそう言うと、キーラは、枝を一本手に取りながら頷いた。
「旅人同士の、暗黙のルールだ。わたしたちも、出るときは、同じようにしておく」
「うん、そうする」
*
夕食は、道中で摘んだ木の実と、干し肉を煮込んだ、簡素なものだった。焚き火の炎が、小屋の壁に、二人の影を大きく揺らしている。
「なあ、セフィ」
キーラが、木の匙を止めて、尋ねた。
「バルドウィックに着いたら、本当に、その師匠とやらを、探すのか」
「うん。リアナお姉ちゃんが、教えてくれたから」
「見つかる保証は、ないだろう」
「うん、ないと思う」
セフィは、あっさりとそう認めた。
「でも、手がかりが、他にないから。行ってみないと、分からない」
「危なっかしいな、相変わらず」
キーラは、呆れたようにそう言ったが、その口元には、微かな笑みが浮かんでいた。
「キーラだって、目的もなく、わたしについてきてるわけじゃないでしょう」
セフィが、少しからかうように言うと、キーラは、一瞬、言葉に詰まった。
「……別に。他に、行くあてがなかっただけだ」
「そういうことにしておく」
セフィがくすりと笑うと、キーラは、拗ねたように、視線を逸らした。
*
食事を終え、焚き火の傍らで横になると、セフィは、懐から、小さな包みを取り出した。中には、木彫りの鳥と、リアナの母の形見の首飾りが、大切に収められている。
「それ、大事にしてるんだな」
キーラが、その様子を見て、静かに言った。
「うん。トビっていう、故郷の友達がくれたのと、リアナお姉ちゃんのお母さんの、形見」
「トビ、って?」
「里にいた、幼馴染み。一緒に、外の世界を見に行こうって、約束したの」
セフィの声に、少しの陰りが混じった。トビが、あの日、どうなったのか――結局、確かめる術のないまま、セフィはこの旅を続けている。
「その約束、まだ、覚えてるんだな」
「うん。忘れない」
セフィは、木彫りの鳥を、指先でそっと撫でた。冷たいはずの木の感触が、いつも、どこか温かく感じられた。
「セフィ」
キーラが、少し改まった声で、名前を呼んだ。
「なに?」
「お前は、抱えてるものが多いな。両親のことも、そのトビって奴のことも、リアナのことも」
「うん……そうかも」
「それでも、前に進もうとしてる。大したもんだ」
キーラの言葉は、飾り気がなく、けれど、まっすぐだった。セフィは、その言葉を、じっくりと胸の中で咀嚼した。
「キーラも、同じだよ。お兄さんのこと、抱えながら、前に進んでる」
「……そうかもな」
キーラは、それだけ答えると、焚き火に、新しい薪をくべた。炎が、一段と明るく燃え上がる。
「明日も、長い道のりだ。寝ておけ」
「うん、おやすみ、キーラ」
「ああ、おやすみ」
星明かりの下、二つの寝息が、少しずつ重なっていった。まだ出会って間もない二人だったが、この旅路の中で、確かな絆が、少しずつ育まれ始めていた。セフィは、眠りに落ちる直前、ふと、リアナの最後の言葉を思い出した。
*キーラと一緒に、行きなさい。あの子は、きっと、あなたの力になってくれる。*
「うん、リアナお姉ちゃん。ちゃんと、頼りにしてるよ」
小さくそう呟いて、セフィは、静かに目を閉じた。
隣で、キーラの規則正しい寝息が、小さく聞こえ始めていた。焚き火の爆ぜる音が、時折、その静けさに小さな彩りを添える。明日も、また新しい景色が、二人を待っているはずだった。セフィは、その先に待つものへの、微かな期待と不安を、胸の奥にそっとしまい込みながら、深い眠りへと落ちていった。




